第72回:トークの会「福島の声を聞こう!」vol.44報告(前編)「なぜ被害者の私たちが悩まなければならないのか」(渡辺一枝)

 2023年9月8日、「トークの会 福島の声を聞こう!vol.44」を開きました。その報告です。
 ゲストスピーカーは、福島県浪江町津島から兵庫県に避難している菅野みずえさんでした。
 この会で、みずえさんにお話しして頂きたくお声掛けしたのは、2019年9月のこと。福島原発刑事裁判の一審判決が出た日でした。この裁判の傍聴をずっと重ねてきましたが、非常に杜撰な審理で、裁判長は当初から被告人無罪を決めていたように見えました。その閉廷後の報告会でのみずえさんの言葉に深く心打たれ、お声掛けしたのでした。快諾いただいて、年が明けたら実現させたいと思っていましたが、コロナ禍となって実現できぬまま時間が過ぎて、ようやくお迎えできたのです。
 この日は、「ALPS処理水差し止め訴訟」が福島地裁に提訴された日でもありました。福島県内だけでなく全国各地から、いや日本国内からばかりでなく世界各国から、汚染水海洋放出反対の声が上がっていたのに、政府は8月24日に「ALPS処理水(汚染水)海洋放出」を強行。これに対して「海を汚すな!」と漁業関係者と市民が立ち上がり、提訴したのです。
 提訴に先立ち、福島地裁前で午後1時から事前集会が持たれ、デモ行進後に原告151名を代表して原告代理人らが福島地方裁判所に訴状を提出しました。原告の一人であるみずえさんはこの朝、兵庫県の自宅を出て新幹線で福島へ行き、地裁前集会と提訴式、報告会に参加して、その足で会場のセッションハウスに来てくださったのでした。
 みずえさんのお話の内容を、2回に分けてお伝えします。

菅野みずえさんプロフィール

1952年生まれ。大学卒業後、福祉現場で働きながら子育てをしてきた。福祉を必要とする人々を一挙に多量に生み出すのが戦争で、体を張って戦争政策に反対するのが福祉労働者だと思って働いてきた。原発事故も同じなのだと、当事者になって知った。
原発事故後、浪江町津島の自宅を出て桑折町の仮設住宅で4年半を過ごした後、兵庫県に避難した。

初めに

 今日は、原発事故から12年経っての福島の姿を伝えます。それは、ひょっとしたら明日のあなたの姿かもしれません。皆さんは東海第二原発を背負って暮らしている、そして静岡の浜岡原発が事故を起こすことが、もしあったら……。南海トラフ(地震)とか。地殻や気候の変動もあると思います。事故が起これば、偏西風に乗って東京もまた大打撃を受けると思います。
 そういうふうに、明日のみなさんのことかもしれない話と思って聞いていただけたらと思います。

福島県は

 福島県は浜通り、中通り、会津(かつては山通り)地方とあって、全く人々の気性も言葉も違う。私が暮らしていた浜通りは海に面していて、何かあった時にぐずぐずしていたら死んでしまうから決断が早い。炭鉱があっていろんな人が出入りしたし、海の仕事もいろんなところから働きに来る人が多い。端的にものを言う必要があるので、言葉も荒く、気性も激しく、喜怒哀楽がはっきりしている。何かを頼まれて受けたら「んだ」と短く返事をする。
 中通りは山と浜に挟まれ、県庁所在地があり官公庁が多く、昔から役所があった地域で、黙っていることが美徳というところだ。ハッキリさせない、白黒つけない。返事は「んだなぁ」で、これは「そうだな」とも取れるし、「違うよね」とも取れる。物事をハッキリさせないことが美徳というところ。
 会津は頑固。毎年のように、薩長の町々から姉妹都市提携の話が出たが、今年も断ったということがニュースになる。私は関西で長いこと働いていたからイントネーションが(福島とは)ちょっと違うのだが、会津に行って蕎麦屋さんに入った時に「3人でいいですか?」と言ったら「ちょっと待て。オメエさん薩長からの使いでねえか」と止められた。「いえ、いえ、私は関西に居たのでイントネーションが違います。浜通りから来ました」と言ったら「なら、入れ」。浜通りからの3人は、こうして蕎麦屋で食べさせてもらえた。
 店主は「さっきは済まなかっただな」と言って、余分に一品つけてくれた。「ワシは3代目なんだ。爺さまからずっと言われてきた。『先の戦さの時にまだ若い、助けてやれば息がある若者を薩長の奴らは助け出させてくれなかった。この恨み末代まで伝えよ。薩長の奴ら許すな』って」。先の戦さというのは戊辰戦争のことだ。それくらい頑固に「ならぬことはならぬ」ということがきっちりある。毎年のように薩長からの申し入れを蹴ったということがニュースになるのは、そういう心意気からだと思う。会津の人たちは何かを頼まれたら3日考えて、「んだ」と答えたら梃子でも動かずやり通す。
 こんなこともあった。私が道に迷っていたときに子どもたちが「どこへ行くんですか?」と聞くので「ここへ行きたい」と言うと、「私もそっち方向だから一緒に行きましょう」と自転車を置いて案内してくれた。案内をし終えると、自転車に乗って、すうっと逆方向へ行ってしまった。本当に、なんて良い子たちだろうと思った。

避難するということは

 (福島第一原発のある)大熊町の人たちは、事故後にその会津へ避難した。原発事故を起こした町からの避難は、本当に大変だったと思う。
 私たち浜通りの山手の方では、雪は遅く12月から降り始めて4月まで降る。だからスタッドレスタイヤは11月の連休につけて5月の連休に外す。スタッドレスは溝が深く、そこに放射性物質を巻き込んでくるから、普通タイヤに変えなければ会津若松には入れないと言われたという。これは無駄な差別ではなく必要な判断だったと思う。
 浪江町民の多くは中通りの二本松市やその周辺へ避難した。中通りには他にも浜通りの人がたくさん避難した。私は入居した仮設住宅のある桑折町で、ジョブ・コーチといって障害者支援の仕事で、就職をしたい人と人を求めている事業所の仲立ちをする仕事に就いた。しかししばらくの間は就業者の支援よりも、受け入れ先の事業所の一つであるホームセンターのスタッフの皆さんを「精神的ケア」することのほうが多かった。
 浜通りからの避難者は、全てを自宅に置いて避難しなければならなかったので、買わなくてはならないものがいろいろあった。そして、何か買うときはとにかくホームセンターへ行く。安売りがあると、みんなそれに合わせて行く。さらには、いつまでこの暮らしが続くかわからず余分な出費は抑えたい。そういう不安を持っていた。
 ところが、欲しいものが無いと中通りの人たちは黙って帰るが、浜通りからの避難者は「なんで無えんだ」「たくさんあるって書いてあるべ。なんで無えんだ」と、誰もが聞く。「なんで無えんだ」は、中通りでは「クレーム」として受け止められた。チェーン店のホームセンターでは、クレームの数は店員の成績に関わる。クレームが多い店の店長はノイローゼになってしまう。それで「いや、違うんです。浜通りの人は悪気じゃないんです。書いてあるものが無いと『なんで無えんだ』は言葉は強いけれど、なぜ無いのですかという率直な問いなんです。だから『売り切れたんです』と言ってもらえれば、『そうか』と帰って行きます。クレームじゃなくて、素朴に聞いているんです」と、説明し理解してもらわねばならなかった。
 しかし、浜通りから避難した私たちの態度を誰も「率直」だとは見てくれず、野蛮な人たち、悪い客層という評判が立った。はっきりとは意思表示をせずに黙っていることが美徳という中通りに、突如違う文化の人たちが現れることは、本当に大変なことだった。

こうして分断は生まれていった

 県外の全国各地へ避難した人は、もっと大変だっただろう。まず、言葉が違う。子ども達はいじめられた。子どもだけでなく大人もいじめのような差別を受けたという。県内避難した私たちも避難先で、肩身の狭い思いをすることがあった。「賠償金を貰っている」という言い方をされた。その賠償金は俺たちの税金だ、税金を無駄に使っている人たちがやって来ている。そういう捉え方をされた。「浜通りの奴らは今まで電気代も払っていなかった」というような、すごい誤解もあった。だから「それまで楽していたくせに、事故を起こした途端に賠償金まで受け取ってノウノウと暮らしている」という噂がたった。
 そればかりか、「やらせ」もあった。私たちが居る町のファミレスに来て「俺たちは月10万円ずつ家族7人分で70万貰っているから、なんでも好きなもの食えるんだ」と大きな声で喋る人が居た。友達の妹の飲み屋でも「俺は浪江の人間だ。賠償金○○円で、だからいくらでも飲み食いできるんだ」と言って帰る人が居たという。友達の妹にイントネーションはどうだったかと聞くと、どうも浪江の人間ではない。役場に、浪江から桑折町に避難している7人家族がいるかと問い合わせたら、そんな人は居なかった。そういう「やらせ」の人間がたくさんいたことを私たちは耳にしていた。どんな人が何のためにやっているかわからないけれど、わざわざ分断を仕込む人が居ることを感じるようになった。
 子どもたちのいじめは、正義感からだ。家族の爺ちゃんや婆ちゃん、父ちゃん、母ちゃんが、避難者たちを『あいつらは……』と言って差別している家の子どもは、「俺のクラスに、そういう奴の子が来ているから成敗しなくては」という正義感からいじめに走る。子どもにしたら、いじめではない。だから、先生がいくら「いじめはいけない」と言っても、子どもは正義の鉄槌を下していると思っているから、先生の注意を、我が事とは思わない。だからいじめはなかなか無くならなかった。
 私の住んでいた仮設住宅でも、1年生が玄関から喜んでランドセルを背負って行ったのに、しばらく後には学校に行こうとしても玄関で嘔吐して出られなくなってしまうということがあった。そして「明日は行くから、今日は休ませて」と言って泣く。婆ちゃんは「今日休んだら、明日も行けねえぞ」と言って出す。でもその子の兄ちゃんたちが、「二本松に浪江の小学校が出来るらしい」って聞いてきた(2011年8月、旧二本松市立下川崎小学校に浪江小学校と浪江中学校開校)。そしたらその子は「何でもすっから、何でも手伝うから、浪江の小学校へ行かせてくれ」って。そしてその子は、喜んで朝早くに起きて桑折町から二本松の浪江の小学校に通うようになった。その子の卒業式には親だけでなく、地域のみんなで行った。そういう私たちの地域だった。原発事故の避難で辛い思いをしたのは、子どもたちだった。

仮設住宅のあった桑折町で学んだこと

 桑折町ではかつて、以前あった製糸工場の跡地をどう使うかが問題になったことがあった。選挙で「大手スーパーを呼ぶ」と言った当時の町長と、「いや町民のために使う」と言った候補者との争いになり、町民は「町民のために使う」と言った候補者を新しい町長に選んだ。跡地は公園になった。
 原発事故が起きた時に、桑折町はその広い公園に、被災地域の中で一番人口が多かった浪江町の仮設住宅をつくることを決めてくれた。町をあげて決議してくれた。そして浪江町民を桑折町準町民として迎える、だから町の一切の施設使用についても町民と同じように扱うと決議してくれた。だから私たち避難者は町の施設を、町民として同じ値段で使うことができた。
 でもその他の地域に避難した人たちは、違った。同じように放射能による被害が起きていたのに、避難指示は全く出ていなかったいわき市は、特に大変だった。そのことで分断が生まれた。「おめえたちは税金も払っていないのに、この施設を使うな」と使用を断られたり、図書館に行けなかったりした。自治体として、避難者を受け入れる姿勢をどう持っているかということで、違いが大きく出た。
 浪江町の臨時役場が置かれた二本松市は桑折町から遠かったので、桑折町の仮設住宅にいる私たちは、何かあってもすぐに町役場に頼るわけにはいかなかった。その時に桑折町役場の人が町役場につないでくれて、出勤すると朝一番に「今日もお元気ですか」と仮設住宅を回ってくれた。帰りにも「今日一日ご無事でしたか。困ったことはなかったですか」と、回ってくれた。そのことが、「この町で暮らして良いのだ。人を頼って良いのだ」と教えてくれた。だから、私たちの仮設が一番元気な仮設だった。桑折町の避難者は何であんなに元気なんだと県の職員が言い、保健婦さんは桑折町の避難者は明るいと言ったが、それも「ここに居て良いのだ」と受け入れられたからで、人が受け入れられることの大切さを学んだ。人が人に支えられることのありがたさを学んだ。
 町で祭りがあると、神輿が全部の仮設住宅を回ってくれた。爺っちゃんが喜んで祝儀袋を持って待っていると「いやいや、避難している人から祝儀を受け取るわけにはいかない」と桑折町の人に言われる。爺っちゃんは「いやいや違うんだ。俺たちも同じように祭りを楽しませてもらえる。それがどれだけありがたいことか、わかってほしい。そしてこの祭りにご祝儀を出せる。俺たちはご祝儀を出せることが一切無くなったんだ。だからここでご祝儀を出せることがありがたいんだということを、わかってくれ」。
 祭りの日には、私たちの町の祭りの風景が重なった。人が対等に扱われることの大切さ、それを表現できることが本当に大事なんだということを避難で学んだ。

「帰還困難区域」なのに「帰れる場所」

 帰還困難区域の中で「特定再生復興拠点区域」は避難指示が解除になり、帰還困難区域だけど帰ってもいい場所とされた。国は、オリンピックまでに避難者はなくすということで、こんなふうに特定再生復興拠点区域を作った。我が家はその区域内に在るので除染されて、2023年の3月31日で避難指示解除になった。
 避難前は、家で使う水は山からの引き水だったから、水道の蛇口を止めることがなく、ずっと流しっぱなしだった。避難して町で暮らすようになって、水道を止める癖をつけるのが大変だった。町では水道料金と下水料金がセットになっていることを知らなかったから、「こったらかかるのかい?」と、びっくりした。上下水道料金も払ったことのなかった私たちが避難したので、大変だった。
 ところが除染で山からの引き水がなくなったので、避難解除になったら井戸を掘ってくれることになった。しかし、避難解除から5年経っても月の半分以上暮らしていなかったら、井戸掘りの費用(110万円以上)を返せと言う。工事はまだこれからで、その井戸の水からは今は何も検出されていないが、やがてはセシウムを取り込んでいくのかもしれない。
 浪江町では、2011年3月11日19時18分に発令した「原子力緊急事態宣言」はおろか、21時23分に3キロ圏内に避難指示が出されたことも、そのときには全く知らされなかった。停電の中で電話線を結んで原発事故についての情報を知った町は、一番北の津島地区への避難命令を町民たちに出した。
 なぜ避難するのかということを、町は住民に言えなかった。もう一度大きな地震がくるかも知れず、そうすると沿岸部が壊滅状態なので津波の被害はもっと大きくなるかも知れないということでの避難だった。津島へ行く途中の大堀の小さな川にまで津波は盛り上がって流れ込んでいたから、誰もが「そのとおりだ」と思ったことだろう。
 町役場は原発から6キロで、原発に働きに行っている人も居たから「異変」という情報はもたらされていたが、国や東電からの正式な情報は無かった。原発事故があった場合には当該原発事業所は直ちに立地町、県、国に知らせ、県と国は周辺自治体に知らせる取り決めになっている。浪江町は立地町ではないが、東電と特別の約束をして事故の場合は直ちに知らせを受けることになっていた。だからこれまでも、「原子炉建屋の中に作業員が軍手を落としたが異常は無かった」というような報告はいつも来ていたと、当時の馬場町長は言っていた。それなのに今回は大事なことを知らせてよこさなかった。
 馬場町長は、「私は原発に対して何の不安も持っていなかった。何かあるかも知れないと思うことはあっても、こんなことになるとは思っていなかった。そのことを恥じています」と言って、原発に対しての自分の姿勢は間違っていたと町民に謝った。そして原発交付金は、もう受け取らないと宣言した。交付金は3000万円くらいだったから、町の予算規模からすればさほど多くない金額だったが、町議会に「受け取らない」と提案し、議会も満場一致で提案を受け止めた。浪江町議会は、正常な判断をしたと思う。自主避難者の住宅支援を県が打ち切ったときも、汚染水放出のときも、浪江町は反対の決議をした。浪江町は、本当によく頑張った。
 でも馬場町長が亡くなって町長が代わってから町の姿勢は変わってきた。さらに、今の町長は自民党の浜通りの支部長の甥っ子だそうだが、この人になってからもっと変わってきたと感じる。

福島県民のみ年間20ミリシーベルト

 国が出した原子力緊急事態宣言は、今も出されたままだ。緊急事態だから、福島県民は年間被ばく線量20ミリシーベルトを受容せよと言われている。一般日本国民は年間1ミリシーベルトだが福島県民は20ミリシーベルトで、これは福島県民は被ばくしても構わないと言っているのと同じことだ。被ばくを一番受けるのは農林漁業者だ。それで被ばく管理の法律を農林漁業者に適用してくれという交渉を、農民連(農民運動全国連合会)はずっとしてきている。国は、企業に勤めている人たちは被ばく管理をして保護しなければならないが、あなた方は自営業だ、という言い方をする。
 ホットスポットは、いくらでもある。一般家庭には下草刈りはするなという。下草を刈ると土が舞い上がって内部被ばくするからだが、でも、被ばくするからなどとは一切教えない。そして、「笑っていれば大丈夫、放射能は来ない」などと言う。
 東電は、あの事故は津波のせいだと言う。仮設住宅に居た私たちは、ある日東電の差し向けたバスで中学校へ集まった。東電職員は壇上から言った。「この度の東日本大震災の被災につきまして、お見舞い申し上げます。私たちも同じ被災者です」と言ったから、みんなすごく怒った。「おらたちはな、地震だけだったら誰も逃げなくてよかった。今頃はもう暮らしを立て直しているべ。お前たちのせいじゃないか」と怒って言い、爺ちゃんが「みんな、帰るべ」と声を上げた。「ここに居たらよ、俺たちは東電の説明会を聞いた。謝罪を受け入れたみたいな話になっぺ。お見舞い申し上げますの、どこが謝罪だ。認めてなんねえぞ。帰るべ。こんなのはな、何たら工作に使われるんだぞ」と言ったら、みんなも「アリバイだ、アリバイだ」「んだ。それだ」と言って、「東電のバスになんか乗れっかい」と、みんなゾロゾロ歩いて帰った。それが2011年の7月のことだ。

子どもは宝

 浪江町にあった請戸小学校は、2011年3月11日には卒業式の準備をしていた。その2日前には避難訓練をしていた。11日午後、地震の後で爺っちゃんが「津波が来るぞ。子どもを逃がせ」と言って知らせ、それで子どもたちは大平山に逃げ、全員無事だった。それだけでなく、誰も津波を見ないで済んだ。もし津波を見たら、家族が、家が流されたかも知れないと大きな不安を持って大変だっただろう。
 町民も避難したが、避難路が避難路たりえなかった。車の列は途切れずに続き、10キロ、20キロ速度でしか走れず、ガソリンも尽きていたからノロノロ運転で避難した。浪江町にも放射性プルームが流れていることをなぜ知らせなかったのかと国に言うと、知らせたら我先にと逃げて混乱を極めて危険だからと答えた。でも実際にはこの避難の車列の中で、ガソリンが尽きた車もたくさんあったが、するとみんなはその車を脇へ寄せて乗っていた人たちを全部自分たちの車に振り分けて乗せ、誰一人残すことなく避難した。だから混乱を極めるなどということは無かった。これは浜通りの人の気質だ。
 貴重品を持って避難所などには行けない。仮設住宅で婆っぱがこんなことを言っていた。「おらはな、子どもが7人、卒業と入学だったんだ。それでおらはよ、小中学生に差をつけながら、30万円、金をおろしたんだよ。その30万なんて持ちなれないものを持って避難して、どっかに落としたりしちゃなんねえと思って、家さタンスの中さ入れて逃げたんだ。帰れるようになって家さ入ったら、何も無かったぞ」。避難者の留守宅に最初に来たのは、救援ではなく泥棒だった。
 何も持たないで3月の雪が降る中を、私たちは避難した。何を持っていけば良いのかわからなかった。すごい地震だったから家具などが崩れてしまって、毛布など持ち出せない家もたくさんあった。こんな避難状況だった。
 私たちは祭りなどの時は大きな鍋で炊き出しをやっていたから、ここにプルームが流れているとも知らないで、避難してきた人たちに外で炊き出しをしていた。後になって、ここで被ばくをしたと言われた時には、本当に申し訳ないことをしたと思った。外で煮炊きして食べさせて、たくさんの人を被ばくさせてしまった。
 津島地区は、全家庭が「子ども110番の家」で、子どもは地域の宝だった。それが今はイノシシとサルの天下になってしまった。被災前にはサルはいなかったが、先日は我が家の屋根に30匹くらい居た。そんなところも、この4月からは「帰れるところ」になった。
 子どもは宝だから、雪が降ると子ども達の登校前に道をつける。隣の家との間はすごく離れているが、そこに全部道をつける。奥の方から朝4時くらいにトラクターの音が聞こえてきて、「あ、今日は雪が降ってるんだな。早く起きなければ」と、そんなふうに思ったものだった。
 11月3日の奉納の舞では、子どもたちは獅子頭を被って太鼓を叩きながら、ピョンと飛んで舞い踊る。本当に可愛かった。もともとは男の子が舞うものだったが、今の世に何で女子が神社に入れないんだ、男女同権だべと言って、女の子の衣装も作って女の子も舞えるようにした。私たちは婦人会に属していたが、「婦人会なんて、そんな古い名前はやんだな」と、「女性の会」として県の婦人会に属して活動していた。
 私たちの津島は、そんな地区だった。

木の実が豊作のわけ

 浪江町はコスモスが町の花で、休耕田にはコスモスの種を蒔いてコスモス畑にした。今は田んぼを草が覆っていて何が何だかわからない。全部藪になってしまっている。そこが田んぼだったことがわからない。最初にセイタカアワダチソウが来た。また、カワヤナギは綿毛でタネが飛ぶから活着する。それで次には柳林になった。その間もセイタカアワダチソウは根を広げていき、用水路の縁にあたる。それは自分の毒で小さくなっていく。その根が張り巡らされた中にもう一度ススキが芽を出して、ススキの原になる。そういうところで除染が進められた。
 除染は肥沃な土を剥がして山砂を入れる。我が家は2回除染されて、肥沃な土地など無い。そうしたらそこに私の背丈よりも高いススキが生えてきた。原発事故が起きた日から毎日、今も、放射性物質は放出され続けている。セシウム137はカリウムと化学的性質が似ていて、植物を育て元気にする。だから我が家は緑が濃いし、キウイの育ちも早い。被災前は我が家のキウイは剪定しないとなかなか実がならなかった。ところがあれから、一度も剪定していないのによく実がなる。今まではイノシシが熟して落ちるのを待っていたが、今はサルが来たのでイノシシの食い扶持はない。栗だってイノシシはドンとぶち当たって落ちてくるのを待つが、サルは木に登って揺らす。木の実は、豊作だ。

内部被ばくに無防備な国

 原発事故後、福島は本当にイノシシが増えたから駆除命令が出た。駆除したら燃やすしか無い。燃やすと体積が少なくなるからだ。駆除したイノシシを冷凍保管する倉庫を建て、専用の焼却炉を造った。その焼却灰は、厳重に保管されることになっている。
 放射性物質についての産業廃棄物に関する取り決めは無い。民間の焼却場は、どうなっているかわからない。なんでも測ろうということで鹿児島の伝統食の「あくまき」という和菓子を検査したことがあった。驚いたことに1000ベクレルを超えた。あくまきは灰を使って作るので、その灰がどこから来たものかを調べたら、福島県からだった。草木灰、本当に恐ろしいことだ。安全だと思って買った人も沢山いただろう。食べた人もいただろう。
 被ばく、特に内部被ばくは、この国ではどこで起きているかわからない状態があるのではないかと思う。仮設住宅で私たちは、せめてプランターで花を作りたいと思った。でもホームセンターの腐葉土の放射線量がすごく高く、2マイクロシーベルトもあった。ホームセンターが腐葉土を調べてくれたが、茨城県と栃木県産だった。そしてそれは店頭から撤去された。怖いことだと思った。福島産のものは調べられるが、他の産地のものでは、調べられないものが沢山ある。
 今年も富士山麓は野生キノコの出荷制限がかかっている。去年は岩手でも制限がかかった場所があった。広範囲にわたって放射性物質が降ったということだ。内部被ばく問題が、いい加減にされていると思う。体の中に絶対に入れてはならないと防御しているものを、吸い込んだり食べたりするわけだから、本当に無防備だ。
 (1枚の写真を示して)この材木の山は震災前に我が家の馬小屋を潰した後の材木だが、撤去するのに200万円かかると言われて、それなら自分たちでなんとかしようと、そのままにしておいた。そうしたら原発事故になってしまった。我が家の除染になった時、いちいちこれをどかして作業して、作業後も撤去しなかった。そして、これは原発事故前からここにあったものだから、撤去しない、持ち帰らないと言う。除染というのは汚染されたものを撤去することだと思うが、縦割り行政で管轄が違うと、そんなことになる。だから馬舎を潰した木は、汚染されたままそこに残してある。
 また、通り門がイノシシに破られてしまったと思ったら、よく見るとバールでこじ開けた跡があった。そしてタンス、長持ちが持ち去られていた。それらはリサイクルショップで売られたかもしれない。趣味で民具を集めたり扱ったりしている人が買ったかもしれない。すると、誰かを被ばくさせたのかもしれない。
 もともと田んぼだったところが原発事故後は原野になり、その原野だったところが除染されて再び田んぼになった。この田んぼを管理しなければならない。すると営農組合が必要になる。それで悩んでいる。こんなところで、食べ物を作ってはいけないと思っている。でも、ここの管理をどうやっていくかは地区全体のことだから、我が家の田んぼだけ放っておいてくれというわけにはいかない。すごく悩む。
 なぜ被害者の私たちが悩まなければならないのか。被ばくの問題に心砕かなければならない。なぜなんだろう。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。