第52回:「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」傍聴記「津島に戻るかどうか、政府がその選択を強制するのは間違いです」(渡辺一枝)

 3月20日(月)は、仙台高等裁判所で「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」第3回期日の傍聴に行ってきました。福島第一原発事故で避難を余儀なくされた福島県双葉郡浪江町津島地区の住民らが、国と東電に損害賠償などを求めて起こした裁判です。

 裁判は午後3時からでしたが、その前に裁判所の向かいにある片平さんかく公園で、ミニ集会がもたれました。傍聴抽選券配布は2時からで2時半が抽選の予定でしたが、抽選は行われず希望者全員傍聴できました。
 今回は原告意見陳述がありました。その内容を、陳述書から引用します。

原告意見陳述──愛する津島のために私は新たな開拓民として生きる(紺野宏)

 私は、紺野宏 63歳です。私の母 紺野禮子(88歳)とともにこの裁判の原告となっています。
 第一審の裁判で私は意見陳述書を提出し、現地進行協議の期日に津島の自宅を裁判官に見ていただき(2018年9月27日)、その後、裁判所で原告本人として証言も行いました(2020年3月18日)。
 証言では、200年以上続く庭元としての伝統芸能である「田植え踊り」に若い頃から関わってきた話、2003年に私が津島地区体育協会会長として企画した「津島ふれあい体育祭」について、主にお話ししました。
 今日は、その後の私の状況と思いについて意見を陳述します。

 私は、福島第一原発事故の翌年である2012年4月に、大きな会場で「何があっても自分は津島に戻る」という決意を表明しました。
 と言っても、当時は、消極的な理由でした。50歳台後半になった自分が、新たな土地で人間関係を構築するのは難しいのではないか、ましてや齢80歳にもなる母をそのような環境に置くことはできない、という理由からです。当時、全国に避難した津島の知人からは、避難先で「税金どろぼう」などの心無い誹謗中傷を受けて生きた心地もしないまま、迫害に耐えてひっそりと暮らしているという話をたくさん聞いていました。自分たち家族には、津島しか生きる場所は無いのだと直感的に思っていました。

 私は、郡山市のアパートで避難生活を開始しました。アパートから職場に往復する日々が毎日続きました。便利ではありますが、メリハリの無い毎日を送っていました。
 その時に、不便で厳しく忙しいけれど、充実した津島での生活が私の脳裏には蘇りました。春夏秋冬の季節の移り変わりを身体全体で感じることのできる津島の豊かな自然、地域行事を通じた地域の住民との交流、先祖代々から受け継がれる歴史と文化の重み。津島の生活は、厳しい面もありましたが、私にとって『生きている』という実感を、日々感じることができる日々でした。

 そこで、私は築200年以上の津島の自宅を改築し、避難解除になったあかつきには津島の実家に必ず戻るという不退転の決意をしました。
 しかし、これまでは国の法律で居住が制限されていたため、改築工事に協力してくれる業者はありませんでした。
 2018年4月、ようやく私の居住していた地域が復興再生拠点区域に指定され除染が行われることになり、将来的な帰還の見通しが見えてきました。それまでは、どこの建築業者に相談しても、除染の目処が立たない限り工事は引き受けられないと断られ続けていました。
 2020年12月、私まはず、福島県の地元のボーリング業者にさく井工事を依頼しました。
 その後、2020年12月に住友林業ホームテック(株)と自宅の改築に関する設計施工請負契約を締結し、以下のように自宅の改築工事を進めてきました。

 ●2020年12月19日 契約締結
 ●2021年7月29日 解体作業開始
 *母屋は、柱・屋根・梁を残し内装全体を解体
 ●2022年12月10日 改装工事完了
 *旧牛舎は、柱と梁を残し、土台と屋根は取り外し
 ●2021年2月18日 工事請負契約締結
 ●2021年7月〜  改装工事開始
 ●2022年6月30日 工事完了

 工事の間、私は町に申請を行い立ち入りの許可をもらった上で、毎週週末に郡山のアパートから津島の自宅に通いました。朝9時30分頃から現場監督や大工、左官、電気工事業者などと工事の進捗状況の確認、施行の変更などの打ち合わせを行い、その後田畑の手入れ(保全管理)の作業を行い、夕方まで津島で過ごしました。自宅に出向く際には、途中にあるコンビニエンスストアで昼食用の弁当を購入して行きました。

 改装には、多額の費用が掛かりました。
 ⑴まず、ボーリング費用として240万円(自己負担)が掛かりました。
 ⑵母屋の改装に、当初契約予算は5000万円、その後工事変更があり最終的には5500万円。
 ⑶牛舎の改装に2400万円。
 総額では、改装関連費用だけで約8000万円が掛かりました。
 その費用の原資は、東京電力から家族4人に対して支払われた賠償金を元手に農協から預金担保の融資で賄い、足りない分は東京電力からまだ受領していない賠償金を充てる予定です。
 ⑷改装工事は、更地に新築の建物を建築するのに比較して、倍近くの費用が掛かります。また、工期も1年半余り、新築の工期(約6ヶ月)の3倍の工期がかかりました。

 知り合いからは、テレビ番組の「(大改造!!劇的)ビフォーアフター」に申し込みしないかと提案されました。しかし、故郷を失った私たちの思いが果たして伝わるのか、かえってこんなに賠償金をもらっていい身分だという誤解が広がるのでは無いかと考え、申し込みは断念しました。

 私は最近夢を見ます。自分が死んでしまう夢です。私には引き継ぐ子どもがいません。
 私がこんなに苦労して津島の家を再生させても自分が死んだらどうなるのだろうか? 夜中に寝汗をかいてはっと目が覚めます。
 しかし私には、妻と4人の兄弟姉妹(長姉、弟、妹、なお次姉は平成17年に逝去)、8人の甥と姪がいます。
 私が津島に戻って住むことについて、兄弟姉妹と甥・姪は大変喜んでくれています。兄弟姉妹にとっては、自分が生活した家であり、甥・姪は子どもの頃、8月のお盆に帰省して母屋の大広間に男部屋、女部屋に分けて、それぞれ10人ほどで雑魚寝をした楽しい思い出のある家です。
 そんな家が残ることを親族は、とても喜んでいます。
 私が死んだあと、甥・姪をはじめとした子孫が、年に1回でも掃除に訪れてくれれば良いと思っています。

 今年5月までには、自宅に転居する予定です。周りに誰も住んでいない家に戻ることに不安はないのか、と周囲からは言われます。
 私は、自分のこれからの津島での人生をポジティブに考えています。戦後、津島には多くの大陸引揚者が入植しました。身体一つで津島にたどり着き、鍬一つで山を切り開いてきました。その入植者たちの苦労に比べれば私の背負う苦労は、100分の1、1000分の1です。
 入植者たちは、その苦労に耐え豊かなコミュニティを築き上げました。
 私は、新たな開拓者として、津島に戻ることを決意しました。将来の津島において名もなき「ともしび」となれば本望です。私が津島に蒔いた「ともしび」種が後世につながり、いつしか再び活気にあふれたふるさと津島につながればよいと思っています。
 2023年2月5日に浪江町の復興拠点の解除説明会があり参加しました。復興再生拠点区域の住民は、避難指示の解除から1年以内に家屋の解体を決断するかどうか、を迫られています。既に8割の住民は解体を申請していると聞いています。
 住民は、みんな元の津島の生活に戻りたいのです。しかし、さまざまな事情でそれはかないません。政府が、津島に戻るかどうか、その選択を強制するのは間違いです。
 それでも戻るという決断をした人を全力で支援し、その決断を次の世代に引き継いで豊かなふるさと津島を保全していくことこそが、国や東京電力のやるべきことではないでしょうか。

 裁判官には、ぜひ現地進行協議を実施していただき、今年5月には、改装し居住を開始した我が家を見にきてください。
 そして、ふるさと津島の復興を願う私たちの願いを、肌で感じてください。

報告集会

 閉廷後、仙台市戦災復興記念館で裁判報告集会がありましたが、持参した録音機が不調で、メモもしっかり取れておらず、概略のみ記します。

 冒頭、代理人弁護士たちが進行協議に臨んでいる間に、弁護団の一人高橋利明弁護士が2022年6月17日に最高裁が出した「生業訴訟」など4訴訟判決の多数意見(裁判官4名中3名の意見)で、「国に責任無し」としたのは大きな誤りであることについて、縷々話されました。
 進行協議を終えて弁護団の他の弁護士も報告集会会場に入り、白井剣弁護士から進行協議で決まったことが報告されました。次回(第4回)期日は4月26日(水)14:30〜、裁判官らはその後5月25日に津島に入り、この日1日かけて現地で進行協議を持つとのことでした。実際には現地検証ですが、「検証」とするとそれなりの書面を整えなければならないため「進行協議」という形で現地入りするのだそうです。白井弁護士からは、「先ほどの原告意見陳述での紺野さんのとどめの一言が裁判官の気持ちを動かし、現地を訪れることになったのだろう」との言葉がありました。
 小野寺利孝弁護士が次のように述べて、報告集会は終わりました。
 「3月10日に仙台高裁で判決が出たいわき原発避難者訴訟では『ノーモアフクシマ』を掲げて、国に責任なしとした6・17最高裁判決を覆そうとしてやってきたが、覆すことはできなかった。最高裁判決を下級審で覆すのは非常に難しい。しかし今日の閉廷後の進行協議では5月に現地に行こうと石栗(正子)裁判長は決意された。それは、現地を見て、加害・被害をしっかり見て判断しようということだろう。
 最高裁判決を覆すということは、(裁判長にとって)非常な重圧がある。自分の身だけではなく、まだ若い左右の陪席裁判官の将来にも責任がある。主戦場は法廷の外にあると考える。世論が大きく支え、そのうねりが裁判所に届けば、石栗裁判長は応えるだろう。結審までにはまだ時間がある。6月17日には東京で、大きな集会をやろうと動いている。我々は石栗裁判長が歴史に残る判決を書くように、大きなうねりを作っていこう」

 熱く語られた小野寺弁護士の言葉でしたが、私自身は石栗裁判長に期待はできません。けれども主戦場は法廷の外にあるという言葉や、世論が大きなうねりを作っていくことの大切さは強く感じています。次回期日4月26日も、傍聴に行く予定です。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。