第655回:デモ報道にSNSで苛烈なバッシング〜「当事者」「被害者」に依存しない運動を模索すべき時に来ているのでは〜の巻(雨宮処凛)

 また生活保護がバッシングに晒されている。

 きっかけは、10月に京都で開催された「生存権を求める京都デモ」が報じられたこと。

 生活保護利用者と支援者が「たまには旅行に行きたいぞ」「たまにはオシャレもしたいぞ」「たまにはウナギも食べたいぞ」と路上で訴えたという記事に、大きなバッシングが広がった。

 バッシングは定番のもので、何がウナギだ、何が旅行だといったもの。

 「働いてる自分だってウナギなんて食えないのに」。その怒りは、もちろん理解できる。しかしこの場合、怒りの矛先は先進国で30年間、唯一賃金が上がらない国の舵取りをしてきた現政権にこそ向けられるべきではないかと思うのだ。が、今回もおなじみの「弱いものがさらに弱いものを叩く」光景が繰り広げられている。

 貧困問題に17年間関わっていると、こういう光景には飽き飽きしていて「何度目だろう…」と遠い目になるのだが、ここで、あのデモに腹が立ったという人たちに問いたい。

 もし、自分がウナギも食べ放題で旅行も行き放題、貯金が何億円もあって好きなことしかしてない生活だったら、ここまで腹が立っただろうか? いや、そこまで大金持ちじゃなくても、自らがそこそこ認められ、そこそこ幸せと感じていたら、公的福祉を利用する人たちに心ない言葉を吐く必要はないような気がして仕方ないのだ。

 2000年代、日本が凋落していくと同時に公務員バッシングが始まり、次いで生活保護バッシングも苛烈になった。が、バブルの時代を思い出してほしい。公務員を「特権」的に語る人なんて存在しなかったではないか。逆に稼げない仕事、地味な仕事と敬遠されていた。それが今や、生活保護まで特権扱いする人がいるのだから世も末とはこのことだろう。

 思えば「失われた30年」で日本のGDPは7割程度にまで落ち込み、賃金は上がらないのに国民負担率(社会保険料と税金の合計が国民所得に占める割合)は上がり続け、5割に迫る勢いだ。1980年代は3割だったのに、である。

 そんな「失われた30年」を表す言葉があるとすれば、私は「剥奪感」と「不寛容」だと思っている。

 この30年間、日本で暮らしてきた人は、よほどの富裕層でない限り、何か大いなるものを奪われたと感じている。その苛立ちは、なぜか巨悪ではなく「不正にすらならないようなことをした、決して自分に仕返ししてこない対象」に向けられる傾向がある。それが今回のデモだったり、不倫した芸能人だったりするというわけだ。

 そんなバッシングを見て、思ったことがある。

 それは、すでにこの国では、顔を出してデモをすることさえ危険なのではないかということだ。

 今回デモに参加した人たちは、デモ後しばらく経ってから公開された記事がきっかけで突然バッシングの嵐に巻き込まれ、本当に恐ろしい思いをしたと思う。特にSNS上の攻撃は、当人にとっては世界中から銃口を向けられているような恐怖だ。私も経験があるからよくわかる。そんな攻撃によって、これまで多くの人が命を奪われてきたことは誰もが知る通りだ。

 だからこそ、今までとは違う注意が必要な時期にきていると思う。

 それはデモに限らず、相談会などの現場でも痛感していることだ。例えば15年前、「年越し派遣村」があったことを覚えている人も多いだろう。

 派遣切りなどによって職も住まいも所持金も失った500人以上が日比谷公園のテントで年を越した6日間。派遣村は正月休み返上のボランティアたちによって運営されたのだが、SNSがそれほど普及していなかった当時、当事者の顔などがネットに晒されるなどの被害はなかったと記憶している。

 が、今だったらどうだろう?

 いわゆるユーチューバーなどが大挙して押し寄せ、面白おかしく切り取った動画が拡散されまくるのではないだろうか。

 派遣村があった15年前、現場で気をつけるべきことと言えば、当事者同士のトラブルや警察への対応などだった。しかし、現在は相談会などをする際、一番最初くらいに現場が「撮影禁止」であることとそのアナウンスの仕方が確認される。また、気をつけるべきこととして話題になるのはユーチューバーや動画配信者がいた場合、どう対応するかということだ。

 この15年で、悪質としか言いようのない動画を目にする機会がどっと増えた。いわゆる「寄せ場」を「日本のスラム」などとしてセンセーショナルに紹介するものや、そこにいる人物の顔をそのまま撮影した動画。少し前、Tik Tokにホームレス女性に対する嫌がらせ動画を投稿したとして少女二人が書類送検されたが、あのような動画は氷山のほんの一角だ。誰もが動画を撮り、投稿できる時代になり、路上にいる人や困窮者などを晒し者にするような動画は山ほど出回っている。

 在日コリアンである辛淑玉さんは、「ニュース女子」裁判で勝訴が確定した際の会見で、以下のように述べている。

 「差別は金になります。この社会を覆っているのは差別ビジネスです。差別すれば視聴率が上がり、『いいね』が付き、差別した動画にも広告収入が入る。いま止めないとダメです」

 これと同じ構造が、困窮者を晒し者にするような動画の周辺にもある。それは金になり、閲覧数を増やし、誰かを晒し者にした当人に承認さえ与えてしまっている。

 つくづく、嫌な時代になったものだ。

 私自身、声を上げることが大切と言い続けてきた。声を上げないと、問題はなかったことにされるからだ。

 が、今は声を上げると、確実に誰かが生贄になる。場合によっては名前や個人情報まで晒される。これまで通り声を上げることはおろか、普通の生活が営めなくなる可能性さえある。

 そんなリスクを考えると、「当事者の勇気」に依存した運動は見直すべき時期に来ているのかもしれないとさえ、思う。が、今日もジャニーズ被害者をはじめとして、「顔や名前を出さないと説得力がない」という理由で当事者たちが多くのリスクを背負い、矢面に立たされている。

 そんなものを見ながら、大いなる違和感に包まれている。どうして被害者が、「説得力」なんかのために自分の人生を犠牲にしなくてはいけないのか。昔と違い、一度顔出しすると、デジタルタトゥーとして永遠に残る時代なのだ。そして時に「売名」とまでバッシングされる。そのことに誰も責任などとれないのに、私たちは「被害者」や「当事者」に甘えすぎてはいないだろうか。

 声を上げるなら、同時に身を守る方法を考えるべき時がおそらく来ている。私は、と言えば、もうここまで顔出しで来たのでいろいろ諦めているが、これを若い世代や当事者に強いることだけはしたくない。

 私たちは、そういう地獄に住んでいる。生活保護デモへのバッシングから、そんなことを思った。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。