第127回:小さいことは、良いことだ。(想田和弘)

 8月5日、僕の住む牛窓で花火大会があった。

 過疎化が進む、人口六千人弱の小さな町である。花火大会の主催者は民間のボランティア団体であり、存続の成否は毎年綱渡りである。

 団体の収支報告によると、予算は協賛金や募金の集まり具合によって毎年変わるが、おおむね400万円から600万円くらい。打ち上げる花火の数は2000発程度。時間は30分。こじんまりとした花火大会だ。

 しかし人気は高く、大会の晩は、老若男女、牛窓では見たことがないくらいの人出で賑わった。車道が渋滞しているのも、初めて見た。街にある唯一のコンビニに行列ができているのも、初めて見た。

 花火大会のために帰省したのだろう、普段は空き家になっていて真っ暗な家々にも煌々と明かりが灯り、僕らは「おおっ、あの家にも、あの家にも電気がついている!」などと驚きの声を上げながら会場へと歩いた。

 牛窓中の空き家に誰かが住んでいたら、この町も毎日こういう活気に包まれるのだろう。その光景はかつて栄えた往年の牛窓の姿のようにも、僕らが目指すべき将来の風景のようにも見えた。

 いよいよ打ち上げが始まると、海面を照らし出す色とりどりの花火に、しばし我を忘れた。一瞬だけ輝いて跡形もなく消えていく花火に、生きとし生けるものの命を重ねた。

 たくさんの人出で賑わったと言っても、今年の隅田川の花火大会のように、道路で身動きできなくなったり、将棋倒しの危険に晒されたりするわけではない。会場の中心部にもスイスイ歩いてたどり着けたし、帰り道もスムーズだった。涼しい潮風に当たりながら歩くのは、爽快ですらあった。つまり寂しくならない程度の“適度な”人混みだったわけである。

 牛窓で暮らして痛感するのは、シューマッハが名著『スモール イズ ビューティフル』で喝破したように、どんなものにも人間的な、適切なサイズというものがあるということだ。

 私たち現代人は「大きければ大きいほどよい」という価値観に侵されているが、花火大会にせよ、会社にせよ、都市にせよ、自治体にせよ、国にせよ、適正な規模を超えて巨大化してしまうと、突然、よそよそしく、非人間的で、悪くすれば凶暴なものと化す。

 先日妻の柏木規与子と二人で京都に出かけたとき、柏木が何気なくつぶやいたことを思い出す。

 「東京の人混みは神経が荒立つけど、京都の人混みは神経が鎮まるね」

 たしかに。

 僕は柏木が漏らした言葉に頷きながら、その理由は明らかだと思った。京都はおそらく、街として適正な規模の範囲内にある。しかし、東京はあまりにも規模が大きすぎるのである。

 一人ひとりの住人は親切で優しくても、駅などで「群衆」になると、冷淡でよそよそしく、無関心で暴力的な感じになる。それが、僕が長らく、東京という世界有数の超巨大都市に抱いてきた印象だ。というより、僕自身も東京に行くとそういう群衆の一部になってしまうことに気づかされる。それは論理や理性でコントロールできるようなものではなく、非論理的で生理的、かつ動物的な反応なのだと思う。

 そういう意味では、否応なく人口が減少していくこの国の状況は、「大きれば大きいほどよい」という価値観を転換するチャンスでもある。

 縮小していくことを逆手に取り、小さいことの強みを活かして、仕事づくりや街づくり、国づくりを進めていく。そうすることで、人間的でお互いの顔が見える、非暴力的で優しい世の中を築いていく。

 小さいことは、良いことなのである。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。