第126回:梅雨空に思うこと(想田和弘)

 牛窓は梅雨空が続いている。

 じめじめした天気がこう何週間も続くと、つい太平洋高気圧の到来を切望したくもなる。しかし、先日散歩中、ふいに降り出した小雨の中を早足で歩きながら、「毎日たくさん雨が降るのに、よくも水が尽きないものだ」と思いかけて、気がついた。

 こうして雨が降ること自体、実は途方もなく優れた、循環的で自律的なシステムのおかげだ、ということに。

 雨は誰も補充しないのに「在庫」がなくなったりしない。

 流通を見守る「管理者」もいない。

 それは雲として空に滞留し、重さに耐えられなくなると雨になって地上に落ちる。雨は草木を潤し、生きとし生けるものに飲み水を与え、地下に染み込んだり、川となって海へ注ぎ込んだりする。その過程で蒸発した水は再び空へとあがり、雲となる。そしてまた雨となって地上へ舞い降りる。

 この水の循環のプロセスは、たぶん小学校か中学校で習うものだろう。そういう意味では「何を今さら」と思われるかもしれない。

 だが、事実を知識として知ることと、その凄さを腹の底から実感することは、必ずしも同時に起きるわけではない。

 僕の場合、後者は今になってようやくやってきたのである。

 そしてさまざまな自然現象に目を向けてみると、自然界で起きることはすべて水の循環と同様、自律的で循環的なシステムであることに気づかされる。

 たとえば最近、散歩道である浜辺でツンと鼻をつく嫌な臭いがすることがあった。わざわざ確認しなかったが、たぶん死んだ魚か何かが浜に打ち上げられて、腐敗していたのだろう。

 その臭いはしかし、数日間で薄れて消えていった。おそらく、人間の誰かが腐敗物を片づけたわけではない。小さな生き物やバクテリアが食べ、自然に分解が進んで、土に還っていったのだと思う。そして土壌をその分だけ豊かにして、また新たな生命を育んでいく。これも、在庫も管理者もいらない自然の循環である。

 問題は、こうした自然の循環を狂わせる生き物がいることだ。

 人間である。

 たとえば近年、マイクロプラスチックが深刻な問題になっているが、それは人間が、自然が容易に分解できないものを作り出し、大量に消費しているからである。マイクロプラスチックをどう処理するのか、人間社会は侃侃諤諤、学者や政治家も交えて偉そうに議論したりしているが、そもそも自然の法則から大きく逸脱する行為を私たちがやらなければ、そんな問題は起きようがなかったのだ。

 エネルギーの問題も同様である。

 私たちの文明は石油や石炭、ウランなどの化石燃料に大きく依存している。それらがなければ社会が回らないほどに、依存している。

 しかし化石燃料は水と違って循環しない。本来は地中深くに埋まっているはずのものだ。それを人間がむりやり掘り出して、自分勝手に消費しているに過ぎない。

 だから埋蔵量(在庫)は限られているし、それを掘り出すのにも化石燃料がいる。おまけに燃やすと環境を汚染する。放射性廃棄物など、10万年も管理が必要だ。魚の死骸と違って、放置しておくわけにはいかない。

 自然の法則から逸脱したライフスタイルの代償は甚大である。

 残念ながら、僕自身もこの世に生まれたその日から、このライフスタイルにどっぷり浸かってきたので、そこから逃れる術を知らない。

 いったいどうして、こうなってしまったのだろう。

 私たちの生活を自然の法則にかなったものに戻していく方法は、あるのだろうか。

 降り続く雨を眺めながら、考え込んでしまった。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。93年からニューヨーク在住。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。監督作品に『選挙』『精神』『Peace』『演劇1』『演劇2』『選挙2』『牡蠣工場』『港町』『ザ・ビッグハウス』などがあり、海外映画祭などで受賞多数。最新作『精神0』はベルリン国際映画祭でエキュメニカル賞受賞。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』『観察する男』『熱狂なきファシズム』など多数。