第55回:ふくしまからの日記──福島「これからは私は、凛として生きていきます」(渡辺一枝)

 前回に続き、裁判傍聴のために訪れた福島でのことをお伝えします。
 2月1日に仙台高裁で開かれた「子ども脱被ばく裁判(子ども人権裁判)」傍聴後は、仙台のホテルに泊まり、翌日は吾妻山中腹に建設されたメガソーラーを見に行ってきました。

2月2日 仙台から福島へ

吾妻山メガソーラー

 福島や仙台へ行くときにはいつも、現地での移動は今野寿美雄さんにお願いしています。そして今野さんには、訪ねたい場所をあらかじめ伝えます。今回行きたかったところは、吾妻山に建設された風力発電施設でした。
 2月1日は裁判傍聴とその後の報告集会も終えてから、原告の今野さんや支援者仲間たちで市中の居酒屋で「ご苦労さま会」での飲食後、ホテルに向かいました。冠雪した道を転ばぬように足を下ろしながら行きました。雪道を歩くにはコツがあって、いつものように踵から下ろすと滑りやすいので、足の裏全体でそっと踏み下ろします。道ゆく人の中には、ハイヒールで歩く人もいることに驚きます。でも、それに驚いて見とれていては、自分が転んでしまいますから自分の一歩に注意して歩きます。ご苦労さま会には「ふぇみん」の石田貴美恵さんも参加していました。それで石田さんにもお声かけして、翌日の吾妻山行きを誘いました。
 2日の朝、今野さんの車に同乗しながら、石田さんとは集会などでしょっちゅう顔を合わせて親しく話をしてきていましたが、こんなふうに行動を共にすることは初めてで、お互いにそれを面白く思い「改めましてよろしく」などと言い合って笑ったのでした。
 仙台市内を抜けて福島県に入り、国見町、桑折町を過ぎると高速道路を降り、一般道を行きました。路面に雪はなかったですが、窓の外は雪景色でした。次第に路肩は雪の壁のようになって、途中で作業中の除雪車に遭いました。そこより先はいくら四輪駆動車でも無理と判断して引き返しました。
 来た道を戻りながら「それじゃぁ風力発電は今度にして、別のものを見せてあげますよ」と今野さんが言って県道126号線を行くと、窓の外に見えてきたのはソーラーパネル。緩い上り坂のカーブを回って見えてきたのもソーラーパネル。またカーブを曲がって見えてきたのもやっぱりソーラーパネル。次を曲がってもソーラーパネル。吾妻山中腹の緩やかに起伏の続く辺り一面がパネルで埋め尽くされていました。山ひだの影になるあたりでは雪に覆われているパネルも多くありました。パネルで埋めつくされた山肌の光景に、石田さんと私はため息が出るばかり。元は牧草地だった地域で、186ヘクタールの広さだそうです。    
 道路と敷地の境界は有刺鉄線が張られており、それは有刺鉄線が張られた場所に差し掛かった位置からその先まで、ずいぶん長い距離に続くものでした。そのどこにも設置業者を示す表示はありませんでしたが、この大規模太陽光発電施設は、「あづま小富士第一発電所合同会社」の施設で、100MW(メガワット)を発電して東北電力に売電しているそうです。
 やがて微温湯(ぬるゆ)温泉にさしかかり、その先へもソーラーパネルは続いていそうでしたが、そこからはまた雪が深くて進めず、来た道を戻りました。
 この日は風力発電を見に行こうとしたのが叶わず、でも、その代わりにメガソーラー現場を見ることができたのでした。運転・ガイド役の今野さんは、こんなふうに依頼者への「傾向と対策」をよくわきまえて対応して下さるので、いつも頼りにして同行をお願いしています。私は時々「被災地ツアー」を企画して友人知人をお誘いしていますが、それもまた、今野さんがガイド役です。
 仙台で不動産業を営む友人にこのメガソーラーのことを話すと、彼は、宮城県にあるメガソーラー「オニコウベ発電所」は、もう既にオーナーが3回も替わっていると教えてくれました。また、同じく宮城県の丸森町で進んでいるメガソーラー計画は、最初にやってきたのはファースト・ソーラーというアメリカのメガソーラー会社ですが、今事業主体になっている「合同会社地方創生太陽光発電所2号」の実態は解らないと言いました。彼が地元の不動産会社から直接聞いた話では、土地の買収をしているのは、表向きは日本の無名企業ですが、実態は少し違っているようです。その会社は「ダミー」に過ぎないのです。土地を売った地主さんからの話はここに書くのも腹立たしくおぞましい内容なので省きますが、枠組みを言えば投資家からダミー会社が資金を募り、土地を買収し許可申請する。そして、一般の建設会社ではなく日立、東芝系など原発プラント系列の建設会社が工事を受注し完成、もしくは未完成であっても転売、という系図になるようです。要するに、再生可能エネルギーの衣を纏った資本家の金儲けということです。
 「これだけの大規模開発と複雑な行政の許認可が絡むプロジェクトが、全国で迅速かつ同時多発的に進むなんて、政治家や高級官僚が絡まないでできる筈はないのではないか」とは、彼の感想です。
 今また岸田首相は「原発回帰」を言っていますが、原発ではなく再生可能エネルギーを推進する力も大きいです。でも、どんなエネルギーを選ぶかの前に、まずエネルギー消費量を見直すことが大事なのではないかと思うのです。再生可能エネルギーを生み出すメガソーラーや大規模風力発電施設などの建設のために、自然破壊が進んでいるのです。吾妻山のメガソーラーは、もともと牧草地だったから森林伐採はなかったかもしれません。でも、山肌一面に黒いソーラーパネルを張り巡らせることが、自然環境にどんな影響を及ぼすか。私にもそれはよくわかっていませんが、自然は人間だけのものではないのだということだけは声を大にして叫びたい思いです。消費を減らしていく方向へ、生活の舵を切るべきではないかと思うのです。

椏久里珈琲店

 吾妻山を後にし、途中の店(店の名は忘れました)で美味しい十割蕎麦でお腹を満たして、市内の椏久里珈琲店へ向かいました。久しぶりの椏久里です。ドアを開けるとすぐに店主の市澤美由紀さんが気づいて、三人がゆったり座れるように二人掛けのテーブルをくっつけて四人掛けに直してくれました。
 メニューを見て今日はどのコーヒーにしようか迷いながら選び、運ばれてきたコーヒーを飲みながら美由紀さんと互いの近況報告をしあいました。私は、ある事情によって椏久里オーナーの美由紀さん、秀耕さん夫婦には特別な親しみを感じていて、時間が許せばいつも寄ってお二人の顔を見て行きたい店なのです。
 今から三十数年前のことですが、チベットに通い出して何度目かの時、私は息子と、友人の写真家、高橋曻さんと共にモンゴルからチベットに行ったことがありました。青海省の大部分は本来、アムドと呼ばれるチベットの北東地域です。その青海省の西寧からラサへの車の旅でした。ガイドは日本語が達者な中国人の王才旦さんで、旅の途中で息子は軽い高度障害を起こし、王さんにはとてもお世話になったのでした。
 それからまた数年後に別の友人で写真家の鎌沢久也さんに誘われてメコン河の源流を訪ねる旅に出たのです。その旅の出発は西寧からでした。そうしたら、西寧空港に迎えにきたのは、何と驚いたことに、王さんだったのです。王さんはすぐに私を思い出して、「お友達や息子さんはお元気ですか」と言いながら、自分の額から頭頂部をさぁっと撫でて見せたのです。スキンヘッドだった曻さんを指しての動作でした。私は二人とも元気だと答えながら、迎えの車を見てまたもやびっくりしてしまいました。三菱の四輪駆動車の車体には、「日中楼蘭探検隊」の文字があったからです。
 1988年に中国政府は、それまで閉ざしていた地、新疆ウイグル自治区の楼蘭を外国人に開放しました。そして日本から考古学者と共に朝日新聞社とテレビ朝日からの取材班が、中国隊と組んで「日中共同楼蘭探検隊」として楼蘭に入りました。その時に私の夫も、日本隊の一員として加わっていたのです。日本隊は車体に「日中楼蘭探検隊」の文字を入れた、三菱の四輪駆動車を連ねて行ったのですが、その時の1台がなぜか青海省の旅行会社の車になっていて、メコンの源頭を訪ねる私たちの乗る車になっていたのでした(余談ですがその翌年、朝日新聞社とテレビ朝日が、今度は「楼蘭学術文化訪問団」として楼蘭を訪問することになり、平山郁夫さんや中野美代子さんらと共に私も訪問団の一員として、憧れの楼蘭に行ってきました)。
 それから何年かして、王さんは青海省の旅行会社を辞めて、北京で政府の外交部門の仕事をするようになりました。その時期に、私がチベットからの友人を日本に招聘する時にはいつも、王さんに友人らの出国手続きを頼んでいました。
 さらにその後、2012年の秋、私の携帯に王さんから電話が入ったのです。「渡辺さん、私は今東京にいますよ。書記官として中国大使館に勤務しています。一度お会いしたいですね」と言った王さんと数日後に会いました。夕食を共にしながらいろいろ話をする中で、またまた、驚くようなことを聞いたのでした。
 王さんの流暢な日本語は、最初は農業研修生として日本に来て学び始めたのだと言うのです。農業研修生としてホームステイしていたのは、福島県飯舘村の「市澤さん」の家。そして、「原発事故の後で市澤さんたちは飯舘村から避難先の福島で喫茶店をやっています」と言ったのでした。その時は私はまだ椏久里珈琲店に行ったことはありませんでしたが、その名前は友人たちからよく聞いていました。また、原発事故後の飯舘村には何度も行っていましたが、事故前の飯舘村が青海省からの農業実習生を受け入れていたことは知らなかったので、王さんの話には、もう本当にびっくりしました。
 そして、その年の12月に椏久里珈琲店を訪ね、初対面の市澤夫妻に会った時に王さんとの経緯を話すと、二人もまた驚いていました。そんなことがあって秀耕さん、美由紀さんから原発事故後のことをお聞きするのはもちろん、もっとたくさんのことを互いに話すようになりました。特に美由紀さんとは娘として母との関係、母として息子や娘のことなどなど話し合ってきて、ずっと以前からの知己のように親しく感じているのです。
 仙台高裁での裁判傍聴翌日のこの日は、美由紀さんとは互いの近況報告の他に飯舘村の菅野哲さんらが起こしている飯舘訴訟のことや菅野榮子さんのことが話題になりました。美由紀さんは、榮子さんが村を出て埼玉に行ったことをつい最近まで知らずにいたようでした。

菅野榮子さんのこと

 2月25日未明、菅野榮子さんが逝去されました。

 2月24日、私は「マガジン9」の依頼で映画監督の古居みずえさんと対談をしていました。古居監督の新作『飯舘村 べこやの母ちゃん――それぞれの選択』がもうじき一般公開されるというタイミングでした。私は古居さんの1作目の映画『ガーダ パレスチナの詩』以来ファンになって、友人たちと立ち上げた「戦争への道は歩かない! 声を上げよう女の会」で、講演をお願いしたこともありました。
 この日、古居さんと話す中で、榮子さんのことが話題になりました。この対談の10日ほど前に電話で話をした榮子さんの近況を、私は古居さんに伝えたのでした。
 飯舘村は標高が500m前後で一年を通して冷涼な気候で、冬の気温はマイナス15℃を超える日も多く、寒さが厳しい地です。榮子さんは昨年の冬は、一人暮らしを案じる子どもたちに説得されて埼玉の娘の家でお正月を過ごしましたが、寒くても村の方が良いと、10日ほどの滞在でさっさと村に戻ってしまったのでした。でも、この冬、1年前よりも体力が落ち心臓の具合も悪く、子どもたちの説得を受けて埼玉の施設に入居することを決めたのでした。榮子さんは娘が二人、息子が一人いますが、娘の一人と息子が埼玉に住んでいるので、それで埼玉の施設入居を決めたのでしょう。
 12月29日、飯舘村の自宅で電話口に出た榮子さんは「1週間前から荷造り始めて、今まだ終わんねぇで、うんとこしょどっこいしょってやってるんだわぁ。今日、息子が迎えにきて、娘んとこ行ぐからな」と言いました。娘の家で10日間ほど過ごしてから施設に入る予定だと言いました。
 年が明けて1月になって何度かかけた電話がなかなか通じなかったのですが、ようやく電話で話ができたのは14日のことでした。「榮子さん、具合はいかがですか」と問うた私に返ってきたのは、とても力無い声の榮子さんの言葉でした。「一枝さん、正月は娘の家で過ごして10日にここに入っただけんじょ、ダメだなぁ、こんなとこに入ると人間ダメになんなぁ」と言ったのです。
 具体的な話はしませんでしたが、自然環境の厳しい中で自律して生きてきた人が馴染みのない土地で施設暮らしになった様子を想い浮かべて、その言葉を受け止めました。心臓疾患を抱えている榮子さんの体調を案じましたが、だからこそ救急医療体制のない雪の中の飯舘村の自宅で一人暮らすよりも、施設での暮らしが安心と自分の心を納得させたのでした。
 古居さんにも、榮子さんの電話越しのその言葉と様子を伝えたのでした。

 その後、古居さんから電話があったのは、翌日の朝7時過ぎでした。榮子さん逝去の知らせでした。朝の電話だったので話を聞く前に私もすぐに察しましたが、古居さんも、知らせを受けてすぐに彼女自身もまだ気持ちの整理ができないまま電話をくださったのでした。
 体調を崩して病院に入院して検査したところ、榮子さん自身も承知していた心筋梗塞だけではなく肝臓がんも発症していて、それがもう全身に転移していて病院ではそれ以上の手当の仕様がなく、その日にホスピス病棟へ転院することになっていたのだそうです。古居さんも知らされた言葉のままを伝えてくれながら、葬儀の日取りを伝えてくれました。お通夜には私は予定が入っていて行けずに告別式に伺いました。
 2月28日、南相馬市原町のメモリアルホール・フローラで、菅野榮子さんの神葬祭が執り行われ、私は榮子さんにお別れをしてきました。目を閉じた榮子さんは、声をかければすぐに「あら一枝さん、いつ来たの?」と起き出してくるような穏やかなお顔でした。

 3・11後に古居さんが飯舘村に通って撮った『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』は2016年に公開されましたが、これは伊達市の仮設住宅で暮らす飯舘村の2人の女性、榮子さんと親戚で友人の菅野芳子さんを主人公にしたドキュメンタリー映画です。映画が公開されるより以前に、私は長野県の小海町で榮子さんに会っていました。小海町のボランティアグループ「八峰村」と飯舘村「いいたて匠塾」の凍餅作り交流会を取材した時のことでした。その時の初対面での榮子さんの言葉は、深く心に刻まれています。被災前の村での味噌作り、凍餅作り、お祭りの日のことなどを話してくれ、被災後を話してくれ、最後にこう言ったのです。「まぁ、こんないろんな体験をしてきましたが、これからは私は、凛として生きていきます」。
 榮子さんからは、たくさん、たくさん学んできました。
 ありがとう!榮子さん。
 さようならは言いません。榮子さんは私たちの心の中に生きています。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。