第58回:ふくしまからの日記──南相馬・富岡町「12年経っても、あの時のまんまなんだ」(渡辺一枝)

 2月に高村美春さんが来京した時に、「4月11日、予定が入っていなかったら原町に来て。その日に札幌からたかちゃんが来るから、一枝さんに会わせたいの」と誘われていた。幸い他の予定はなかったから、11、12日の一泊二日の福島行とした。美春さんが言った「たかちゃん」は、双葉郡から札幌に避難している宍戸隆子さんのことで、私は以前に参加した集会で名前を聞いたことがある。北海道で、避難者が集まれる場所作りをしていると聞いていたが、話をしたことはなかったから、私も会って話を聞きたかった。

4月11日 南相馬へ

3000本の復興桜

 4月11日。美春さん、隆子さんの二人に会うのは夜だから、その前に八木沢峠の風力発電所を見に行こうと思った。数日前に私がフェイスブックに投稿した吾妻山の風力発電のことを飯舘村の庄司圭一さんが読んでいて、八木沢にも風力発電があると教えてくれたのだ。その後も時間はたっぷりあるはずだから、大留隆雄さんの家に寄ってしばらく話してから美春さんたちに会いに行けばいいと思った。
 今野寿美雄さんの車で、福島駅を出て国道114号線を飯舘村の方へ向かう。この道は道幅も狭く、カーブが続く道で、何年も前から拡幅やトンネルや橋の造成などバイパス工事が進められていた。工事箇所は何箇所もあったから、どこかが終わるたびに「あ、ここ広くなった」とか「トンネル出来上がったんだ」などと思いながら通っていたが、最後に残っていた工事箇所も完成して、ようやくバイパス工事完了となった道を今回は行った。工事箇所が複数だった頃は、除染作業のためのダンプカーがひっきりなしに通っていたので、いつも渋滞していた。除染作業も少なくなり道路工事も終えた今は、行き交うダンプカーの数もとても少ない。バイパス工事は完成したけれど交通量はかえって減っているように思えた。
 飯舘村役場を過ぎて行くと真新しい看板に「三千本桜」の文字のある分岐点があり、文字が示す方の道に入った。すると目が届くずっと先の方まで、桜並木が続いていた。道の傍には、墨痕鮮やかな「復興の絆桜」の石碑が建っていた。「うわぁ、見事だなぁ!」。今野さんの口から言葉が漏れ、私はただ惚けたように見惚れるばかりだった。これは1997年から飯舘村の会田柾男さんツタ枝さん夫妻が個人的に自宅周辺に植樹を始めたのだが、原発事故で全村避難となり中断していた。だが桜の存在を知った全国の支援者たちの声を受けて植樹を再開し、この見事な桜並木になったそうだ。福島の地元紙でも紹介されたそうで、花見詣での人も多かった。私も、思いがけずに花見行となったこの日だった。

風車はどこ!

 八木沢トンネルの手前で今野さんは車を止めて、さてどの道を行くかとナビを入れたのだが風車情報は出てこない。
 飯舘村から南相馬へ行くには、以前は峠道を越えなくてはならなかった。ただでさえ勾配とカーブの続く危険な坂道で、雪が降ると事故の危険を回避するために通行止めになった。私が南相馬に通い始めた頃はまだ峠道で、だから福島駅からのバスは、冬には別ルートの相馬を経て行くようになることも度々あった。峠を貫通するトンネル工事が始められたのは、原発事故から2年後の2013年の春だった。2016年に行った時には、数日前の福島民友記事で「貫通」の記事を読んでいたので、トンネルを通っていけるかと思っていたら、前と同じように峠道だった。貫通は完成ではないことに、初めて気がついた。完成したのは2018年3月で、これをもって「八木沢トンネル開通」ということも知った。
 風力発電所はどこかと、庄司さんに尋ねようと電話をしたが留守電になっていて聞けず、今野さんが飯舘村役場に電話で問い合わせたら、それは「野馬追の里風力発電」という事業名で、建設開始はこれからということだった。どうりで、通ってきた道のどこにも何の表示もなかったわけだ。飯舘村と南相馬市の境界の稜線上に建設されるという。これもまた今後の情報をチェックしていこうと思う。

大留隆雄さん訪問

 八木沢峠の風力発電は、今はまだ影も形もないことが判って、今野さんは車のエンジンをかけた。発車したと同時に私の携帯が鳴った。大留さんからだった。私は大留さんに訪問を事前に伝えずに出てきている。だから大留さんもこれから私たちが行くことを知ってはいない。
「一枝さん、どうしてる? しばらく声を聞いてないからどうしてるかなと思って」という大留さんに「これから大留さん家に行くところ。いま八木沢」と答えると「え? どこだって?」と驚く大留さんに重ねて「八木沢峠」と言うと「あ、そうなの」と言って大留さんは笑いだし、私も「そうなの」と言って笑ってしまった。
 しばらく笑った後に大留さんが「え〜、そうなんだ。偶然だねぇ。久しぶりで一枝さんの声聞きたいと思って電話したんだよ。そう、じゃぁこれから来るんだね。どこか寄ってくるの?」と言う大留さんに「どこかで昼ごはん食べてから行くから1時過ぎになると思います」と答えると「そんならどっかスーパーで何か買ってきて家で一緒に食べたらいいじゃない」と言うので「スーパーのお弁当じゃぁ楽しくないから、お蕎麦を食べてから行きます」と答えた。福島は美味しい蕎麦を食べさせる店が多いけれど初めて入った今日の店も、とても美味しい十割蕎麦の店だった。食後はスーパーでお土産にする苺を買って、大留さんの家に向かった。
 2階の大留さんの部屋に上がると、待ちかねていたように大留さんは話し出した。「いろんなことを忘れちゃうね。人の名前も忘れて出てこなくなっちゃうよ。ほら、あの人の名前、なんて言ったっけ? ここに来て料理したことあったじゃない。相馬の方に行った人、あの人に連絡したいんだけど、名前忘れちゃって」と、大留さんが言う。
 大留さんが言う「ここに来て料理した」というのは、私が南相馬の郷土食の「柿餅」と「べんけい」を、作り方も含めて書き残しておきたいと思い、ビジネスホテル六角の厨房で小林秀子さんに「柿餅」を、浜野芳江さんに「べんけい」を作って貰った時のことで、「相馬の方に行った」のは浜野さん夫婦だ。「柿餅」は干し柿を餅に搗きこんで乾燥させたもので、保存食だ。「べんけい」は銀杏切りの大根と人参を炒め、水で戻した芋がらを加えて砂糖、醤油、たっぷりの酢と唐辛子で味付けした常備菜。どちらも冬に作る。
 大留さんに浜野さんの名を伝え、私はすぐに芳江さんに電話をかけた。いま大留さんの家にいることを伝え、電話を大留さんと代わった。浜野さんは津波で家を失った後、仮設住宅を経て、隣の相馬市に自宅を建てて、息子家族の家とは隣同士で住んでいる。
 浜野さんが相馬市に引っ越したのは2016年で、大留さんも浜野さんも当初は電話を掛け合うこともあったのに、次第にそれも途絶えて、携帯電話の機種を変えた大留さんは浜野さんの電話番号も判らなくなっていたようだ。この日は私の携帯で互いに近況などを伝え合った最後に、大留さんはこう言った。「じゃぁ薬を取りに時々は市立病院(南相馬市立総合病院)に来るんだね。じゃぁその時に家に寄ってよ。僕も免許証返しちゃったから、どこへも出られないんだよ。いやぁ、久しぶりに浜野さんの声聞いて元気が出たよ」
 電話を切った後で大留さんは、しばらくは六角支援隊で活動していた頃の話をしていたが、そのうちに北海道での子ども時代のことを話し始めた。それを聞いて今野さんが、先祖は元々どこの人だったのかを問うた。答えて大留さんは言った。
 曽祖父は、相馬の大名の殿様の家老職の下の職にあった。だから相馬野馬追の時に騎馬武者が背負う旗印には、大留家の家紋もある。相馬の殿様が北海道へ渡った時に、先祖が供として一緒に行き、そのまま北海道に居着いた。大留さんは結婚後に北海道を出て、現在の場所に住み着いた。相馬には今も親戚がいるらしいが没交渉で、どこに誰がいるのか知らないと。
 そんな話の後で大留さんが、免許証を返上したのでたまに外出する時はタクシーで用事を済ませると言うのを聞いて、今野さんが「たまには外に出ないとダメですよ。こもってばっかりじゃぁ、ボケちゃいますよ」と言った。大留さんは「そうだな。たまには美味いもんでも食いに行きたいな」と言って、どこそこのラーメンが美味しかったとか○○のトンカツが美味かったなどと言い出した。それらの店は今野さんもよく知っている店らしく、「わかった。じゃぁ今度、昼飯食べにそこへ行きましょう」と言い、大留さんも「そうだね。今度一緒に行きたいね」と答えた。それを聞いて私は、八木沢峠からの電話で大留さんが「スーパーで何か買ってきて家で一緒に」と言ったのを断ったことを、済まなく思った。孤食ではなく誰かと一緒に食べることが、美味しさの素にもなるのだから。
 別れ際に私は「今度来た時は、どこかで一緒にご飯食べましょうね」と言って辞した。

おれたちの伝承館

 「おれたちの伝承館」に寄った。
 2017年に練馬区立美術館で「もやい展」が開催された。これは写真家の中筋純さんが呼びかけて様々なアーティストたちが、それぞれの表現手段で福島原発事故を伝える催しだった。2019年金沢、2021年東京、2022年横浜と「もやい展」は回を重ね、出品するアーティストも作品群も膨らんできた。
 そして、中筋さんをはじめその「もやい展」に出展していたアーティストたちの間で、原発事故による被害の実相を伝える「おれたちの伝承館」を作ろうという気運が高まった。2020年に双葉町に「東日本大震災・原子力災害伝承館」が開館したが、事業主体が福島県のこの施設は、避難者の状況や子どもたちの甲状腺がんが多発しているなどの事実を十分に伝えてはいないものだったからだ。今年になって小高区の住民の方たちの協力をて、水道設備保守関連事業を営む「浅野設備工業株式会社」の元小高倉庫をそっくり借り受けることができた。ここに「原発事故を伝承しない“伝承館”」ではなく、過去を検証し思いを伝えていく「おれたちの伝承館」を作ろうとしている。この建物自体が原発事故被災を伝承するものとして、外観はそのままに、けれども徹底して除染をして美術館にしようというのだ。

 中筋純さんを隊長としてアーティストや支援者たちが全国各地から連日のように集まって作業に取り組んでいる。開館日を、毎年7月末に開催される野馬追い祭に間に合うようにというのだ。この日も中筋さんはじめ、事務局の相原あやさん他数人の方たちが作業をしていた。私も支援者の一人として、開館を心待ちにしている。

*ご支援、ご協賛のお願い

長期間の運営を考えている「おれたちの伝承館」は、維持費、事務経費、アーティストの招聘費用など多くの方達の支援を必要としています。ご協力をお願いします。詳しくは事務局(2021moyai@gmail.com)へお問い合わせください。開館サポートをしてくださる個人、企業も随時募集しています。

・ゆうちょ銀行から送金 記号10190番号72657011
・他行から送金 ゆうちょ銀行 018店 普通7265701 口座名義:もやい展実行委員会
・ゆうちょ振替 00180−3−392592
・他行から送金 ゆうちょ銀行 019店 当座0392592 口座名義:もやい展実行委員会

同慶寺

 2019年に亡くなった藤島昌治さんのお墓参りにと、同慶寺に寄った。線香も花も持たずに行ったが、墓前で手を合わせて亡き人を偲んだ。お墓から車に戻ろうとした時、向こうからご住職の田中徳雲さんが「いらっしゃい」と声をかけてくださった。徳雲さんの車があるのは見たからいらっしゃるのは判っていたけれど、庫裡・方丈・客殿等の部屋のある本堂とは別棟の工事にかかっているところで、宮大工さんたちの車もあった。だから徳雲さんもお忙しいだろうと思い、ご挨拶せずに帰ろうとしていたら、徳雲さんの方で気づいてお声掛けしてくださったのだった。徳雲さんは法衣姿ではなく、作業着で地下足袋姿、頭には手拭いを巻いておいでだった。職人さんたちと一緒に作業をしていらしたのだ。徳雲さんは頭の手拭いを外しながら、「まぁ、どうぞお茶でも」と言って、本堂に招いてくださった。
 お茶をいただきながらしばし歓談して、お暇をした。

たかちゃんと

 小高駅前の双葉屋旅館に荷を置いてから美春さんとたかちゃんの二人を迎えに行き、一緒に美春さんが予約しておいてくれた店に行った。たかちゃんとは顔を合わせてすぐに、互いに「初めまして」の挨拶を交わしていたけれど、店に着いて改めて、今こんなことをしていますと告げあって、でもそんなことの合間に今野さんとたかちゃんも、互いに「久しぶりだねぇ」「元気だった?」と賑やかに言葉を交わしていた。
 私はいつも、福島の人たちのこういう会話から、たくさんのことを知ってきたように思う。
 「久しぶりだねぇ」と言う声の調子や響きの中に多くの思いが溢れていて、それが私にも伝わってくる。この日もたかちゃん、美春さん、今野さん3人の交わす言葉から、原発事故が福島の人たちにもたらした影響を、新たに気付くことができた。新鮮な魚介類を供する居酒屋で、美春さんは「ここは原町で一番新鮮で美味しい魚が食べられる店」だと言った。出された料理に思わず漏れる言葉、例えば手塩皿にすりおろしのニンニクをたっぷり取って醤油に溶き、刺身の盛り合わせ皿から一切れの鰹を取ってそれにつけて口に入れた時にふっと漏れる吐息。それを耳にした私は、汚染水を海に流すことは絶対に許せないという強い意志を感じるのだ。馬肉の刺身を「もっと食べて」とたかちゃんに勧める美春さんや今野さんの言葉や、「ありがとう」と受け止めるたかちゃんの声に、食習慣の異なる土地へ避難した人への思いやりや故郷の地への懐かしさを感じもする。
 美味しい店で楽しい宴の後で、明日の富岡行きの出発時間など約束してお開きとなった。

4月12日 富岡町へ

ハッピーロードの桜並木

 美春さんたちと浪江の道の駅で待ち合わせ、美春さんの車は駐車場に置いて、今野さんの車に4人で乗って出発。たかちゃんが子ども時代を過ごした故郷の富岡町へ向かった。
 双葉駅の駅舎とその周辺を見て、たかちゃんは「わぁ〜」と声を上げた。あまりの変貌ぶりに、そうとしか声が出なかったのだろう。双葉高校の校舎と校庭が向こうに見えると、今度はポツリと言った。「応援歌歌ったなぁ」。それを聞いて今野さんも「そうか、たかちゃんは後輩か。歌ったな」と言った。
 県立双葉高校は野球の名門校で何度も甲子園に出場していたから、選手たちが甲子園に向かう日にはきっと、在校生たちは駅前で一斉に校歌を歌って選手を励まし送り出したのだろう。駅前の通りを進みながら、「12年経っても、あの時のまんまなんだ」とたかちゃんは言う。思い出の街並みは、無惨な姿の建物群を残してそこに在った。汚染がひどくて土を剥いだ後に、砂利が敷き詰められた場所には災害復興住宅が建っていた。街並みを抜けながら更地を指して、今野さんが「ここに焼肉屋があった」と言ったのにたかちゃんは答えて、「ああ、焼肉屋在ったね。なんにもなくなっちゃった」と言った。
 6号線を大熊町に向かう。道路の両側には桜が植樹されていて、八重桜が咲いていた。
私が「これも『ハッピーロード』が植えたもの?」と問いかけたら美春さんが「そう、桜を見て肩が痛くなるわ」と言い、今野さんは「汚染に目をつぶって桜を見なさいってことだよ」と言った。ここは「セーフティロード」、あるいは「思いやり路線」などと呼ばれているらしい。内実を調べずに、メディアが名付けたのかもしれない。
 「ハッピーロード」というのは西本由美子さんが主宰しているNPO法人で、この桜の植樹もだが、6号線が開通した時には「福島復興のために」と掛け声をかけて高校生たちを組織して道路の清掃に取り組んだ。「復興のために」とのお題目には多くの人が騙されているが、実際には6号線の道路脇の草むらなど高線量で、そんな場所の掃除を子どもたちにさせるなど、被ばくの危険が大きい作業だ。ハッピーロードは原発事故後に国や東電が発信する「安心・安全神話」に加担していて、他の活動も、とかく問題の多い組織だと私は考えている。

家はどこ?

 今年は桜の開花が早かったから、夜ノ森の桜並木はすでに新緑のトンネルになっていた。夜ノ森駅前に着くとたかちゃんは、「え〜っ!」と言ったきり絶句。そして「こんなになっちゃったんだ」と呟くように言った。そこからたかちゃんの実家に向かった。
 「そこ、そこ曲がったところ」とたかちゃんが言い、今野さんがハンドルを切ったが、次にたかちゃんの口から出たのは、「あれぇどこだろう? すみません、もう一回戻ってください。曲がるとこ間違ったかもしれない」の言葉だった。今野さんは車をバックさせたが、元の道に戻る前にたかちゃんは「やっぱりこの道でいいんだ。すみません、車を止めてください。降りて歩いて行ってみます」と言い、みんなも降りて、たかちゃんと一緒に歩いた。すぐ先の左手に鳥居が見えて神社への参道にかかるとたかちゃんはそこから少し戻って、「やっぱり、ここだったんだ。何にもなくなっちゃって、判んなくなっちゃった。Google(マップ)で見た時は納屋だけは残っていたのに、解体しちゃったんだ。何にもなくなっちゃった」
 たかちゃんが「何にもなくなっちゃって、判んなくなっちゃった」と言った場所は樹木が茂り、まるで藪のように変貌している場所だった。そして、お隣の敷地には、同じ造りの真新しい住宅が4軒建っていた。それらの家々の前には車や自転車、子どもの遊具などが置かれていて、どの家も人が住んでいるのは明らかだった。特に表示はなかったが、周囲の状況などから考えると一般住宅というよりも企業の従業員家族が住む社宅のようなものではないかと思えた。もしかしたら、これらの住宅建設工事のためにたかちゃんの家の納屋が邪魔になって、それで取り壊したのではないだろうか。もしそうだとしたら、それはたかちゃんの両親が納得してのことだったのだろうか、それとも無断で為されたことなのだろうか。何も残っていない全くの更地と、何か建物が残っている場合とでは税率が異なるから、母屋は解体しても作業小屋や隠居部屋などは残すことが少なくない。せめて納屋が残っていたら、たかちゃんには実家があった場所はすぐに判っただろう。何もなくなるということは、そこで過ごした日々の思い出さえも奪い消してしまうことなのだと思った。
 たかちゃんと一緒にすぐそばの王塚神社に行った。真新しい鳥居をくぐった先の社殿も、同じく真新しかった。手水鉢も新しいものだった。本殿脇にはやはり真新しい石碑が建っていて、平成31年に再建に着工し、令和2年11月29日に社殿新築竣工が叶い祭礼を行ったことが記されていた。古くからの由緒ある神社で、地元の人たちは8月のお盆の日に子どものお守りとして刀を一本借りて、12月8日に借りた刀と共にもう一本新しい刀を添えて返すのだという。新しく添える刀は、借りた刀より長いものにするそうだ。社殿の壁には紙製の太刀がずらりと並び飾られていた。
 富岡町は避難指示解除になったけれど、戻った人は少ない。だがここを故郷にする氏子さんたちが、神社の再建に力を尽くしたのだろう。お祭りもとても楽しかったと、懐かしげにたかちゃんは言った。社殿を後にした時たかちゃんが、「これだけが元のまま残ったの」と言って、入り口の杉の木の根元に隠れるようにして在る石を指した。それは丸石を穿った円形の手水鉢だった。

とみおかアーカイブ・ミュージアム

 とみおかアーカイブ・ミュージアムは2021年7月に開館した町立の施設だが、展示内容が素晴らしい。
 富岡町は2011年3月12日に全町避難となり、2017年4月1日に帰還困難区域を除いて避難指示解除となった。さらに2023年4月1日に帰還困難区域の内で特定復興再生拠点区域に設定した夜の森地区と大菅地区の一部の避難指示を解除した。このミュージアムは、被災前の富岡の住民たちの暮らし、そして震災の被害について町民の視点で資料を集め展示している。この視点が、とても大事なことだと思う。
 私はここがオープンした直後の2021年7月にたまたま通りかかって存在を知り、入館した。その時にも同じように感じていたので、昨年の被災地ツアーではここもコースに入れたのだが、2月の地震での被害が大きくて休館となっていたために見学できなかった。今年の被災地ツアーには、ここも見学場所に入れてある。富岡の歴史や暮らし、原発事故がもたらしたことを、文字で知るだけよりもリアルに感じ取ることができるからだ。
 ミュージアムのリーフレットには、こう書かれていた。「富岡町を中心に地域の歴史とその特徴を伝えると共に、地域の運命を変えた震災と原子力災害を歴史の大きな『1ページ』として継承し、町の経験を将来に世界に発信します」。

東京電力廃炉資料館

 東京電力廃炉資料館は、元は「エネルギー館」といって東京電力福島第二原子力発電所をPRする目的で作られた施設だったが、原発事故後に全面リニューアルして、2018年11月30日に「廃炉資料館」としてオープンした。見学は無料だが、予め入館希望日時と人数を伝えて申し込む。見学時間は1時間だ。入館すると1団体にガイドが一人付き、はじめに2階へ案内される。
 2階は、「二度とあのような事故を起こさないように『記憶と記録。反省と教訓』を展示」するゾーンとしていて、まずは3・11当時のオブジェを見た後でシアターホールに案内される。そこは湾曲した壁面と床までがスクリーンとなっているので、地震や津波の映像で気分が悪くなるようなら席を外して下さいとガイドが言った。何度も見ている今野さんは席を外していたが、私たち3人は映像を見た。見ながら、しかしあの日の記憶が呼び覚まされるよりもこの大掛かりな装置は何? ということに気持ちが向かっていた。
 この後2階では事故の対応経過や中央制御室がどんなだったかなどを映像やパネルで見て、「反省と教訓」のパネルの前でガイドの説明を受け、あの日からの「所員の思いを生の声として後世に残す」映像を見て、1階の廃炉現場の様子を伝えるゾーンに移動した。
 作業員など働く人々の姿や汚染水・処理水対策、燃料取り出しや燃料デブリの取り出し、廃棄物処理、ロードマップなどについて映像やパネルで展示されていた。廃炉現場のロボットは模型が展示されていた。ガイドの説明では今、福島第一原発では1日平均4540人もの作業員が働いているということだった。汚染水・処理水は全ての放出予定は2031年ということだが、海洋放出ではない方法をこそ考えるべきだと思う。また、2023年後半に2号機のデブリ取り出しテストをする予定だともいうが、果たして取り出せるのかどうかは不明だ。
 「記録と記憶」を元に廃炉に励んでいることをPRするためのこの資料館なのだろうが、所詮は東京電力側の記録と記憶であって被災者のそれとは大きな隔たりがあることを感じて、虚しい思いで資料館を後にした。

板倉正雄さん

 県道391号線は「広野小高線」と言い、広野町から南相馬市小高を結ぶ太平洋岸沿いの道路で、通称「浜街道」と呼ばれ、やや内陸を通る国道6号線とほぼ並行している。今年2月に広野町から東京電力福島第二発電所の脇を抜け、富岡漁港周辺を通って富岡駅への17.2kmの毛萱工区の整備が終了し、これによって全線が開通した。
 今野さんは開通して間もないこのルートを採って、富岡駅の方へ戻った。駅の西側に差し掛かった時、たかちゃんは「こっちには建物がいっぱいあったのに、もう、何にもないんだ」とポツリと言った。ただ、去年の地震で屋根瓦が崩れたままの家が残っていた。
 今回の富岡行は、たかちゃんは子ども時代を過ごした実家跡を訪ねることを、私は板倉正雄さんに会うことを目的にしていた。前にFoEの取材で板倉さんに会っている美春さんも、板倉さんに会えるのを楽しみにして来た。
 板倉さんの家の前には車があったから、在宅していることが判って嬉しい気持ちで呼び鈴を押した。だが押したのとほぼ同時に、玄関のガラス戸越しに向こうに板倉さんの姿が見えた。板倉さんは自宅の庭にバックで入ってくる車に部屋の中から気付き、誰かが来たことを知って玄関に出迎えようとしていたのだった。
 玄関の戸が開いて久しぶりにお会いする板倉さんは、元気そうだった。2年ぶりにお会いするので、どうやら私の顔を忘れていらっしゃるようだ。「台湾の方ですか?」と聞かれた。「いえ、渡辺一枝です」と答えたのだけれど「今日は台湾の人が来ることになっていたので」と言いながら、「まぁまぁどうぞ、お入りください」と、私たちは招き入れられた。
 板倉さんの家からほんの100mほど向こうは、つい10日ほど前の4月1日に避難指示解除になった夜の森地区だ。桜並木で有名な夜の森公園は、これまでも桜祭りの時期には立ち入り禁止のゲートを開けていたが、そのゲートも取り払われた。今年の桜祭りは8日(土)、9日(日)だったが、大変な人出だったという。花見客と、その人出を当て込んでのテント店がずらりと並んで、いつもなら玄関を出たら並木の桜が見えたのに、テント店が並んでいたために花が見えないばかりか、スピーカーを通したアナウンスなどの音量の大きさと人々の賑わう声とで、あまりの喧騒に板倉さんは、玄関はぴたりと閉じて過ごしたと言った。
 以前に私は仏画師でもある板倉さんの描かれた仏画や、またそのための専門図書などを拝見していて、仏画の見事さに感服し、図書などは関心のある人にとっては垂涎ものの貴重な資料ではないかと思っていた。これまでお会いした時にはいつも「人生の仕舞い方を考えています」と言っていた板倉さんは次の誕生日が来れば95歳だから、私は専門書の行く末がとても気になっていた。本は、興味のない人にとっては紙屑でしかないからだ。板倉さんが描かれた仏画は、欲しい人はきっと大勢いる。お寺さんも喜んで受けてくださるだろう。それで以前にお宅に伺った時にも、それらの本の行き先を私も考えてみますとお伝えしていたのだ。でも書名などを控えていなかったので、写真に撮っておこうと思ってアトリエの部屋に入らせていただいた。
 書架のそれらの何冊かは既にそこになく、お寺さんが引き取ってくださったと言う。残りもそうなると聞いて、「良かった!」と、心から思った。
 以前板倉さんに会ったことのある美春さんも、また、初対面のたかちゃんも、板倉さんが仏画を描くことは知らなかったので、壁に飾られた軸装した仏画を感心して見入っていた。板倉さんは段ボール箱に丸めて閉じてあった何枚かを広げて見せ、「良かったらあげますよ」と言った。我が家には縦長の仏画を飾る壁面がないので、とても残念だが頂くことが出来ない。美春さんが驚きながら「え〜っ、いいんですか。頂きたいです」と言うと板倉さんは、ご自身が描いた聖観音図を、また元のように丸めて美春さんに渡した。美春さんは「床の間に飾ります」とありがたく受け取った。
 部屋を出る時に段ボール箱の上を板倉さんが指差すと、そこにあったのは拙著の『ハルビン回帰行』だった。指差しながら板倉さんは「この本は前に家に来た渡辺一枝さんにいただいたのです」と言うので「それが私ですよ」と言うと、私の顔を改めて見て板倉さんはようやく私に気付いたのだった。無理もないことだったと思う。コロナ禍に見舞われる少し前に初めてお訪ねして話をお聞きし、その後もう一度お邪魔して満州時代の話をお聞きし、次にお会いしたのはコロナ禍最中で、玄関先でご挨拶を交わしただけだったのだから。私は聞かせていただいた板倉さんの来し方を、『たぁくらたぁ』55〜57号に書いた。板倉さんも、それを喜んでくださり「娘たちにも読ませます」と仰っていた。
 お暇の挨拶をして玄関を出る時には板倉さんは破顔して「一枝さんのお顔を忘れてしまっていて、本当に失礼しました」と仰ったが、真面目一徹で過ごしてきた板倉さんが12歳の少年の頃に戻ったような笑顔だった。今もまだ車の免許は返上せずに、お医者さんに行くときや買い物に出る時に乗っているという板倉さんが、どうかお元気で無事に過ごしていって欲しいと、私は心から願う。

ソウルフード

 板倉さんの家を辞してから双葉町産業交流館に行き、遅めの昼食をとった。4人ともに注文したのは「浪江焼きそば」。究極のソウルフードだ。美春さん、今野さんにはもちろん、たびたびここに来ることがある私にも「懐かしい」と言うより馴染みある味だが、たかちゃんには「懐かしい」味だっただろう。私もいつも美味しく食べて、たまには家で作ることもある浪江焼きそばだ。孫たちの好物で彼らは「焼きうどん」と呼んでいる。
 食後に屋上に行き、双葉町の仮置き場や建設中の「追悼と鎮魂の丘」など海側の景色を見て、隣接する「東日本大震災・原子力災害伝承館」に入った。ここは被災者にとっての原子力災害を伝承しない伝承館だが、美春さんはここで(語ってはいけないことを語る)語り部をしているし、今野さんはいろいろな人を案内してもう三十数回も入館している。私もこれまで複数回来ている。たかちゃんは初めてだけれど、さらっと見るだけで出た。前述したように「伝承しない伝承館」ではあるけれど、ここはまた、「原発推進者たちが伝えたいことを伝承する伝承館」ではあるのだ。
 震災遺構の請戸小学校を外から見て過ぎ、3・11の地震の爪痕として道路にはっきりと断層の跡がしるされている箇所を見て、浪江の道の駅に戻った。ここからたかちゃんは美春さんの車で仙台空港へ、私は今野さんの車で福島駅へ送って貰ってそれぞれ帰宅の途についた。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。