第130回:瀕死の「大学の自治」に最後のとどめ? 国立大学法人法改悪案(想田和弘)

 今国会では、首相の給料を46万円アップさせるなど、特別職の国家公務員給与を引き上げる法案が非難を集めて炎上している。だが、それよりも将来にわたって禍根を残し、何百倍も有害だと思われる法案が、メディアや主権者にあまり注目されることもなく、衆議院本会議で審議にかけられていることをご存知だろうか。

 それは、国立大学法人法改悪案である。比較的規模の大きい国立大学法人に、運営方針や予算、決算の決定などを行う「運営方針会議」の設置を義務づける。東京大、京都大、東北大、大阪大、名古屋大(東海国立大学機構)の5大学が当面の対象となる。

 毎日新聞の報道によると、文科省の担当者は「大学組織が大きくなる中で学長に決定権が集中していることが課題と捉えた。大規模大学には多くのステークホルダー(関係者)がおり、学長だけでなく複数人の議論で運営していく必要がある」と説明している。

 だが、問題は運営方針会議のメンバーの決め方である。改悪案では、委員は文科相の承認の上で学長が任命するという。つまり大学が自由にメンバーを決められるわけではなく、政府のお墨付きが必要だというわけである。

 朝日新聞によると、盛山正仁文科相は衆院本会議で、「明らかに不適切と客観的に認められる場合を除き、承認を拒否することはない」と述べたそうだ。

 だが、日本学術会議の任命拒否問題の経緯を見れば、そんな口約束が信用できないことは明らかである。政府に批判的な人や方針に従わない人は、承認されない可能性が危惧される。

 なぜ僕がこの文科相による承認権の存在を問題視するのかといえば、それがすでに“死に体”である「大学の自治」に最後のとどめを刺しかねないからである。

 「大学の自治」とは、大学内の人事や問題について、政府等から干渉を受けずに学内で意思決定を行い、独立性を保って管理・運営することをいう。日本国憲法第23条で保障された「学問の自由」を制度的に担保するものである。

 学問の自由や、それを担保する大学の自治がなぜ重要なのかといえば、それなしにはデモクラシーは成り立たないからである。

 たとえば、時の政府が今回のようなダメな法案や、さらにもっとヤバい法案を通そうとしたときに、知の最前線を担う大学人(その道の専門家)が今後の人事や予算配分を気にして、反対の声をあげられなくなったらどうなるだろうか。

 ところが毎日の記事によると、改悪案の対象となる東京大の藤井輝夫学長でさえ、「グローバルで長期的な視点で大学を見てもらい、アドバイスを受けることはあり得る」と改悪案に理解を示しているようである。大学はすでに、政権の顔色をうかがうトップばかりになってしまっているのかもしれない。

 のみならず、自分達の職場の環境を変えうる重大な改悪案が通りそうだというのに、オンライン反対署名や4人の大学人が開いた反対会見以外に、目立った反対運動が起きていないところを見ると、大多数の大学人は大学の自治など守る気もないのかもしれない。

 だから僕などがこんな文章を書いても仕方がないのかもしれないが、それでも書かずにはいられないのは、これが大学のみならず、日本社会のデモクラシーの問題でもあるからである。

 第二次安倍政権の誕生以来、僕は日本の政治状況を「熱狂なきファシズム」と呼んできた。政治に対する無関心が広がるなか、人々が気づかぬ間に、少しずつ、少しずつ、低温火傷のようにデモクラシーが解体されていく。

 今回の改悪も、それだけでは些細な改悪に見えるかもしれないが、そういう小さなことの積み重ねで、気づいたら失われているのが学問の自由であり、言論の自由であり、デモクラシーなのである。というより、今回の大学側の反応の鈍さは、そうした積み重ねの結果だとしか思えないのである。

 いずれにせよ、「熱狂なきファシズム」は安倍政権や菅政権が終わり、岸田政権になった今でも、密かに、着実に、進行中だと言えるだろう。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。