残暑の9月
9月は、慌ただしく過ぎた。
国会前スタンディング。裁判傍聴5件。1泊で小高「おれ伝(おれたちの伝承館)」へ。集会参加2件。定期検診で通院2カ所。Zoom会議2件。これらの合間にギャラリー古藤でパギやんの「広島の母子像」、八王子のスタジオで中川五郎さんのライブ、泪橋ホールでまた中川五郎さんのライブ、本郷の教会で舞香さんの「神々の謡」、テアトル新宿で映画『福田村事件』、浜田山で映画『医師 中村哲の仕事・働くということ』と、ライブや朗読劇、映画を鑑賞。
最終週の27日には、私たち家族にとってとっても大切だった人で昨年3月に亡くなった、カヌーイストの野田知佑さんを偲ぶ会。お別れしてから1年半後に、ごく親しかった友人たちが集まっての会だった。本当に久しぶりに会う人たちもいて、会えずに過ぎてきた年月を思わせる風貌で、口には出さなかったけれど、互いに「歳をとったなぁ」と思ったことだった。けれども飾られた写真やスクリーンに映る野田さんはあの日のままで、野田さんと下った球磨川のカヌーの上では、私の白い帽子が風に煽られていた。共に過ごした日々を思い起こし、改めて「野田さん、ありがとう」を言ったのだった。
落ち着かずに過ぎた10月
10月は「東電原発事故刑事裁判」キックオフ集会で明けた。翌日は住宅追い出し裁判傍聴、次の日は国会前スタンディングを終えた足でそのまま福島へ行き、フォーラム福島支配人の阿部泰宏さんにお会いした。伊東英朗監督のドキュメンタリー映画『サイレント・フォールアウト』を劇場上映していただきたくお願いに伺ったのだ。快く受けてくださり、上映実行委員会を作って、動くことにした。そして4日からは2泊3日での被災地ツアー。参加者の皆さんには被災地の現状を、肌感覚で実感していただけたかと思う。
ツアーを終えて帰宅後に、zoomで『サイレント・フォールアウト』上映実行委員会を開き話し合う。週末の14、15日は1泊で信州峰の原高原の「ペンションふくなが」で「電通の世論操作研究会」合宿。実りある話し合いになった
18日は「門天百夜噺の会」で、古今亭菊千代さんの落語「芝浜」と、パギやんのライブを楽しむ。翌日は裁判傍聴。
23日は葉山のギャラリーに山内若菜さんの絵を観に行った。若菜さんの才能、素晴らしいなぁ! これまでは絵を通してしか若菜さんを知らずにいたけれど、このギャラリーを訪ねて、ギャラリーの成り立ちなどを知ることで、若菜さんの活動や命に対する思いなどが、より理解できて尊敬の思いを深くした。
26日は、この後で述べる「世田谷美術館」行き。
27日は菅野瑞穂さんに誘われて中野芸能小劇場へ。テアトル・エコーの朗読劇「走れメロス」鑑賞。恥ずかしいけれど私は、太宰治は、どの作品も読んだことがない。「走れメロス」も読んだことはなかった。こんなお話だったのかと思いながら、その内容よりも役者さんたちの朗読の力に感銘を受けた。
28日、福島の霊山散策。飯舘村の菅野榮子さんが存命だったとき、訪ねる時にはいつも、その山容を眺めて通り過ぎていた。いつか歩きたい山だった。そこが庭のように近いところに住んでいる通称「アン爺」に、かねてから案内をお願いしていた。10月最終土曜日のこの日が「霊山紅葉まつり」の初日だと教えられ、この日に出かけた。同行はアン爺の他に今野寿美雄さんと息子の颯人くん。初めて会った時には少年だった颯人くんは、来年春には高校を卒業して働く青年になる。頼もしい。
霊山は修験道の霊山寺があり、南北朝時代には霊山城があった、歴史のある岩峰の続く山だ。低い山だけれど、鎖場があったりする。晴れた空の下で眺望もよく眼下に広がる市街地や向こうの山肌の中に樹木が削られて更地になった一角があり、アン爺は焼却場の跡だと教えてくれた。原発事故後、各地に「減容化施設」と銘打って何億というお金を使って放射性廃棄物の焼却施設が建設され、その後数年して、それらの施設はまた何億というお金を使って解体されていった。建物がこうして無くなってしまったからみんな忘れてしまったかもしれないが、私は忘れずに覚えておこうと思う。
護摩壇を過ぎて、城跡の広場にはバイオマストイレも作られてあった。最高地点の825mの東物見岩で、今野さんが用意してくれたおにぎりとゆで卵のお弁当をいただいて下山した。
今年はいつまでも残暑が続いたので、紅葉の見頃にはまだ少し早いようだったが、秋の1日ゆっくりのんびり山歩きを楽しんだ。
「土方久功と柚木沙弥郎」展
こんなふうに10月はなかなかに忙しい日々を過ごしていたが、あと1週間で10月も終わろうとする25日、小さな記事だったが新聞で嬉しい情報を見つけた。世田谷美術館で開催中の展覧会の情報だった。「土方久功と柚木沙弥郎――熱き体験と創作の愉しみ」と銘打って、9月9日から開いていて11月5日が最終日とあった。土方久功という人は知らないが、柚木沙弥郎は大好きな作家だ。型染めも、絵も、言葉も好き。これまでも各地での展覧会にはずいぶん通った。これは絶対に行かなければと思ったが、新聞を読んだその日は用事があって行けず、翌日出かけた。会期終了10日前の駆け込みだった。
この二人に直接的な接点はないが、土方の作品には、ミクロネシアに惹かれてそこで出会った人々への憧憬を見ることができる。一方、100歳を超えてなお活躍を続ける柚木も、海外への旅とそこで出会った玩具への興味などが、より自由な表現へ向かう契機になった。その双方の作品を並べ、「熱き体験と創作の愉しみ」として企画された展覧会だった。
世田谷美術館
目指す世田谷美術館は砧公園の中に在る。公園の名前はこれまでもよく聞いていたが、訪ねるのは初めてだ。新宿から小田急線「千歳船橋駅」からバスで10分くらいの場所だが、「千歳船橋駅」も初めて降りる駅だった。でも途中の「豪徳寺」は高校時代のボーイフレンドの家があったところで、駅名を懐かしく眺めて過ぎた。
千歳船橋駅からバスで「世田谷美術館入り口」で下車したが、その先の停留所が「砧公園」だから、かなり広い公園らしい。Wikipediaで調べたらサッカー場、野球場兼競技場もあり面積39.1haとあった。いつか今度、ゆっくり公園を散策しにこようと思いながら、美術館への道を辿った。
土方久功
受付を済ませると広いガラス窓の廊下を通った先が展示場だった。土方久功の彫像が置かれていた。ここにくるまで作家の名前を全く知らずにいたのだが、それらの像を一目見るなり、すっかり魅入られてしまった。いくつもの像が置かれていて、ユーモラスで泥臭いような作風のものもあれば、繊細で研ぎ澄まされたようなものもあったが、そのどれにも心惹かれた。
たとえば、ブロンズ像なのだが、まるで大きな土塊をワシワシと削って象ったようにさえ思える「二人(間の抜けた闘争)」と題された像。像の2人のむんずと結んだ口や大きな目、太く大きな手や脚、そこからは土方が過ごした南洋の島人の声が聞こえてきそうだった。また「猫犬」と題されたブロンズ像は、全くもって「猫犬」としか言えないような、猫とも犬とも思える、あるいは猫でもなければ犬でもないと思える動物像で、家に連れ帰って共に暮らしたいと思える愛らしい表情だ。
壁面いっぱいに幾つも並んだ木彫の「マスク」は、どれもやはり南洋の島人なのだろうが、語りかけてくるような表情で親しみを覚えた。「美しき日々」と題された木彫のレリーフは窓辺に佇む2人の女性が刻まれていて、タイトルが真っ直ぐ心に伝わってくるように感じられた。
土方久功(1900年〜1977年)は、東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業。当時、日本の委任統治領で「南洋諸島」と呼ばれたミクロネシアへの思いを募らせ、1929年に念願のパラオ諸島(現在のパラオ共和国)に行く。1年ほど現地の子ども達が通う学校で木彫を教えた後、1931年に、より文明から離れた生活を求めてサタワル島(現在のミクロネシア連邦)に移り住み、7年にわたり島の人々と生活を共にした。1944年に帰国し、再びミクロネシアを訪れることはなかったが、その後も常にミクロネシアは人生の中心にあり、滞在中に出会った人々や風景を主題に制作を続けた。
美術館で配布されていた資料には「美術家としてだけでなく詩作や民族誌学においても重要な業績を残した稀有な作家である」とあった。この人のことを、私は全く知らずに過ごしてきていたが、この日に初めてその作品群を見て、その人となりに魅了されてしまった。
44歳で帰国した土方は東京・豪徳寺の自宅に戻り、一時は岐阜県へ疎開するが戦後に東京へ戻った。1952年に豪徳寺の自宅にアトリエを建て、1977年76歳で亡くなるまでレリーフや絵画制作にいそしんだ。また福音館書店から『おおきなかぬー』など、絵本も何冊か出版された。
展示作品の「美しき日々」の木彫レリーフは1952年製作とあったが、年譜を読むと、それは豪徳寺の自宅にアトリエを建てた年だ。1952年と言いえば朝鮮戦争の最中で、日本は特需で経済が潤いつつあった頃だが、子どもだった私の感覚でいえば給食はまだ脱脂粉乳だったし青洟を垂らしたクラスメートも多くいて、まだみんな貧しかった。その頃にこんなに美しい作品を生み出す人がいたことに私は感銘を受けた。
作品の説明にあった文中に、たびたび土方の自費出版詩集『青蜥蜴の夢』からの引用があったので、私は帰宅後に調べて、Amazonで入手した。昭和31年6月1日、大塔書店発行のその本は、紙は焼けて茶色に変色して印刷の黒インクも薄れているが、茶色のインクで挿画が6ページあり、最初の挿画は世田谷美術館で私が魅了された「美しき日々」のスケッチ画だ。その『青蜥蜴の夢』、最後の詩篇に目は釘付けになった。
黒い海
(前略)
あのばかばかしい戦争のおかげで
私は再び東京に帰り住んで四年
文明は相変わらずとんでもない方向を辿っている
(世の中の一番大きなあやまちはこれであろうか)
物質 物質 そして斗争 殺戮 征服
原子爆弾 細菌兵器
(何と野蛮な!文化とは野蛮を成育させたものではない)
新兵器 新兵器の数々
そして無軌道な不倫
見えすいた嘘をごまかす政治と宣伝
極少数者と大多数者の間に深められる
極端な富と生活のひらき
少なくとも文明は精神とは無関係にのさばって行く
(倫理を置き忘れて人間の価値はない)
軍備を撤廃して文化国家をめざした筈の日本も
今や再び文化を放棄して
再軍備へと逆行している
(中略)
ああ 人間は何故
たった一つの言葉しか発展させなかったのだろうか
私には何かもう一つの言葉が必要のように思う
私たちが花や鳥たちに向かいあっている時に
それほどではなくても 人間お互い同士にしても
現在実用されている言葉とはちがった
言わば非実用な……
今では黙っていることが 一番わかり合えるような
言わば心の奥の奥を語り合う場合に
適確に用いられるような もう一つの言葉が欲しいと思う
(それこそは戦争とか殺戮 征服などという
残虐とは正反対な
心と心で触れ合うような世界を導く言葉)
原子学が 人間が発見した第二の火であるならば
今こそ その第二の火を正しく生かす為に
もう一つの言葉を発明しなければいけない時が来ているのではないか……
数々の心惹かれる作品を生み出した人はこんな詩も書いていたのだと知ると、もっともっと、この人について知りたくなる私だった。またどこかで作品展があったら、きっと観に行こうと思った。その為には、アンテナを張っておかなければ。
柚木沙弥郎
柚木は私の大好きな作家だ。祖父は南画家、父と兄は洋画家という家庭環境だったから美術はいつも、生活と共にあった。戦争が激しくなり高校を半年繰り上げて卒業し、1942年に東京帝国大学(現・東京大学)文学部美学美術史科に入学した。翌年、学徒出陣で海軍通信学校へ配属された。終戦後は岡山県の大原美術館に就職。その後は柳宗悦が提唱する「民藝」の思想と、芹沢銈介の型染めカレンダーとの出会いを契機に、染色の道を志す。やがて工芸家として活動するだけではなく、枠にとらわれない自由な創作活動を意識するようになった。
型染め、絵本、ビスケットのパッケージデザイン、指人形ほかの立体作品など多彩な作品を生み出している。そのどれも鮮やかな色使いで、眺めていると心弾む。2004年に福音館書店から出版された絵本『トコとグーグーとキキ』(村山亜土・文)のクライマックス場面でサーカスを見ている人々を手作りした指人形「町の人々」も展示されていて、心弾ませてサーカスに見入る心地が、私にも伝わってくるのだった。
今回の世田谷美術館会場には、型染めや他などの作品だけではなく、アトリエ内部の写真とともに、その室内に置かれている柚木がコレクションした種々雑多な物も展示されていた。メキシコなど旅先で入手した玩具やプラハ生まれの彫刻家ズビニェク・セカルの作品のほかに、何かの包装に使われていたリボンなど彼の心に止まった雑多なものや、家族へ贈るための手作りのクリスマスカードなど、柚木沙弥郎という人を身近に親しく感じさせる展示だった。今までも好きな作家だったけれど、今回のこの展示で、なお一層、私は柚木沙弥郎ファンになった。100歳を過ぎてなお、お元気で活動されていることがとても嬉しい。
今までもそれまでも、僕は急に変わったもんじゃない。
最初っから同じものをぼくはやっているつもり。
ただ、精神性という言葉を使えば、そういうものを露わに表しているのが、セカルだと思う。
セカルは精神性に気づかせてくれたきっかけだね。
ぼくは考えてみれば、生涯、同じことをずっと続けてやってきている。
それを今後もがんばってやるだけ。
それがぼくの人生だと思う。
大きなLIFEと小さなlife
そういうことだね。
がんばる。がんばれ。
——『セカルの作品』展覧会に寄せて 2023年7月23日 柚木沙弥郎
もう一人大切な人
今回の展覧会とは関係がないが、もう一人私にとって大切な人のことを書いておきたい。今は鬼籍に入られた林二郎さん(1895年〜1996年)だ。100歳を超えてお元気に活躍されていた。ヨーロッパの農家風の家具を作るぺザント・アートの第一人者といえる人だ。
私が今住んでいる家に引っ越す前のこと、ある時銀座の画廊で「林二郎展」と表示して椅子などの家具が展示されていたのを見て、中に入った。私は以前から椅子が好きで、家具売り場などで気に入った椅子を見ると、つい座ってみたくなる。この時も画廊に並んだ椅子が気になって、座ってみた。小ぶりの椅子で座り心地も悪くなく値段も手頃で、階段の踊り場で、ちょっと休むのにちょうど良い。その時まで私は林二郎という人を知らなかったのだけれど、この椅子で虜になった。そして二郎さんの作品展があれば、追っかけのようになって通った。
二郎さんは、晩年は体力が要る家具ではなくて額絵を作るようになっていた。タイルに絵を描いて木彫の額に入れた作品はどれも小品だけれど温かみがあって素敵だった。私は鳥の絵を描いたものばかりを集めたが、中に一点、タイル絵ではなくて糸絵の小鳥を飾った丸い額がある。布に糸をさしたものではなく、糸で地を埋め尽くすように貼って描いてある。黒い縁取りに赤い地色、その赤の地色の中に黄色い翼の青い小鳥。大好きなこの額絵は、ベッドの枕元に飾ってある。
世田谷美術館で沙弥郎さんの作品を目にして、100歳という年齢からふと二郎さんを思い浮かべたのだけれど、「あれ?」と思い起こしてみたら、二郎さんのアトリエも世田谷美術館の在る用賀に在ったのだった。そんな偶然の不思議に、何だかまた心が弾んだ。
絵本で読む宮沢賢治
世田谷美術館のショップで、柚木沙弥郎さんが絵を描いた『雨ニモマケズ』を買った。これがまぁ、何とも素敵な絵本だった。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」というとその詩の言葉と共に、ちょっと俯き加減でコートを着て帽子を被って歩く賢治さんの写真を思い起こすが、沙弥郎さんの絵はそんな陰気な印象をはねっ返して、赤いシャツを着て大きな麦わら帽子を被った裸足の健康そうな人が「雨ニモマケズ」の文字ページに相対して、ページいっぱいに描かれている。右ページに詩の一節、左ページにその言葉に相応しい絵。「雪ニモ」に対しては、黒いマントに灰色の長靴で青い頭巾を被った後ろ姿の男、その背には大根を一本担いでいる。最後の「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」に対するページの絵は、人の肩から下は紙からはみ出て描かれておらず、首から上の横顔の人が両手を思いっきり高く伸ばし(片方の腕は赤いシャツ、もう片方は青いシャツ)、大きな真赤な太陽に開いた両手を向けている。何とも明るく突き抜けたような、気持ちがスッキリするような絵で終わっている。
沙弥郎さんの絵は、ちっとも教訓めかずに、賢治さんの祈りや願いをまっすぐに表しているように感じられた。今まで私は、こんなふうに「雨ニモマケズ」を思ったことはなかったように思う。何だか沙弥郎さんの解釈によって、これまで気づかなかった「雨ニモマケズ」に触れたような気がする。
絵本の発行元は「ミキハウス」で、本のカバー裏には「ミキハウスの宮沢賢治の絵本」として、たくさんの賢治作品をそれぞれ別の多くの画家が絵本にしていることが示されていた。
興味を覚えて、田島征三さんが絵を描いた『どんぐりと山猫』、スズキコージさんの『注文の多い料理店』、荒井良二さんの『オツベルと象』を注文して買ってみた。
絵によってイメージが固定化されるということもあるだろうから、子どもにはまず朗読で話を聞かせたいと、私は思う。大人が読み込んで、読み込んで、そしてイメージ豊かに語り聞かせてほしいと思う。「ことばは初め、声だった」と思うから、声で豊かに語り聞かせてほしいと思う。耳から聞いたお話がそれぞれの子どもの中でそれぞれの絵になってイメージされていくだろう。だから『よだかの星』も『なめとこ山の熊』も、子どもには絵本ではなく語り聞かせてあげたいと思う。
けれども、大人には絵本で読む宮沢賢治はとても面白い。私の中で固定化されていたイメージとは別の解釈で、画家が賢治童話を絵解きしてくれる。挿画は物語の理解を助ける意味で挿入される絵だが、絵本は物語そのものを画家が独自の解釈で、絵で描き起こしているのだ。ミキハウスの絵本で、私は新たな賢治発見という気分になった。
沙弥郎さんの絵で詩を読む
霊山から帰った後の10月30日、もう一度「土方久功と柚木沙弥郎」展に出かけた。11月5日までの会期中、できれば何度でも通いたかった。最初に行った日に沙弥郎さんが絵を描いた『雨ニモマケズ』を買って帰ったが、それに続いて沙弥郎さんの他の絵本も買って帰った。
まど・みちおさんの『せんねんまんねん』(理論社)、谷川俊太郎さんの『そしたら そしたら』(福音館書店)、原田宗典さんの『ぜつぼうの濁点』(教育画劇)。
まどさんの詩は好きなので、詩集も何冊か持っている。詩は、文字を目で追って読むだけでなく声に出して読むと、なお心にストンと沁みてくる。「せんねんまんねん」も、何度そうして読んだことか。「いつかのっぽのヤシの木になるために そのヤシのみが地べたに落ちる (中略)まだ人がやって来なかったころの はるなつあきふゆ はるなつあきふゆの ながいみじかい せんねんまんねん」
春夏秋冬の繰り返されてきた千年万年。悠久の時の流れに気持ちが開く。でも私はこれまでは、椰子の実が地べたに落ちた時の音を聴くことはなかったし、その地響きを感じもしなかった。それが沙弥郎さんの絵を見ながらそこを声に出して読んでみると、水をいっぱい含んだ重たい椰子の実が地べたにズドンと落ちた音や、地べたの中からミミズが飛び出すほどの地響きを感じたのだ。飛び出したミミズをヘビがのみ、その蛇をワニがのみ、そのワニを川がのむ。その川の岸に、まだ人がやってこなかった頃からのめぐりめぐる命。繋がりながら続いてきた命の千年万年。
沙弥郎さんの絵が、文字で読んできたまどさんの詩の世界を、もっと豊かに展いて見せてくれた。
谷川俊太郎さんの『そしたら そしたら』は、どこかから転がってきた青いビー玉が池に落ちたら、池の中のカバがくしゃみをして、そのくしゃみにびっくりしたキリンが滑って転んで、それを見た猿が笑い出し、その猿の顔がテレビに映ったらお母さんがいきなりテレビを消して……と荒唐無稽な話が続く。こんな話が子どもは大好きだが、それが何とも楽しい絵になって繰り広げられて、話を終わらせずに「そしたら そしたら」ともっと続きをせがみたくなる。
原田宗典さんの『ぜつぼうの濁点』は、幻冬舎文庫に初出の文章を原田さんが加筆、修正して、沙弥郎さんが絵を描いて絵本『ぜつぼうの濁点』になったという。原田さんの軽妙な文章が好きなのだが、その文章にこれほど似合う絵はないと思える沙弥郎さんの絵で、まるで落語を聞くようなオチで、一件落着する。気持ちが疲れて何もしたくないような時にこの絵本を開いたら、笑って深呼吸できるに違いないと思えた。
「昔むかしあるところに言葉の世界がありまして その真ん中におだやかなひらがなの国がありました。ひらがなの国でおきた ふしぎなお話です。」と物語は始まる。「あ」から「ん」までの五十音らがくっつきあって意味をなしていた国だったが、ある時に「や行」の道端に「濁点」が落ちていた。主に当たる「ひらがな」もないまま「濁点」だけがあることを不審に思って「や行」の人たちが「やいのやいの」と口々に訳を尋ねたら、「濁点」はいかにも申し訳なさなそうにか細い声で答えた。
自分はあの山の向こうの深い森に住む「ぜつぼう」に長年仕えた「濁点」だった。「せ」の字について忠実に職務を果たしてきたが、年がら年中「もうだめだ」と頭を抱える主人に長らく仕えているうちに、主がこうも不幸なのは「濁点」のせいではないかと思うようになり、もし主に自分のような「濁点」がついていなければ主は「せつぼう」という悪くない言葉でいられたはずだと思い至った。
そう言って「濁点」は「や行」の人たちに自分をもらってくれと頼むのだが、誰からも相手にされず逆に罵られて、また一人ぽつねんと道端で過ごしていた。そこにやってきたのが大きな「おせわ」の3文字だった……、という具合に話は続くのだが、これはもう、ぜひこの絵本を手に取って見てほしい! 絵の力を思う。『ぜつぼうの濁点』は、話そのものもまるで落語のようで面白いのだが絵によって面白さが倍増している
私はこれらの絵本を、疲れた時につと手に取れるようにデスクの脇の棚に並べた。
なんだか幸せな、この秋。