第54回:ふくしまからの日記──南相馬「一時的にでも帰ってきた人が気持ちよく思えるように」(渡辺一枝)

 裁判傍聴のために福島や仙台に行った時には、その前日か翌日のどちらかで会いたい人に会ったり訪ねたい場所に行ったりします。
 1月19日に仙台高裁で「津島訴訟」控訴審を傍聴した翌日は、南相馬市の「日本基督教団小高伝道所」を訪問し、それから「ビジネスホテル六角」の大留隆雄さんに会いに行きました。2月1日は同じく仙台高裁での「子ども人権裁判」判決を傍聴し、2日は吾妻山中腹のメガソーラー発電所を見てから福島市の椏久里珈琲店に行き、コーヒーを飲みながら久しぶりに市澤美由紀さんとの会話を楽しんできました。そして3月27日「子ども脱被ばく裁判」(仙台高裁)の翌日は吾妻山の風力発電施設を見に行ってきました。
 裁判傍聴後に訪ねた場所での見聞を、ここでお伝えします。今回は、1月に行った南相馬でのお話と、そこでよみがえってきた3・11からの記憶について──。

 1月19日の仙台高裁傍聴後は、南相馬市へ向かいました。この日は小高駅前の双葉屋旅館に宿泊予約をしてあります。いつもは双葉屋さんへ泊まる時の夕食は宿で頂きますが、この日は別でした。友人の(高村)美春さんと双葉屋旅館の女将の(小林)友子さんと私で「女3人の悪巧み」と称して、外で食事をしながらお喋りをしましょうという計画を立てていたのです。美春さんが予約しておいてくれた店は、「浦島鮨」でした。「浦島鮨」と聞いて、3・11からの日々を思い起こしたのでした。

小高へ

 2011年3月11日、「原子力緊急事態宣言」が発令され、12日には福島第一原子力発電所から20キロ圏内に避難指示が出されました。そして4月22日に政府は、福島第一原発から20キロ圏内は「警戒区域」、30キロ圏内を「計画的避難区域」、30キロ圏外は「緊急時避難準備区域」と指定しました。南相馬市小高区はほぼ全域が20キロ圏内です。小高の人たちはそれぞれいずこへか、避難していきました。
 2012年3月30日に国の原子力災害対策本部は避難指示の見直しを行うことを決定して、区域の再編がされました。年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域は「帰還困難区域」、20ミリシーベルトを超える恐れのある地域は「居住制限区域」、年間積算線量が20ミリシーベルト以下が「避難指示解除準備区域」となりました。そして南相馬市小高区は出入りが一部緩和され、この年の4月16日から、日中は帰還困難区域を除いて出入りができるようになりました。
 私は4月15日に南相馬に行き、いつものようにビジネスホテル六角に宿をとって、ボランティアグループ「六角支援隊」の仲間たちと仮設住宅に支援物資を届けて、夜を待ちました。私の部屋は2階で、窓からは国道6号線上の原発から20キロ地点のゲートがよく見えます。そこの路上にはいつもお巡りさんが2名立っていて、そばには通常のパトカーのほか、大型の警察車両も止まっていました。日本各地から派遣されてくるようで、車両のナンバープレートが時々変わっていました。記憶は不確かですが確か2週間交代だったと思います。
 4月16日には、20キロ地点で出入りを制限していたゲートが開きます。どのようにその作業がされるのだろうかと興味津々で、私は15日の夜更けから窓のカーテンを開けて外を見ていました。いつもはひっそりと物音が絶えていたのに、夜11時過ぎから赤いランプを点滅させた警察車両が何台もやってきて、大勢の警官が何事か言い合いながら動き回っていました。そして、日付が変わる0時きっかりに、ゲートが撤去されたのでした。「へぇ〜、そうなんだ!」と妙に感心しながら、その様子を私は眺めていたのでした。
 翌朝9時過ぎに六角支援隊の荒川陽子さんと鈴木時子さんが迎えにきて、3人で小高に向かいました。その日に20キロ圏内で見た風景は、手付かずの震災直後のままの情景でした。津波で流された車、崩れた家屋、波打って裂け目の入った道路、海に戻ってしまったような畑地。散乱する看板や家の一部や家具や瓦礫になってしまった何か……。
 それからも、何度も小高に行きました。また仮設住宅に避難している小高の住民の方たちから、被災前の小高での暮らしをお聞きしてもきました。そうしたことを重ねてくる中で、小高が「被災地」としてではなく私にも大事な場所、ヨシ子さんやハルさんや梅田さん、昌治さん、和ちゃん、友人になった人たちみんなの暮らしがあった地になりました。小高に行く度に、駅前の双葉屋旅館前の歩道には花植えされたプランターの列が伸びていき、友子さんとの会話も弾むようになっていました。そんな中で友子さんがふと漏らした言葉、「一時的にでも帰ってきた人が気持ちよく思えるように、誰も居なくて荒れた寒々した町ではなく気持ちいいなぁと思えるように花を植えてるんだけど、『人が住めないような危険な場所なのに、安全だと宣伝してる』なんていう人もいるのよね」。友子さんのその言葉は今も私の胸の内に残って、市民運動のあり方を考える指針になっています。

避難指示解除と浦島鮨

 小高区では、2016年に帰還困難区域を除いて避難指示が解除されることになり、前年の2015年夏には申請すれば帰還準備宿泊といって夜間の滞在もできるようになりました。でも小高に自宅のある私の友人たちの中では、自宅に戻ると言ったのは松本さんだけでした。その頃小高に行っても通りを歩く人に出会うこともありませんでしたし、夜間に電灯がついた家を見ることもありませんでした。だから避難指示が解除されても、一体どれだけの人が戻るだろうか、町は息を吹き返すのだろうかと思っていました。
 避難指示解除は年度始めの4月ではなく、7月末の土・日・月に開催される「野馬追い」に先立つ7月12日と決まりました。4月には、また六角支援隊の荒川さん、鈴木さんと一緒に、飯崎(はんざき)の枝垂れ桜を見に小高に行きました。ちょうど見頃で、私たちは車を降りて足もとに咲くタンポポ、イヌノフグリ、ホトケノザなどを踏みながら、深呼吸するように枝垂れた枝に満開の桜を愛でたのでした。それから小高川の堤防の桜並木を眺めながら駅の方へ行きました。
 「わぁ浦島鮨、再開するんだ!」。運転していた荒川さんが歓声をあげ、ほとんど同時に鈴木さんも「今日が開店なんだ!」。二人の声には、喜びが溢れていました。私はそれまでそこを通るたびに「浦島鮨」の看板を見ていましたが、人の気配を感じられない街で見る寿司屋の看板にはなお一層の寂寥感を思うばかりでした。ところがその日、開店祝いの華やかな花輪が数本立ち並び、駐車場にも2、3台の乗用車が停車しているのを見た私の気持ちも浮き立って、避難指示解除後の小高に活気が漲っていく様を思い浮かべたのでした。

 それから後にも何度も小高に行きました。避難指示解除後の2、3年は通りを歩く人の姿を見ることは滅多になかったのですが、月日を重ねる中で朝の散歩の折には、駅へ向かう人の姿を見るようになりました。駅前通りには新たに開店する店もポツリポツリと出てきました。でも浦島鮨の前を通ることも度々ありましたが、いつ見ても営業しているようには見えなかったので、もしかしたら予約のあった時だけ開店するのかもしれないなどと思いました。それでもどうか店が潰れずに続いていて欲しいと、前を通るたびに祈るような思いで見ていたのでした。
 やはり駅の近くですが、浦島鮨と同じように避難指示解除後に再開した「双葉食堂」というラーメン屋がありました。被災後は避難先の鹿島区で店を続けていて、避難指示解除になって元の場所で再開したのです。被災前から人気のある店で、避難先の店へも、遠くからわざわざ食べに来る人もあった店だそうです。小高で再開した店の開店時間は昼の数時間だけでしたが、いつでも入店を待つ人で行列ができていました。指示解除直後は他に食堂がなかったためもありますが、他に店ができてからも行列は絶えませんでした。でもその人気店が、2022年秋に閉店したのです。それを知って、どうか浦島鮨が続いていきますようにと、また祈る思いでした。私は浦島鮨には再開開店の花輪を見ただけで店に行ったことはなかったけれど、私の中では小高のこれからを占う、いわば象徴のように思えていたのでした。
 だから、2023年1月「女3人の悪巧み」会場を浦島鮨にしたと美春さんから聞いた時、本当に嬉しかったです。でも落ち着いて考えてみたら、私が店の前を通る時間帯は朝とか早い午後などと、寿司店が店を開けているような時間帯ではない時ばかりでしたから、ひっそりと閉じていたのは当たり前のことでした。
 さて、浦島鮨での「女3人の悪巧み」、これは計画倒れになりました。というのも美春さんや友子さんの家族や親戚、知人のことなど、それらは店の主人もよく知っている人たちだったことから、被災前の小高やそれぞれの暮らしぶりなどに友人2人と主人との間で話が弾んだからです。それはまた私にとっても実に興味深いことでした。3人の話から原発ができる前と後の暮らしの変遷なども窺い知ることができました。
 そしてまた出されたお寿司の美味しかったこと! また行きたいお店です。

日本基督教団小高伝道所

 翌20日は、2011年の被災当時の様子を留めている教会が在ると聞いて、今野寿美雄さんとともに訪ねました。小高駅前通りの「日本基督教団小高伝道所」でした。飯島信(まこと)牧師が迎えてくださいました。恥ずかしながら私は、教会と伝道所の違いが判らず、まず、その違いを教えて頂きました。規模の違いということでした。
 室内はあらかた片付けられていましたが、職員室の黒板にはチョークで書かれた文字が2011年3月のままで残り、壁の時計の針は2時46分を示していました。2020年に他の教区からここに赴任してきたという飯島牧師は、隣接の小高教会幼稚園の園舎内を案内してくださりながら、「3・11の時に年少組だった子どもたちは今年、高校1年生です。年長組の子どもたちは高校卒業になります。15日に卒園式の予定でしたから、ここの子どもたちは卒園式をしないまま、みんなどこかへ避難して行きました。だから卒園式をしてあげようと思ったこともあるのです。ですが、ある方から『それは大人の考え方であって、子どもたちがどう思っているか判らないよ』と言われました。それでここを卒園した若い人に聞いてみたら、3・11のことは覚えていないというのです。それで卒園式はやめましたが、みんな今どこにいるのかも判らない。個人情報保護などで、調べようがありません」と言いました。
 子どもたちにあの日をどう伝え語り繋ぐ記憶にしていくのか、大人に課せられた責務でしょうか。
 園児たちが過ごした部屋の壁際には、名前が書かれたフックに、私物入れの袋が掛かったままでした。子どもたちの遊具や絵本などの図書類・紙芝居、机や椅子など幼稚園の備品類も、12年経った今も手を触れる人がないままそこに残されていました。激しい揺れに恐怖を覚えたその後で、訳もわからぬままに慌ただしく避難をせざるを得なかった不安と混乱の様子が目に浮かび、また、あの日からの時の流れを思いました。震災遺構でもあるここを資料館としてどのように残していくかと、小高の有志たちは毎月実行委員会を開いて話し合っているそうです。
 被災前の小高にはこの「教会幼稚園」の他に公立小学校に併設された「学校幼稚園」があって教会幼稚園は被災を契機に閉園しましたが、一方の学校幼稚園は「おだか認定こども園」として再開しています。住民数も被災前には戻らず、住んでいる人も高齢者の方が多く、小高に幼い子どもたちの声が溢れる日は、今はまだ望めないようです。

昼食は十割蕎麦

 前の日の晩「女3人の悪巧み」で浦島鮨から3人で双葉屋旅館に戻ってお茶を飲みながら、友子さんから「明日のお昼、お蕎麦を食べに行かない?」と誘いがかかり、美春さんもお昼は予定が入っていないということだったので、小高の「こごた」に行くことにしました。私は以前にも二度行った事がある蕎麦屋ですが、元警察官の小牛田一男さんが打つ十割蕎麦の店です。一度は仙台の友人を同慶寺に案内した時に、もう一度は今野さんと小高を回った時でした。美味しい店です。その頃は木曜日が休みでしたが、コロナ禍の今は金・土・日・月の昼間だけ、完全予約制で人数制限して営業しているそうです。小高に住んでいながらまだ行った事がないと言う友子さんが「明日は金曜日でやっているから行きたいの」と誘ってくれたのです。そして予約をしておいてくれたのでした。
 12時の予約だったので、今野さんと私は小高伝道所から11時過ぎには双葉屋旅館に戻り、11時半頃美春さんも来て、みんなで今野さんの車で「こごた」へ行きました。人家もポツリポツリしかない道筋のそこここには紅梅が、もう咲きはじめていました。「こごた」の入り口にも、また紅梅が花をつけていました。
 美味しいお蕎麦を堪能して玄関を出て、庭を見るとそこもまた数本の紅梅が植わっていました。「小高は紅梅が多いですね」と言った私に、友子さんが答えました。「小高城は『紅梅山浮舟城』と呼ばれていたからだと思うけど、相馬の殿様が紅梅を好まれたのかもしれないですね」。友子さんの言葉から、過ぎし昔の小高の風景を思い浮かべました。
 小高城は、鎌倉時代の終わり頃から江戸時代の初めに第16代当主の相馬義胤が本城を中村城に移すまでの約280年間、奥州相馬氏の居城でした。現在は城の本丸跡に相馬氏の守護神を祀る小高神社が建っていて、相馬野馬追祭りの最終日に裸馬を素手で取り押さえて神社に奉納する「野馬懸け」の場になっています。城は小高い丘陵の頸部を切り取る形で作られており、城の南を流れる小高川を外堀とし、西から北にかけては堀が巡っていて三面を水域と湿地で囲まれていたので「浮舟城」と呼ばれていたそうです。小高神社の北西に在る同慶寺は相馬氏の菩提寺として先祖や家臣が祀られています。
 双葉屋旅館へ戻る道の車窓に紅梅の林を見ながら私は、ひととき遠い古の日々に心遊ばせたのでした。

大留隆雄さん

 双葉屋旅館で美春さんと友子さんと別れた小高からの帰路、大留さんの家に寄りました。年が改まってからもお正月の挨拶もせずに過ぎていたので、失礼のお詫びかたがた会いたくて。小高を出る時に「これから行きます」と電話をすると、「そう。僕は2階にいるから玄関開けて入ってきて」との返事が返りました。ビジネスホテルを閉じてからも昨年春頃までは、ホテルの食堂だった部屋まで出てこられて、そこでお茶を飲みながら話していたのですが、去年からはもう、そこまでの移動も面倒になったようです。でも、足腰の痛みは消えているようですから、良かったと思います。
 2階の大留さんの部屋は、ベッドと座卓、冷蔵庫、テレビ、飲みたい時にはいつでもお茶など飲めるように茶碗や茶筒などを置いた棚、ポット、テレビなどがあって、その一部屋でほとんど一日過ごしているようです。たまに買い物などでスーパーに出かけるときはタクシーで行って帰るのだと言いました。大留さんが入れてくれたお茶を飲みながら、六角支援隊で活動していた頃の話でひとしきり盛り上がりました。
 「いやぁ、あの頃は僕も元気だったからね。なんだって、やってやれないことなんか無いって思ってたよ」と言う大留さんに、「陽子さんや時子さんが大留さんの両手両足になってくれていたからですよ。大将の大留さんが『ああしよう、こうしよう』と言う時に、2人がそうできるように動いてくれましたよね」と私が言うと、「そうだね。ほんと、あの2人だけじゃなくてみんなに助けられたね。一枝さんにもね」と大留さんが言うので、私が初めて南相馬を訪ねた日のことを話して、大笑いになりました。
 2011年8月、ビジネスホテル六角に着いて「予約していた渡辺です」と言うと応対に出た店の主人が「はい、いらっしゃい。初めてですか?」と言うので「はい、そうです」と答えたら「南相馬に何をしに来たの?」と、また問われたのです。ボランティアだと答えると、初老の小太りの主人は、私の頭のてっぺんから足の先までをまじまじと眺めながら「ふ〜ん」と言ったのでした。それが大留さんとの初めての出会いで、そのときのことを私が再現して話したのです。あの時の大留さんは、白髪でチビの私を見て「こんな婆さんがボランティア?」と思ったそうです。
 六角支援隊の活動は最初の年は、ビジネスホテル六角に届いた支援物資を仮設住宅に居る避難者に配る事が主でしたが、翌年からはビニールハウスや畑を作って避難者に提供したり、田んぼを用意して田植えに取り組んだり、集会所で様々な催しをしてきました。ある時大留さんは「ヤギを飼おう」と言い出して、さっさとヤギ小屋を畑に用意したのです。
 ところが陽子さんと時子さんの猛反対にあって、ヤギ作戦は頓挫してしまいました。いつも言い出しっぺは大留さんですが、実行のためのいろいろな手配などは陽子さんと時子さんが居ないと、うまく進まないのでした。何ヶ所もあるビニールハウスと畑だけでも、二人は日々フルに動いていました。作物を作るのは仮設住宅に入居している被災者たちで、草取りなども彼らがやっていましたが、場所の管理や収穫物の放射線量測定などは陽子さんや時子さんが測定所に運んで調べてもらってみんなに伝えていました。だから、これ以上は仕事を増やせない状態だったのです。
 それで早々と大留さんが用意したヤギ小屋を撤去するのに、また大童でした。その時のことを思い出してまた、大笑いしたのでした。でも笑いながらも大留さんは、「いやぁ、あの時ヤギ飼ってたら、仮設に居たみんなはきっとうんと喜んだと思うよ。世話だってみんながやったと思うんだよなぁ」と残念そうに言いました。
 思い出話に花が咲いた、この日の訪問でした。

 1月の裁判傍聴後の報告は以上です。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。