昨年9月29日で、日中国交正常化から50周年を迎えた。これを記念して、中国の魯迅美術学院教授の王希奇氏の絵画展「一九四六」が神戸で開催された。この展覧会開催の情報を知って、観に行きたいと思ったが叶わなかった。その後、神戸の他の地でも開催されたが、いずれも行くことが出来なかった。
それが今年1月12日から15日の3日間、東京・北区の「北とぴあ」で開かれたので、ようやく観に行くことができた。「方正友好交流の会」の会報『星火方正』35号(2022年12月刊)に「王希奇『一九四六』東京展」の案内が載り、今度こそ観に行こうと楽しみにしていたのだ。そして観てきた感想を36号に寄稿した。
今日送られてきた「星火方正 会報36号」に掲載された文章を、下記に転載します。お読みいただけたら嬉しいことです。
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私の「1946」
「やっとここに来ることができた!」。王希奇氏の大作『一九四六』の前に立って、私はそう思った。敗戦翌年の1946年、中国・遼東半島の港、葫蘆島で引き揚げ船への乗船を待つ避難民の群れを描いた大作は、「北とぴあ」地下展示室で公開されていた。「やっと来ることができた」場所は、展示会場のことではない。そこに描かれた地、葫蘆島のことだ。母から幾度となく聞かされた「コロ島」という地名。それは「葫蘆島」と書くのだと知ったのは高校生の時だった。
1986年8月、蝉時雨の最中に母は死んだ。生前「いつか一緒にハルビンに行こうね」と話し合っていたのも叶わぬまま、母は逝った。その1年半後の1988年4月、私は自分が生まれた地「哈爾濱」を訪ねた。「初めて訪ねた」と言っていいのだろうか、そこで生まれたのだから「再訪した」と言うのだろうか。そこで生まれはしたけれど、1歳半でそこを離れたから私にはその地の記憶は全く無い。
その哈爾濱滞在中に、見ず知らずの私を招き入れてお茶をご馳走してくれた中国人のお婆さんがいた。お婆さんの親切に胸が一杯になった私は、これだけは伝えたいと思い言った。「私たちの国は、中国の人たちに本当に申し訳のないことをしました」。するとお婆さんは言葉を繋ごうとする私に、「それはあなたのせいではないですよ。日本の軍が悪かった。あなたも戦争の犠牲者ですよ。あなたがここで生まれたのなら、ここはあなたの故郷です。懐かしくなったら、いつでも帰っていらっしゃい」と。その言葉に私は、ただただ泣きながら「謝謝」を繰り返すばかりだった。「再見」と握手を交わして去ろうとする私の手を、お婆さんは固く握って「再見」と言った。
母は私に、私には記憶の片鱗も残さず死んだ父のこと、また父と共に過ごした美しい街の思い出を、よく語って聞かせてくれた。父が現地召集で応召した半月後にソ連軍が侵攻したこと、敗戦難民になってからの日々も語った。そして、「コロ島で引揚船に乗って、博多港に着いた」と言った。こうして私は1歳8ヶ月で初めて日本の地を踏んだわけだが、これを「帰国」と言えるのだろうか?
哈爾濱で出会ったお婆さんの、心に染みる言葉を聞いた後での私は、当時の中国人たちがどんな暮らしをしていたのかを知りたくなった。母からは、そのような話は聞いたことがなかった。そして次に訪ねた哈爾濱では、思いがけずに「残留婦人」に会った。それからは中国人に当時の暮らしを聞くことだけではなく、残留邦人に会いに行くことをも目的にして、私は「満州」に通い続けた。哈爾濱を拠点にして満州各地を訪ね歩いた。黒河、海拉爾、満州里、佳木斯、孫呉、斉斉哈爾、方正、牡丹江、長春、吉林、瀋陽……。
敗戦当時、子どもだった人たちとは中国語の通訳を介して話を聞いた。唯一覚えている日本語は、「かっちゃん」と呼ばれていた自分の名だけと言う女性は私より5歳年長で、赤ちゃんの時のおくるみの名残らしい布を私に示して、それを手掛かりにして肉親を探し出して欲しいと言った。私は布を写真に撮って帰ったが、それだけでは探す術がなかった。
当時15歳以上だった「残留婦人」と呼ばれる人たちは、美しい日本語を話した。言葉は時代と共に変わるが、彼女らの話す日本語は、現代日本では使われなくなったような丁寧な言葉遣いだった。彼女たちは自分たちの来し方を語り聞かせてくれ、また私も自分を話した。私は1歳8ヶ月で葫蘆島から引き揚げ船に乗ったことを話しながら、葫蘆島に辿り着くこと叶わずに過ぎた彼女たちの日々を思った。
そうやって満州各地を訪ね歩きながら、私は葫蘆島には行けなかった。「葫蘆島」、その名はいつも心に掛かっていながら、なぜだろう?「そこへ行こう」という気持ちが起きなかったのだ。いや、気持ちを塞いでいたのかもしれない。満州へ通いながら葫蘆島にだけは行こうとしなかったあの頃の気持ちは、言語化できないまま過ぎてきていた。
中国人画家、王希奇の『一九四六』と題した大作の展覧会が昨年東京で開催された時、会期中に都合が合わずに観に行けなかった。展覧会はその後も地方都市で開催されたのだが、そこにも行くことができなかった。ところが今年また、東京で展覧会が開かれることを知った。新聞からだったか、それともネットからだったか、媒体が何であったか覚えていないが情報を得ていた。その後に届いた『星火方正』には、大きく案内記事が載っていた。私が行けずにいた葫蘆島を描いた絵を、今度こそきっと観に行こうと、開催日を心待ちした。
会場の北とぴあで、20メートルの壁面いっぱいに広がる1946年の葫蘆島の光景を前にして、「ああ、やっとここに来ることができた!」と、私は思った。ひしめくように並ぶ避難民の列の中に、私を探した。母を探した。叔母を叔父を、従弟の孜を探した。描かれた人群れの中に、定かではないけれど私は居た。きっとこの子が私だと思えた。母も、叔父や叔母も私よりちょうど1歳年下の孜も居た。私たちは皆、哈爾濱から無蓋の引き揚げ列車に乗って、ここ葫蘆島に辿り着いたのだ。王希奇の『一九四六』を前にして、満州通いを重ねていた頃の私が葫蘆島へ行けなかった理由が、ようやく溶けたように思えた。多分、私は怖かったのだろうと思う。答えが出るのを、恐れていたのだと思う。
母が死んだ後で自分の生誕地である哈爾濱を訪ねた時の私は、それを「初めて来た」と言って良いのか、それとも「再訪」と言うのか迷っていた。母から「コロ島から引き揚げ船に乗って博多に着いた」と聞いた時、それは私にとっても「帰国」と言えるのだろうかと、思いあぐねていた。
人は、何に帰属するのだろう? 日本人の両親の間に生まれ日本人社会と日本語の世界で育った私は、文化的には日本に帰属しているのだろう。だが、そう思いたくない私が居て、それでは私の根っこはどこにあるのか、拠り所の無さを心許なく感じてもいた。
私は自己紹介をするときにはいつも、哈爾濱で1945年1月に生まれたことを必ず明らかにしてきた。私は侵略地で生まれたのだということを心に刻みながら。だがそんなことを自覚するようになったのは、物心ついてからのこと、もっと幼かった頃の私は「ハルピン生まれ」を自慢げに思っていた。「東洋のパリ」と呼ばれる美しい町で生まれたこと、初夏にはリラの花が町中に香る地で生まれたこと、シャランシャランと鈴を鳴らしながらマーチョ(馬車)が通りを駆けていく街だったこと、異国情緒あふれる町で生まれたことを、幼い私は誇らしくさえ思っていた。けれども、そこは侵略地だったと知った日から私は、私が許せなくなった。自分が嫌いになり、大人が許せなくなり、子ども時代の私は心が荒れていた。大人になるにつれ、心に折り合いをつけて生きることを覚えていったけれど、ハルピン生まれを自慢げに思っていた子ども時代のことは思い出したくもなかった。
王希奇の『一九四六』の前を行きつ戻りつしながら私は、1歳8ヶ月の私はここから船にのって、「初めて日本に行った」のだ、「帰国」したのではなく、「初めて日本の土を踏み、そのまま日本に居る」のだと思えた。極めてリアルに描かれた大作の前に佇んで私は、満州の大地と空気の中で育まれた私の1年と8ヶ月は、私が私で在るのに最も根幹をなす時間だったのだと確信を持って思った。私はそこで初めての呼吸をし、初めて自分の足で立ち、初めての一歩もそこで歩み出したのだ。私が帰属するのは「日本」ではなく「大地」なのだ、「中国」でも「満州」でもなく、「大地」と「空」なのだと思えた。
『一九四六』の前を行きつ戻りつする中で私は、描かれた群衆の中に幼かった私を探し出し、私らしいその子を愛おしく抱いた。哈爾濱を「初めて再訪」した日に出会ったお婆さんの声が、耳朶に蘇った。「あなたがここで生まれたのなら、ここはあなたの故郷です。懐かしくなったら、いつでも帰っていらっしゃい」
私は侵略地で生まれた侵略国民の子ではあったけれど、それでもあの大地と空が私という者の「種」を育んだのだと、それだけを素直に感じられた。『一九四六』が、私の頑なな心を解き放してくれたように思う。