ここのところ、新作ドキュメンタリー映画『五香宮(仮)』の編集に没頭している。
五香宮は、牛窓にある古くて小さな神社である。
2021年に撮影を始めたきっかけは、五香宮の敷地で暮らしている20、30匹の猫たちにある。飼い主のいない猫たちの保護活動に関わっていく中、カメラを回し始めた。
回し始めてまもなく気がついたのは、このどこにでもありそうな小さな神社が、不思議な公共性を持った、特別な場所だということである。
猫の世話をする人、花や木の世話をする人、掃除をする人、遠くから猫に会いにくる人、写真を撮りにくる人、参拝する人、すぐそばの釣り場へ釣りにくる人。さまざまな人が、さまざまな理由で五香宮にやってきて、彼らの人生がなんとなく交差したり、交差しなかったりする。同時に五香宮は氏神様なので、地域の伝統社会を束ねる精神的支柱かつ神聖な場所でもある。撮れば撮るほど、思わぬ発見があって面白い。
僕は撮影前にリサーチをせず、台本も書かず、テーマを設定しない。事前に知りすたり決めすぎたりすると、結論先にありきの予定調和に陥るからだ。
編集作業でも、同じことが言える。
編集前にテーマを設定せず、とにかく「面白い」「映画的だ」と思ったシーンから編集を進めていく。その作業を積み重ねていくと、面白いと思ったシーンが70〜80くらい出来上がる。それらがだいたい出揃ったら、とりあえず一本に繋げてみる。それが「第一編」となる。
しかし第一編はたいてい、シーンの羅列にすぎない。だから見ていてうんざりするほど面白くない。面白いと感じたシーンだけをつなげたのに、面白くない。どうしてだろうといつも不思議に思うが、映画とはそういうものだ。
本当の格闘は、そこから始まる。
シーンの順番を入れ替えたり、足したり、引いたり。
第二編、第三編、第四編……と出来上がるたびに、妻でプロデューサーの柏木規与子と一緒に観る。そして何がうまくいっていて、何がうまくいっていないのか、意見を交換する。そして次のバージョンにとりかかる。その過程で、だんだんと映画のテーマも見えてくる。映画の時間も流れ出す。
ラース・フォン・トリアー監督作品の編集ウーマンとして知られるモリー・マーリーン・ステンスガードによると、彼女とトリアーが編集する際の合言葉は「Don’t discuss, just try(議論するな、とにかく試せ)」であるそうだ。
それを聞いて以来、トリアーとステンスガードの言葉は、僕と柏木の指針にもなっている。柏木に「シーンAとB、入れ替えた方がいいんじゃない?」などと言われたりすると、「なんで?」と理由を聞いて反論したくなるものだが、そうやって議論をしても時間と体力を使うばかりで、不毛に終わることが多い。
それより格段に手っ取り早いのは、実際にシーンAとBを入れ替えてみて、一緒に観てみることなのだ。それでうまくいっていればそれでよいし、ダメなら元に戻せばよい。議論せずに、とにかく試す。
昨日は第七編が出来上がり、柏木と一緒に観た。尺は124分。
第四編の時点では135分あったのを、バージョンを重ねるたびに短くしていったのだが、あろうことか、体感的には第四編を観たときよりも長く感じたような気がする。
ということは、構成(シーンの順番)がうまくいっていないということか。あるいは、そもそもシーンが多すぎるのか。あるいは、僕自身が何度も観過ぎて、新鮮さが失われているのか。
よくわからないので、とりあえず短いシーンを6つほど落としてみる。どれも面白いシーンだが、流れを阻害しているように感じたからだ。
さて、どうなるか。
切りすぎたと感じたなら、元に戻せばよい。議論せずに、とにかく試すのである。
とはいえ、シーンを切るには、体力と気力が要る。執着があるからであろう、シーンを足すのよりも、切る方が心理的な抵抗が強い。余分なシーンを切れなくなったら、自分が衰えたということである。かといって、切りすぎると映画に余白がなくなり、面白くなくなる。
このバランスが実に難しい。
しかし作業を繰り返しているうちに、必ず「これ以外にはありえない」という編集(ファインカット)にたどりつくのだから不思議だ。いや、たどり着かぬなら、映画にならない。
そしてそれがいつやってくるのかは、誰にもわからないのである。