第653回:あなたに石を投げる資格はあるのか? 〜映画『過去負う者』を観て。の巻(雨宮処凛)

 非常に考えさせられる映画を観た。

 それは舩橋淳監督の『過去負う者』

 犯罪を犯した元受刑者たちの社会復帰への「壁」を描く作品だ。

 現在、満期出所者が5年以内に再犯し、再び刑務所に入る確率は約50%。再入所者の7割が無職だったという。その背景にあるのは、元受刑者たちを受け入れてくれる職場が圧倒的に少ないということだ。

 『過去負う者』では、そんな元受刑者たちと、彼ら彼女らを支援する人々が描かれる。元受刑者の「罪」はさまざまだ。ひき逃げによる殺人罪で10年服役した男、児童へのわいせつ行為で捕まった元教師、また薬物や放火で逮捕された女性など。

 映画ではあえて台本を用意せず、俳優が自身の意思で台詞を発するという「ドキュ・フィクション」という手法が使われている。だからこそ、鬼気迫る言葉が発される。

 その果てに浮かび上がるのは、元犯罪者と「自分たち」に明確な線を引き、彼らを排除しようとするこの国の不寛容さだ。

 「犯罪者なんて自分には関係ない」と思う人もいるだろう。

 確かに多くの人にとってはそうかもしれない。しかし、一度犯罪を犯した人間が社会復帰できない社会は、大きな代償を払う可能性をはらんでいる。

 それを痛感したのは、最近読んだ『闇バイト 凶悪化する若者のリアル』

 タイトル通り、闇バイトに手を染める若者たちと彼らを利用する半グレについて書いたものだが、本書では、軽い気持ちで特殊詐欺や強盗団に加わった若者の「その後」がいかに悲惨なものであるかが強調されている。

 「このような犯罪に加担したら、長い懲役刑を受けなくてはならない上に、若くして前科者の烙印を押されてしまいますから、真っ当な社会生活を送ることが難しくなります。さらに、半グレの一員として詐欺犯罪に従事すると、出所後も銀行口座は開設できないので、各種契約も難しくなります。成人だと、ネット上にデジタルタトゥーとして名前が残り、就職や結婚にも差し障りが出ます」

 「彼らを社会的に排除し、口座も持たせない、住居の賃貸契約もさせない、就職もさせない状態に置くことで、じつは、新たなシノギが生まれます。
 それはたとえば、ヤミ通帳であり、ヤミ携帯です。使い捨てにしたはずの人間をシノギのネタにする、骨の髄までしゃぶるのが半グレです。そして、彼らは、再び犯罪に走る(一般の仕事に就けないために、走らざるを得ないのです)」

 いかがだろう? ここ最近、白昼堂々と強盗などが行われるようになり、この国の体感治安は急速に悪化しているわけだが、そんな犯罪で逮捕される若者たちは、その日が初対面の「闇バイト」応募者。

 「闇バイト強盗」では、2021年夏から22年2月までに60人以上が逮捕されているそうだが、その中の何割かは、再犯が約束されたような状況に置かれてしまうわけである。まだまだ若い彼らに必要なのは、このような「徹底した排除」ではなく、更生のための教育や職業訓練などではないのだろうか?

 一方、現在、性犯罪歴がある人が子どもと関わる仕事につけないようにする「日本版DBS」の創設が注目を浴びている (秋の臨時国会への提出は見送り)。子どもが守られる制度は喫緊に作られるべきだと思うが、アメリカの「ミーガン法」的な流れを懸念する声もある。

 州によっては前歴者の顔写真や住所がネットで公開されており、銃撃や放火事件も起きているからだ。おそらく就労どころではなく、社会復帰など夢のまた夢だろう。だが、原点に立ち返ると、もっとも重要なのは再犯防止、新たな被害者を生まないことである。行きすぎた社会的排除は、かえって犯罪を増やしかねないと指摘する声もある。

 さて、そんな元犯罪者とどう向き合うべきかだが、私自身、知人に性犯罪をした人がいる。それについては「友人や知人から、『過去の加害』を告白されたら。」という原稿で書いた通りだ。私自身、今もまだ明確な答えは出ていないが、法治国家である以上、罪を犯して裁かれ、刑に服した人々は社会に戻ってくるわけである。「怖い」と思おうが「関係ない」と思おうが、彼ら彼女らはこの社会に生きている。

 映画に戻ろう。元受刑者たちはなんとか社会に居場所を見つけようともがき、あがく。しかし、彼らの過去がその足を幾度も引っ張る。過去を知った者たちの目線は、優しいとはとても言い難い。社会復帰への壁の高さを元受刑者たちは突きつけられる。

 彼ら彼女らを排除しようとするのは、自らが「善良な市民」であると信じる人たちだ。そんな人たちが、「安心して暮らしたい」だけでなく、「地価が下がる」などの理由で元受刑者を支援する団体までをも遠ざけようとする。

 そんな姿に、思わず吐き気が込み上げた。同時に、思った。

 あなたはそれほどに潔白なのか。誰かをモンスター呼ばわりし、そこまで石を投げつけられるほどあなたは無辜な存在なのか、と。

 私自身、犯罪を犯して逮捕されたことはない。しかし、それは本当にたまたまだったと思っている。映画の中の元受刑者のように、たまたまひき逃げせず、たまたま「悪い男」にひっかからず、たまたま放火などとは無縁でいられた。

 一方で、裁かれるような罪にならずとも、自分が多くの罪を犯してきたことを知っている。四十数年生きる中、多くの人を傷つけてきたし、10代20代の頃は自殺願望のかたまりで、自分も世界も消えてしまえと思っていた。そんな過程で右翼団体にも入ったし、世を呪う時期はあまりにも長かった。

 結局、私は25歳で物書きとなったけれど、そこから「生き直す」ような時間が始まったと思っている。特に自分と同じような生きづらさを抱える人たちと出会えたことは、私を深い部分で救済した。そうして06年、貧困問題に出会い、困窮者支援に奔走する人たちの姿に感動し、以来、自分も「善き人間」であろうとつとめてきた。

 しかし、今も「過去」を持ち出され、冷や水を浴びせられるような言葉を投げかけられることがある。

 例えばSNSには、右翼に入っていたことを批判する言葉もあれば、デビュー前のフリーター時代、自殺未遂者の一人として受けたインタビューの発言を非難するものもある。自殺願望に取り憑かれていた当時、オウム事件を肯定するような発言をしたのだ。今となっては消し去りたい失言だが、数年前、オウム問題を追ってきた女性ジャーナリストの記事によってこの20年前以上の言葉が拡散され、講演を中止にしろという抗議が来るなど地獄のような目に遭った。

 なぜそのような失言をしたのか。理由は、当時の私はどうせ自分は数年以内に自殺すると思っていたからだ。だからこそ、なんの躊躇もなく右翼団体に入ったし、北朝鮮やイラクに行ったりした。命が少しでも惜しかったらできることではない。

 が、結果的にそのような行動が注目され、物書きデビューとなった。皮肉といえば皮肉だが、このように、いろいろな過去があった果てに今、なんとか「善き人間」であろうとしている渦中、過去の言動を持ち出され、積み上げてきたものを一瞬で無にされるような思いを味わうということ。

 こんなことが何度もあると、もう、「過去」が汚れている私は何をやっても無駄なんだと自暴自棄になりそうになる。本当に、無念で無残な気持ちで、ここまでケチがついてしまった人生、終わらせるしかないような気持ちにさせられる。

 だけど、程度の差はあれ、誰もが罪人である。自らが善良と信じる人々こそ、大きな罪を犯していることだってある。だからこそ、映画の中の人々の無念さが痛いほど伝わってくる。

 彼らを包摂することは、犯罪者に甘く、被害に鈍感なわけでは決してない。本当の再犯防止を願うのであれば、そうさせないような環境作りこそが必要ではないのか。

 あなたも私も、人に言えない過去を背負っている。自分は絶対に罪を犯していない、誰かを傷つけていないなんて人は一人もいない。

 関係ないと思う人にこそ、観てほしい映画だ。

 『過去負う者』は現在、ポレポレ東中野で公開中。そのほか、全国順次公開予定だ。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。