第633回:岸田首相襲撃事件から考える、「無差別」ではなくターゲットが絞られた事件の続発について。の巻(雨宮処凛)

 4月15日、岸田文雄首相を目がけて一本のパイプ爆弾が投げつけられた。

 逮捕されたのは24歳の男。男は昨年6月、年齢制限や供託金が用意できなかったことで参院選への出馬を阻まれたとして、国を提訴していた。

 昨年10月に提出された裁判の準備書面には、「安倍晋三の様な既存政治家が、政治家であり続けられたのは、旧統一教会の様なカルト団体、組織票をもつ団体と癒着していたからである」「岸田内閣は故安倍晋三の国葬を世論の反対多数の中で閣議決定のみで強行した。このような民主主義への挑戦は許されるべきものではない」などの主張が綴られている。

 そんな男は逮捕後、黙秘を続けていることから、まだまだ全体像の解明にはほど遠い。というか現時点でわかっていることはあまりにも少ない。

 しかし、ひとつ言えるのは、男がおそらく不満や鬱屈を抱えていたこと。そしてこれまで同様の鬱屈を抱える者が無差別に暴力を行使する傾向にあったのに対し、その矛先をこの国の最高権力者に向けた点だ。安倍元首相が銃撃され殺害されてから9ヶ月。これは一体、何を意味するのだろう。

 東京新聞で、中島岳志氏は以下のように語っている。

 「恐れていたシナリオが起きていることを大変危惧している。2008年の秋葉原事件など、貧困や格差問題、生きづらさを背景とした無差別殺傷事件が続いたが、最近は標的が具体化し、暴力が政治家や有力者に向かっていく時代に突入した。連鎖すると非常に危ない状況が生まれていく。連鎖を止めることが非常に重要だ」

 この「標的が具体化」という点、私もまったく同様の危機感を抱いている。

 思えば2000年代、私たちは「誰でもよかった」という言葉を数多く耳にしてきた。08年、茨城県・土浦で起きた無差別殺傷事件の犯人はそう口にし、同年、東京都・秋葉原で無差別殺人事件を起こした加藤智大は事件の3日前、掲示板に「『誰でもよかった』 なんかわかる気がする」と書き込んでいる。

 しかし、近年の事件を振り返ると、「誰でもよかった」という言葉を耳にすることは急激に減っていないだろうか。

 例えば16年、神奈川県・相模原の障害者施設で19人が殺された事件。殺害の対象は「障害者」だけに明確に絞られていたし、21年、小田急線で30代の男が乗客らを切りつけた事件では、ターゲットは「幸せそうな女性」でなければならなかった。

 それだけではない。21年8月、在日コリアンが多く暮らす京都のウトロ地区で火災が発生し22歳の男が逮捕されたが、「韓国が嫌いだった」という男は裁判で、放火という手段が誤りだったと認めつつも、一貫して目的は正しかったと訴えている。韓国へのヘイトをまったく隠さず、次のヘイトクライムを「予言」さえしている始末だ。

 男の情報入手先は「ヤフーニュースのコメント欄」だそうで、BuzzFeed Newsの取材に対して「日本のヤフコメ民にヒートアップした言動をとらせることで、問題をより深く浮き彫りにさせる目的もありました」とも語っている。

 そんなヤフコメ、事件前の植松聖(相模原事件で逮捕。現在死刑囚)が常連だったことは多くの人が知るところだ。

 ターゲットが絞られた事件はそれだけではない。

 22年3月、立憲民主党の辻元清美氏の事務所窓ガラスが割られ、29歳の男が逮捕されたが、男が起こした事件はこれだけでなく、4月には大阪府・茨木市のコリア国際学園に侵入して段ボール箱に火つけ、5月には大阪市淀川区の創価学会の敷地に侵入。やはり窓ガラスをコンクリートブロックで割っていたことが判明した。

 裁判で犯行動機について「立憲民主党は日本を滅亡に追い込む組織」「在日韓国・朝鮮人を野放しにすると日本が危険に晒される」「創価学会も日本を貶める組織」などと思ったことと語ったという。

 男は旭川のいじめ自殺問題で社会問題に興味を持つようになり、そこからTwitterやYouTubeで情報収集をした果てに、立憲民主党、在日コリアン、創価学会を「反日的」と思うようになったという。

 頭を抱えたくなるのは、この並びには何の法則も思想性もないことだ。

 従来の右翼、左翼などという括りを軽々と飛び越えている。一方、匂い立つのは犯人の使命感だ。「こいつらが悪いのだ」と敵を名指し、実際に行動に移している。やはりウトロ放火事件や相模原事件にも強烈な使命感が漂う。荒唐無稽としか言いようがない動機と事件の重大さのコントラストに、めまいがするのは私だけではないだろう。

 ターゲットが絞られる点では、昨年12月に起きた宮台真司氏襲撃事件も不気味である。容疑者死亡によって真相は闇の中だが、どこからどのような情報を得て、宮台氏を襲撃するに至ったのか。しかもかなり周到に準備している。

 さて、ここまでの事件で共通するのは、宮台氏の事件を除き、犯人は20〜30代の若い男性という点だ。

 そのようなことから思い出すのは、昨年7月に39歳で死刑を執行された加藤智大のことである。静岡の自動車工場で派遣で働いていた彼は、事件の少し前、職場で派遣切りの話を持ちだされる。その後、話は一旦白紙になるものの、事件の3日前、職場でツナギ服がなくなった。

 その日、加藤は掲示板に以下のように書き込んでいる。

 「作業場行ったらツナギが無かった 辞めろってか わかったよ」

 翌日には以下のような書き込み。

 「あ、住所不定無職になったのか ますます絶望的だ」
 「やりたいこと…さつじん 夢…ワイドショー独占」
 「工場で大暴れした 被害が人とか商品じゃなくてよかったね」
 「それでも、人が足りないから来いと電話が来る 俺が必要だから、じゃなくて、人が足りないから 誰が行くかよ」
 「別の派遣でどっかの工場に行ったって、半年もすればまたこうなるのは明らか」

 そう書いた翌々日、あの凄惨な事件が起きるのだ。

 加藤は裁判が始まると、一貫して事件の動機を掲示板の「なりすまし」だと主張した。この主張には、誰もが拍子抜けするような感覚を抱いたのではないだろうか。

 私もその一人だったのだが、事件から15年、中島岳志さんと加藤について話す機会があり、なぜ、彼があれほど「なりすまし」に怒り狂ったのか、深く納得した瞬間があった。

 ネットの掲示板だけが居場所となるほどに、彼は多くのものを奪われていたのだと。

 例えば自分の親世代(団塊世代)を見ると、「溜め」があったんだなぁ、と遠い目になる。

 「溜め」とは、湯浅誠氏が積極的に提唱していた言葉で、意味するところは人間関係や貯金、企業の福利厚生、相談できる人や頼れる家族など。そういうものがある状態を「溜めがある」、ない状態を「溜めがない」と言う。そうして貧困は、お金がないだけでなく「溜めがない」状態なのだと。

 もうひとつ、湯浅さんが提唱していたのは貧困に至るまでの「五重の排除」という概念だ。

 家族福祉からの排除。教育課程からの排除。企業福祉からの排除。公的福祉からの排除。そして自分自身からの排除。困った時に頼れる実家や就職に有利な学歴、また失業保険や生活保護などの社会保障制度などなどから排除された果てに、人は貧困に陥る。

 加藤を見ると、かろうじて教育課程からは排除されていないものの、虐待を理由に家族福祉からは排除され、派遣という働き方ゆえ企業福祉からも排除され、公的福祉の対象ともならず、また自殺願望という形で自分自身からの排除とも隣り合わせだった。

 一方、私の親世代の多くはそのような排除から免れ、十分な「溜め」がある人が多かった。

 だからこそ、結婚し、子どもを持ち、ローンを組んで家を建て、子どもに教育を受けさせることができた。地域での人間関係があり居場所があり、「一人前」に扱われてきた。男性は働いてさえいれば、そして女性は結婚さえしていれば、「一人前でない」という尊厳の削られ方をすることはあまりなかったように思う。それはそれで、そのレールに乗れない人にとっては生きづらい社会だろうが、未婚率も非正規雇用率も今よりずっと低かった。

 翻って、ロスジェネとそれ以降のゆとり世代、さとり世代、ミレニアル世代、Z世代からは「溜め」は急速に失われている。

 まず、「雇用の安定」と「定住」という究極の「溜め」が手に入れられない層が一定数存在する。この層は、04年の製造業派遣の解禁を機に一気に膨らんだ。

 そんな製造業派遣の解禁から約20年。

 今も多くの人が、仕事のない地元から離れて各地の工場などを転々とする生活を送っている。そんな生活では人間関係も流動的でぶつ切りになる上、数ヶ月しかいない地域社会との関係も作れない。そのような生活が長く続くほど、地元との関係も疎遠になっていく。

 そうして仕事を求めて各地の「寮付き派遣」を転々としていると、次の仕事も「寮付き派遣」が条件となる。職と同時に住まいを失う生活だからだ。半年先、3ヶ月先の自分がどこで何をしているかわからない生活では、恋人を作ることにも前向きになれないだろう。「飲みに行けばいい」と言ってもそんなお金もない。安定雇用と定住が得られない生活は、人から人間関係と居場所を容易に奪っていく。友人もだ。

 「溜め」を少しずつ失っていた加藤にとって唯一残ったのが、ネットの掲示板だったのだ。

 さて、これまで紹介した事件について素朴に思うことがある。

 それは「友達がいれば事件は起きていないのでは」ということだ。

 「ウトロが悪い」「創価学会が悪い」「幸せそうな女性が悪い」と息巻いた時、「それは違うよ」と突っ込んでくれる友達が一人でもいれば。或いは加藤が派遣切りに怯え、なりすましに怒り狂っている時、一緒にゲームしたり酒でも飲んでくれる友人がいれば、あんな凄惨な事件は起きていなかったのではないか。

 しかし、彼らは孤立していた。おそらく、凄まじいほどに。

 その「孤立」に、私はコロナ禍の3年間、直面しても来た。困窮者支援の現場などで、加藤と同世代・アラフォーの製造業派遣の人々と多く出会ってきたのだ。なんとかこれまで寮付き派遣を転々とすることで綱渡りのように生きてきたものの、コロナでとうとう路上生活となってしまった、という「定住」と「安定雇用」を失って久しい人々だ。

 相談会だけではない。20年3月に立ち上げられた「新型コロナ災害緊急アクション」(反貧困ネットワークが呼びかけて結成された。困窮者への駆けつけ支援などをしている)にも、同様の立場の人から多くのSOSメールが寄せられている。

 「工場のラインが止まって寮で待機しているものの現金も食料も尽き、何日も水だけでしのいでいる」「3日前にホームレスになった」などの相談だ。

 これまでに寄せられた相談メールの総数は約2000件。職種は製造業から飲食、事務、小売などなど多岐にわたるが、ほとんどが非正規雇用。7割がすでに住まいがなく、2割が所持金ゼロ円だ。

 そんな話をすると、たまに年配の方から「なぜ、困った時に相談できる人もいないのか」「なぜ見ず知らずの支援団体に助けを求めるのか」と聞かれたりする。頼れる人がいないのは本人の人格的な問題では、なんて言われることもある。しかし、労働法制の規制緩和は、「溜め」のない人々を膨大に生み出してきた。寮付き派遣に限らず、不安定雇用を転々としてきた人たちの多くは「困った時に頼れる人」「相談できる人」がいない。職と住まいが流動化することは、人を孤立させることとイコールだったのだ。だからこそ、支援団体にこれほどSOSが届いているのだ。

 さて、木村容疑者は無職ということが報道されているだけで、その背景は何もわからない。

 しかし、揺るぎない事実としてあるのは、数十年かけて進められてきた雇用破壊が、個々人から人間関係や居場所までをも奪ってきたことだ。が、「自己責任」という言葉はより強固に社会に根を張っている上、「それは雇用とか関係なくコミュ力の問題」などと言われたら黙り込むしかない。そんな中、多くの人が生きづらさを抱えているのに、その原因が何なのかは構造への深い理解と圧倒的な知識がないと、説明などとっくにつかなくなっている。

 そういった状況の中から出てきているのが、玉石混交のネット情報に飛びつき、「これこそがあらゆる問題の元凶」と思い込んで個人的に「決起」してしまう「無敵」に近い人たちだ。

 ターゲットは、絞られている。それがどんなに荒唐無稽でも、本人にとってはおそらく「世直し」なのだからタチが悪い。

 安倍元首相襲撃事件から9ヶ月。日本社会は、まったく違うフェーズに入ったようである。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。