第643回:いつまで「凶器」は野放しにされるのか〜SNSの誹謗中傷に思う〜の巻(雨宮処凛)

 タレントのryuchellさんが7月12日、亡くなった。享年27。

 報道によると自殺とみられる、ということだ。

 このことに、日本中がショックを受けている。

 私も大きな衝撃を受けている一人で、気持ちの整理がつかないままにこうして原稿を書いている。

 動機についてなど、詳しいことは報じられていない。が、多くの人がSNS上の誹謗中傷に言及している。本当のところはわからないが、私自身、SNSにほとほと疲れ、少し前から距離を取ろうとしていたところだった。また、ここ最近はプライベートに関することはネットの媒体ではなく、紙媒体に書くようにもなっていた。むやみに傷つきたくないからだ。

 特に常に誰かが怒り、誰かが誰かを糾弾し、誰かのちょっとした一言がたちまち「炎上」して集団リンチの場となるTwitterを開くことはあまりなくなり、最低限の発信くらいの使い方になっていた。

 そんなところに飛び込んできた、誰もが知る有名人の死。

 自分がこの数年、日常的にアクセスしてきた場が、人の命を奪うほど危険な場所だったのかもしれないことに、今、改めて打ちのめされている。

 いや、ryuchellさんの動機は現時点ではっきりとはわからないということは書いておかなければならない。が、2020年にはプロレスラーの木村花さんが自ら命を絶っている。そして彼女だけでなく、SNSの誹謗中傷が原因で命を絶ったと思われる人の名前は、大きく報じられていなくても何人もがすぐ頭に浮かぶ。

 そんなことを思うと、いったい今の時代は、後世の人からどのように評価されるのだろうと思う。

 自分が命を落とすかもしれず、また自分が誰かの命を奪ってしまうかもしれないほどに危険なものが野放しにされ、それどころか多くの人が依存していた時代。

 例えば私たちは戦時中、覚醒剤が「ヒロポン」という名前で合法的に使用されていたことを知っている。薬局でも手に入ったなんて聞くと驚愕だが、「体力の亢進」「作業能の増進」などの謳い文句で堂々と販売され、使われていた。自身の身体を蝕み、時に他害が生じるかもしないものがだ。

 身体を蝕むということで言えば、当人だけでなく、周りの人への健康被害から、この数十年で喫煙への意識は大きく変わった。

 それだけでない、飲酒運転への罰則も厳しくなり、「危険運転致死傷罪」も新設され、厳罰化が進められてきた。

 また、私たちはアメリカで銃乱射事件が起きるたびに、なぜ規制が進まないか疑問を持つ。

 その一方で、指先ひとつで誰かを死に追いやるかもしれないものが野放しにされているということ。

 「思いやりを持とう」「スマホの向こう側にいのるのは生身の人間」。

 ryuchellさんの死を受けて、そんな言葉が飛び交っている。しかし、それにはあまり効果がないと思う。誰かを攻撃することに依存している人には何を言っても無駄だと思うからだ。

 私自身も、SNS上の誹謗中傷や攻撃に死を思うほど追い詰められたことが幾度かある。そしてこれまで、何度も何度も弁護士に相談してきた。そのたびに、思った。

 なぜ、こんなゴミみたいなことに人生の貴重な時間を使わなければならないのか。なぜ、こっちが関わりたくもない、関わる気もない人間なんかに時間や労力を奪われなければならないのか。

 しかし、誹謗中傷や攻撃をする方にとっては、そうやって時間や労力を奪ったり、メンタルに打撃を与えたりすることが目的なのだろう。そうしてそこに、ただのノリで乗っかってくる層が加わると地獄度はさらに増す。こういう状況が野放しにされていること自体、何かの社会実験の実験台にされているようなものだと思う。

 私自身、SNSを始めたことによって以前よりずっと深い人間不信となり、人間への恐怖心は増した。「人の善意」とか「思いやり」なんて言葉が虚構にしか思えないほどに。

 だからこそ、どんなに悪意を持った人間がいたとしても、人が追い詰められないような規制がなされ、そういったシステムが作られることが重要だと思うのだ。

 SNSの規制などの話になると、「交通事故があるから車をなくせ、なんて言う人はいない」などと言う人もいる。が、車を運転する人は、運転免許という資格を持っている。そのために教習場に通い、「安全な運転の仕方」を学ぶ。が、指先ひとつで誰かの命を奪うかもしれないSNSはなんの資格もなく誰だって始められてしまう。

 というか、いったいいつまでシステムの欠陥の代償を誰かが命で支払うなんて極悪非道なことが続くのか。誹謗中傷も攻撃もなくならないという前提、一部の人に「思いやりを持て」と言っても無理という前提から始めないと、命を守ることなんて決してできないのだ。

 私の友人は、「Twitterは原発や核兵器と同じで人類には扱えない」と言っていたが、まさにその通りだと思う。

 将来、さまざまな安全対策が講じられ、「SNSが原因で人が死ぬ」ことがなくなったら、今の時代はなんと言われるだろう。

 「こうなるまでの過渡期にたくさん人が死にました」なんて、21世紀に絶対にあってはならない話なのだと、改めて、強調したい。

 怒りと憤りと悲しみでぐちゃぐちゃな感情のまま、この原稿を書いている。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。