第32回:第4回難民・移民フェス 食べて、笑って、綱引いて(小林美穂子)

 11月4日、良く晴れた土曜日、東京都杉並区浜田山の柏の宮公園で4回目になる難民・移民フェスが開かれた。
 私が参加するのは3回目となるこのフェス、回を追うごとにその規模は膨らみ、前回、練馬区の平成つつじ公園で開かれた際には立錐の余地もないほどの盛況ぶりだった。
 これまで私はつくろい東京ファンドの出店を手伝ったりしていて、世界の料理を食べ歩くことも、手作りアクセサリーやバッグを品定めすることすらできないでいたが、今回は客に徹してフェスを楽しんでやるのだと、相変わらず鼻息を荒くして開場よりちょっとだけ早く柏の宮公園に到着した。スタートダッシュが肝心なのである。

難民・移民フェス(写真:高木ちえこ)

「ほしい未来を一日だけ先取りするイベント」

 このフェスの言い出しっぺで実行委員会の金井真紀さんが「ほしい未来を一日だけ先取りするイベント」と過去に取材に答えたように、難民・移民フェスは、世界各国の人達が集い、その国の料理や文化を楽しみ、異なる背景の人々を知り、楽しむイベントで、その空間に満ちる空気は「生」そのものだ。
 母国で迫害を受け、命からがら日本に逃れ、何年も不安な中で難民認定を待つ人達も、難民認定がされず在留資格を失っても帰国できない理由がある人達も、この日だけは過酷な日常を忘れて自分を解放する。

世界のシェフが腕を振るう美味いもの祭り

 16ものテントにスリランカ、クルド、ミャンマーやアフリカの料理、目にも鮮やかなアクセサリーや雑貨が各ブースに並べられた。
 今回、私は「食うぞ!」という意気込みだけで会場にいた。前日に実行委員会が発信していた「出店紹介」も丹念に予習していた。事前準備に怠りはない。
 当日は初夏のような日差しだった。到着するや喉が渇いた私が、まず目指したのはミャンマー(※訂正)スリランカのブースで売られていたドリンク「ハニージンジャー」と、カルダモンで香りづけしたココナッツがたっぷり入ったパンケーキだ。私はココナッツが好きなのだ。
 ドリンクを左手に、パンケーキが入ったビニール袋を右手に下げながら、私はブースをハシゴする。トルコ姉妹が焼くチキンラップサンドを買い、そして、クルドのピザを買い、たくさんのハーブが香る熱々のモロッカンティーをふうふうと飲み、友人が買ったミャンマーの夕顔フライをつまんだ。
 食う、飲む、の合間に、雑貨やアクセサリーの品定めも忘れない。最近ではオシャレとは無縁になっている私も、かつてはアクセサリー愛好者だった。繊細なレースをかぎ針編みでこしらえた華やかなピアスや、アフリカのビーズアクセサリーに心を鷲掴みにされ、気づいたら4つも買っていた。物欲の塊と化した私は、途中で財布にお金がなくなると、ツレアイのもとに足早に戻っていき、「金をくれ」と大胆に無心して、買い物を続けた。年に一度の誕生日ですら「欲しいものなど特にない」と、無欲の僧みたいなことを言い続ける私が、この日はダムが決壊したかの如く、買い物をした。それほどに魅力的な出店物が溢れていた。あと雰囲気ね。青い空、集う人々のワクワクした表情、目をキラキラさせた出店者と、その笑顔の下に並べられた色鮮やかでかわいい商品の数々…もう「全部くれ! ツケで!」くらいのことを言いたくなってしまう。もっとお金持っていくんだった。それだけが悔やまれる。
 移民の大先輩である在日コリアンのハルモニ(おばあさん)達が、川崎市ふれあい館からブースを出し、「キムチ」漬け体験ワークショップしていた。これも外せない! と思って足を向けた時には、既に売り切れ御免となっていた。これも悔やまれる。

出店されていた手作りアクセサリーや雑貨(写真:筆者)

私たちは絶望しない

 ステージではサヘル・ローズさんが司会をし、各テントの出品物を紹介していた。次いで、「川崎」出身の在日コリアンラッパーFUNIによるラップ、難民、移民の方々による魂の歌が続く。異国の言葉で歌われるその歌の歌詞は分からずとも、思いは異国情緒あふれるメロディに乗って、東洋の私たちの胸に刺さって広がるのが不思議だった。私たちは確かに何かを受け取っていた。見事な歌唱力と声量で、朗々と歌い上げたその女性は最後にこう言った。
 「メディアは私たちの声を取り上げてくれない。でも、こうして皆さんと繋がれる。だから私たちは絶望しない」
 ステージは大きな木々に抱かれるように設置してあり、26℃を超える季節外れの強い日差しが照り付ける中、心地よい日陰を作っていた。一陣の風が吹くと、木々はいまが11月だということをふいに思いだしたように、パラパラと葉を落とした。

ラジオ公開収録、荻上チキさん登場!

 13:45、この時、あちこちのブースを物色したり、食事を楽しんだりしている人達が、一斉にステージ近くにいた私の方向に集まってきたので、一瞬「なんだなんだ」と小さくパニックになったのだが、なんてことはない荻上チキさんのラジオ番組『Session』の公開収録が始まるのだと、お馴染みのテーマ曲が流れた瞬間に知った。
 ラジオの人、荻上チキさんと南部広美さんがステージの上から「皆さん、こーんにちはー!」と満面笑顔で手を振っていた。既に埋まっていた客席の周辺をぐるりと大きく広がったお客さんたちは、芝生に座って手を振り返す。勿論、私も大喜びで、可動域がイマイチ戻らない五十肩の腕を精一杯上げていた。
 公開収録のゲストは、実行委員会の金井真紀さん、そして難民でマリ出身のケイタさん、ミャンマー出身のロヒンギャであるミョーさん、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんと佐藤慧さんと、豪華すぎる顔ぶれ。

難民として来日、その日から1年半入管施設に収容

 故郷で命の危険に晒され、やっとの思いで日本に逃げて来たケイタさんとミョーさん。
 「マリはテロリストばかり」とケイタさんは話し始めた。命の危険に晒され、難民条約に加入している日本に逃れてきた。手続きの仕方も分からなかった。成田空港で「難民申請したい」と申し出ると、入管職員に「捕まっちゃうよ」と言われた。その時、ケイタさんは思ったそうだ。
 「国に帰れば殺されるから、捕まる方がいい」
 その後、彼は成田の入管施設に1カ月半、その後牛久の施設に移され1年半も収容されていた。体重は20キロ痩せた。外にも出られない。知る人もいない。絶望的な状況だ。
 仮放免という立場で一時的に収容を解かれるとしても、そのためには保証金が必要になるし、住所もなくてはならないし、身元保証人も必要になる。
 難民が命を守るために逃げて来て、成田から一歩も外に出ていないのである。仮放免の要件など満たせるわけがないのだ。
 ケイタさんは必死に調べ、やっと認定NPO法人難民支援協会に電話をかけることができた。そこでようやく自分を助けてくれる人に繋がったのだ。
 国から持ってきた10万円ほどのお金はすべて電話代に費やした。難民支援協会と弁護士が力を尽くしてくれた。ケイタさんはイスラム教徒なのだが、仮放免(一時的に収容を解かれる状態)のための保証金は見ず知らずのモスクの人達がカンパで集めてくれて、彼はようやく仮放免者として日本の地を踏めることになった。
 来日10年、未だケイタさんは仮放免のままで、難民として認められていない。

 チキさんは番組の締めくくりに、観客や聴衆に向けてこう言った。
 「皆さん、是非お願いがあります。ミャンマーのロヒンギャという言葉を聞いた時には、ミョーさんの顔を思い出してください。マリ、アフリカと聞いた時にはケイタさんの顔を思い出してください。これが隣人の顔で、この社会で暮らしている人の顔です。そうした顔が繋がっていくことで、いろんな平和や世界の話が自分事として感じられることがあると思います。こうしたフェスがなくても、いつでも『ようこそ』『ウェルカム』と助け合えるようになってほしい」

綱の向こうに人の重さを感じた

 フェスの締めくくりは、第3回目の時から登場した、そう「綱引き」である。
 去年のフェスで綱引きに参加した方が、『Session』にその感想を「綱の向こうに人の重さを感じた。この手を離さないようにしないといけないと思った」と送っていた。
 今回は50mの綱を使った大綱引き大会である。
 1回戦目、アフリカ出身の男性10人ほどのグループが綱の東側の先頭にいた。決戦が始まる前から笑ってしまうほどの盛り上がりを見せている。リーダーっぽい男性が、作戦を練って仲間たちに伝えて気合いを入れている。すごい団結力である。
 実はこの男性たち、難民として日本にやってきたものの、行き場もなく、公園で野宿を余儀なくされている人達だ。
 屈強そうなアフリカ勢が多い東側に対して、西側は女性や子どもの姿が目立った。審判を担うロヒンギャのミョーさんが、「何人か西側に移れ」と頼むも、アフリカ勢の結束は固く、誰も動かない。仕方なく、そのまま戦いの火ぶたが切って落とされた。
 誰もが東が勝つと思っていた。ところがである。アフリカ勢は綱引きの基本である「腰を落とす」を知らなかったため、あれよあれよという間に引きずられて行って敗北を喫する。こんなはずではなかった…呆然と立ち尽くすアフリカ勢。一番前で声援を送っていたハルモニ達が「キムチあげたのに負けるなんて!」と追い打ちをかける。会場が笑いに包まれる。悔しがるアフリカ勢。観戦していた私も笑い転げていた。

 あまりの楽しさに、最高齢のハルモニと思しき大ハルモニが参戦を名乗り出て、小さな体で西の綱を握った。すると、もう一人のちょっと若そうなハルモニが、辛抱たまらずといった風情で小走りに歩み出て、東の綱を握った。
 大ハルモニが怪我でもしたら大変! と、心配して声を掛ける人達を手で制しながら、大ハルモニは毛糸の帽子をやおら脱ぐと、仲間のいる場所めがけて鋭く投げた。オオッ! と会場が湧く。その二回戦目、大ハルモニのチームが勝利を手にし、勢い余った東のハルモニはコロンと転がってしまった。すかさず駆け寄るジャーナリストの安田浩一さん。安田さんに助け起こされた東のハルモニが顔を上げると、その目の先にはどこから出てきたのか、扇子を頭上に掲げて勝利の舞を踊る大ハルモニの小さな姿があった。

挨拶で通報、それでも……

 たくさんの笑顔と、たくさんの交流。
 ほしい未来を一日だけ先取りするイベント。多様な人が混じり合い、助け合い、尊重し合い、共に在る社会。
 だけど、現実は残念ながらそうではない。私たちはイベントが終われば日常に戻っていく。しかし、そのイベントを盛り上げてくれた外国籍の皆さんには変わらない過酷な現実が戻る。
 最近出会ったアフリカ人男性は、銃声鳴り響く地域から日本に逃れて数カ月が経つ。そんな彼に、集団で登下校をする小学生たちが声をかけてきて、心温まる挨拶の交流がはじまった。無邪気に名前を呼んでくれる小学生たちの姿が、親戚の家に預けてきた子どもたちと重なった。ところがこんな友好的で微笑ましい日常は、ある日唐突に終わりを告げる。子どもから話を聞いた保護者が警察に通報したのだ。彼は家に引きこもるようになった。それでも言う。
 「私の国では挨拶をしない方が顰蹙を買うし、警戒されてしまうが、どの国にもそれぞれの文化がある。この国の文化を学んで、慣れ、適応していきたい。ここでは銃で狙われることもないし、安全を感じている。この国で働き、生きていきたい」

 同じ社会に暮らす隣人が苦しい思いをしている、理不尽な差別も受けている、そんな今を変えられないだろうか、変えたい。そう思いを同じくする人が増えれば、きっといつか、難民・移民フェスは日常になる。その日を一日でも早く引き寄せるために、私たちは地道に綱を引いている。そう思いながら秋が忍び寄る公園を後にした。

クルドの赤ちゃんの小さな手(写真:高木ちえこ)

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 追記:平和で楽しいイベントに、今回トラブルが発生した。イベント開始まもなく、ちょっと場違いな雰囲気を漂わせた男女が、身を寄せて打ち合わせでもするように入って来る様子を私も見ている。保健所の方かしら? と思っていたが、この男性が杉並区の区議だとあとで知った。
 後日、産経新聞社は、区議と一緒にいた「区民の女性」の主張のみで構成された記事を配信した。主催団体は産経新聞社に抗議し、謝罪と即時の記事の取り下げを求めて通知書を発行。詳しい内容はこちらを是非ご一読ください。私も、悔しくて、悔しくて仕方がない。

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小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。