第77回:「311子ども甲状腺がん裁判」傍聴記「何がいけなかったんだろうという後悔に苛まれ続けている」(渡辺一枝)

 2月6日、東京地裁で、福島第一原発事故当時、福島県内に住んでいた子どもたちが被ばくにより甲状腺がんになったとして東京電力に損害賠償を求めた「311子ども甲状腺がん裁判」の第8回口頭弁論が開かれました。
 今回は裁判官が交代したので、弁論更新(新裁判官に従前の口頭弁論の結果を当事者が陳述すること)がありました。まず被告東電側代理人弁護士から35分間の意見陳述、その後原告側から原告本人2名と代理人弁護士の意見陳述がありました。

被告代理人意見陳述

 被告側の主張は、原告らの甲状腺がんは放射線被ばくが原因ではなく潜在がんであり、過剰診断によって見つかったに過ぎないというもので、その根拠としてアンスケア(UNSCEAR:原子放射線の影響に関する国連科学委員会)の理論を挙げています。これまでは被告はこれらの主張を準備書面で提出していて、口頭で意見を述べることはありませんでした。今回の第8回口頭弁論で、初めて口頭で意見陳述をしました。
 被告がまず初めに言ったのは、「アンスケアは国際的な多方面の分野で多角的な専門科学者が集まる会議であり、国際放射線防護委員会(ICRP)に知見を提供している。そのアンスケアは原発事故後の2013年に、福島第一原発事故による放射線被ばくについての国連報告書を出したが、そこにさらに最新の知見を加え、より信頼性の高いものとして2020年/2021年報告書を出した。その中で、放射線被ばくが直接の原因となる健康影響が将来的に見られる可能性は低いと述べている」ということでした。
 初めからこうしてアンスケアの権威に寄りかかった発言でしたが、その後も35分間の陳述の間に何度アンスケアの名が出てきたことか! 素人の私にも、原告代理人弁護士が出している準備書面にまともに答えることができずに、アンスケアに縋った主張のように思えました。

原告側意見陳述

 被告代理人弁護士の陳述の後で、原告の意見陳述、代理人弁護士の陳述がありましたが、ここではその中から、初めに証言台に立った熊澤美帆弁護士の陳述と、原告二人の意見陳述の内容を記します。その他に中野宏典弁護士、田辺保雄弁護士の意見陳述がありましたが、それについては、「311甲状腺がん子ども支援ネットワーク」のホームページをご覧ください。

弁論更新:損害論 熊澤美帆弁護士

 裁判官が交代したので弁論を更新し、まず原告7人の損害について主張します。
「でも、本当は大学をやめたくなかった。卒業したかった。大学を卒業して、自分の得意な分野で就職して働いてみたかった。新卒で就活してみたかった。友達と『就活どうだった?』とか、たわいもない会話をしたりして大学生活を送ってみたかった。今ではそれは叶わぬ夢となってしまいましたが、どうしても諦めきれません」。
 1年半前、7人の原告の先陣を切って、原告2番さんが話してくれた言葉です。この言葉はまさに、この裁判の特殊性を表しています。単に甲状腺がんに罹患したということにとどまらず、被害は今なお生じ続けているということです。
「残念ながら今でも手術痕は、くっきり残っています。傷に関して言うのが面倒なので、手術痕が見えない服を着るようになりました。再発を考えると気分が落ち込むので考えないようにしているが、病院に行っても結果を聞くまでは不安でいっぱいになる」。
 原告1番さんもそう言って、不安、恐怖について話してくれました。再発するかもしれない、今まで努力してきたことが無に帰するかもしれないという苦痛を、裁判官の皆さんも、どうか想像してみてください。
 この裁判は、このような特殊な被害の賠償を求める裁判です。
 被害の実態を正確に把握することが、この裁判の出発点です。もちろん事故と病気との因果関係が本件の主要な争点ですが、判断の大前提として、原告たちの被害がどのようなものであるか明らかにされ、この被害救済の出発点として議論されなければなりません。
 原発事故当時、原告たちは、まだほんの子どもでした。子どもにとっては3月は、卒業・進学・進級という新しい門出の時期です。原発事故直後、高校の合格発表を見に行ったり、進学の準備のために制服の採寸に行っていた原告もいました。
 原告たちは自分の身に何が起きているかわからないまま被ばくし、突然のがん宣告、手術、そして再発や転移の不安に怯えながら今日を生きています。
 原告たちに何か落ち度があるでしょうか。私たち東京で暮らす人たちの電気を作るために、大人たちが決めた原発のために、リスクを負わされ犠牲になったのが原告たちです。にもかかわらず家族を含め、何がいけなかったんだろう、あの時こうやっていれば違ったかもしれないという後悔に苛まれ続けています。
 原告たちが受けた損害は、治療費や手術に伴う薬による慰謝料など、一時的なものに限りません。進学や就職の機会、夢を奪われた損害、結婚・就職などの将来設計を狂わされた損害、家族の苦しみ、そして子どもにも影響が出ないかという不安を抱えています。最初の恐怖が、将来への不安が、一生涯現在進行形で付きまとうという点で原告たちの損害はいつまでも過去形にはなりません。その点で、交通事故などによる損害とは全く異なるものです。 
 島崎裁判長にも原告7名のそれぞれの生の声を聞いた上で、審理にあたっていただきたいと思っています。
 原告7名には、本当は番号ではなくそれぞれの名前があり、人生があります。生まれ育った環境も、原発事故当時の状況も、病状も、抱えている問題も、それぞれ異なります。それぞれの思い、不安を抱えながら立ち上がった7人の原告それぞれの裁判なのです。そしてその7人の背後にはそれぞれの家族、友人、たくさんの人の思いがあります。それを甲状腺がんに罹患したなどという抽象的な言葉で済ませてしまうことは許されません。
 この裁判の中で原告たちは、必死に被害と向き合っています。原発事故当時、検査の時、がんを宣告された時、手術をした時、そして今、その時々の自分の気持ちや言動、家族や大切な人たちの言葉や表情を振り返っています。これは本当に、精神的にも体力的にも苦しいことです。原告たちは不安になったり変わろうとしたりしながら、必死に裁判と闘っているのです。
 原告たちが紡ぎ出してきた言葉を、被害の実態を、どうかしっかりと受け止めてください。一人ひとりの被害に向き合い、損害についても十分な審議をしていただきたいと思います。
 まずは本日、原告5番さんと6番さんの言葉を聞いてください。

原告本人意見陳述:原告5番さん(女性)

 (これまで受けた手術について話した)去年の意見陳述から1年くらい経つけれど、もう一回手術しなければいけないかもしれない。去年の12月くらいから、首のあたりにしこりのようなものを感じました。その後風邪を引いてなかなか治らず、東京の病院で一緒に診てもらった。(診察によると)がんとは関係ない感じだったので納得しましたが、その後に再発と言われて検査することになりました。
 (このしこりが)甲状腺がんと関係があるのかはわからないけど、初めて違和感があった。なんだったんだろうと思います。今でもたまに、違和感を感じることがあります。
 今年の4月12日、PET-CT検査を受けました。変な薬の点滴をされてから、CTを受けるのです。がん細胞に集まる放射線を出す薬らしいです。点滴をされると体が、カァーと暖かくなり、その状態で大体1時間くらいかかったと思います。検査の後は、お水をよく飲んでくださいと言われました。先生からは、「怪しいね、もう一回手術するかも」みたいに言われました。
 8月に細胞診を受けて、手術の方針を決めると言われました。けど、私がコロナになって病院に行く日が延びて、9月に受診したら土曜日なので細胞診ができなくて、まだ細胞診をしていない。来週12月15日にします。
 8月にはもう一回手術するかもしれないという言い方だったが、9月に(病院に)行った時には確実的になりました。一番最初に手術したところの右側に、しこりっぽいものがあって、その位置がよろしくないらしいです。細胞診するために行ったのに結局できないのか、まぁそういう時もあるな、と思いました。
 最初の手術は2015年、私の誕生日でした。
 手術はやっぱり面倒くささや不安があり、嫌だった。全身麻酔は自分の意思と関係なく意識がなくなる。死ってこんな感じかなと思いました。もうしたくない、でもまたしなきゃいけないんだな。がんをとってしまえば大丈夫と先生に言われたので、私は、手術したらがん患者ではなくなると思いました。でも、成人式の次の日、またがんが見つかり、面倒くさく思いました。
 リンパを大きく切り取り、傷口も大きくて塞がるのに時間がかかり、そこから体液が流れて出て、慌てて福島から東京の病院へ行きました。手術の後には手足が硬直して、勝手に踵が上がって立てなくなりました。
 次に手術するなら3回目。今でも、何も考えずに一緒に遊んでいた友達が心配です。震災の時にはちょうど友達の家で、セブン(イレブン)のおでんを食べていたのを覚えています。
 原発事故は、気にする人・気にしない人の差が激しくて、自分は気にしない側で、事故の後も前と変わらず普通に遊んでいました。校門の近くや公園で、長時間友達と喋ったり、遅くまで学校にいて注意されたりしました。震災の後避難する友達も何人かいて、その中に私の親しい友達もいました。
 病気が見つかってからはずっと、健康調査ってありがたいなと思っていました。(でも最近は)甲状腺がんがたくさん見つかっているとニュースで見ますが、過剰診断で見つかっただけと言われています。では、なんのために検査をしているのか、少しでもありがたいなと思った気持ちは、どうなるのか。がっかりと言うか、残念でならない複雑な気持ちです。
 がんの治療は、長引けば長引くほど、だるくなります。何回手術をすれば良いのか、もしかしたらずっと続くのではないかと、考えてしまいます。
 今はとにかく、早く終わって欲しいです。

原告本人意見陳述:原告6番さん(女性)

 がんが見つかったのは、中学1年生の時です。3回目の甲状腺検査でした。医者と看護師が何か話し合いながら、何度も甲状腺にエコーを押し当てるので、不安な気持ちでいっぱいでした。教室に戻ると、私より後の順番だった人はすでに終わっていました。
 二次検査の細胞診は、よく覚えています。針を刺される前に紙に名前を書いていると、急に涙がボロボロと出てきました。あ、今から首に針を刺されるんだと、そう直感し、想像できない痛みに対する不安が一気に溢れてきました。怖かったです。診察台の上に寝かされると目に入ってきたのは、細くて長い針でした。刺された時には、あまりにも激痛で動いてしまい、2回も刺されてしまいました。細胞に刺さった時は、何か深いものにグサッと刺さった感覚がして、気持ち悪かったです。どうして自分は、こんなに痛い思いをしなくちゃならないんだろうと思いました。
 その後、私はがんなのだとわかりました。「がんなのだ、そっか、入院手術となると勉強が遅れてしまうな」。告知を受けた時はただ漠然と、不安な気持ちでした。私の体はどうなってしまうのか、入院手術となると学校を休まなきゃならないのか、さまざまな不安がありました。その頃からなんだか、自分が少し変わってしまった気がします。
 1回目の手術は、手術後に全身麻酔が抜けずにすごく眠く、目が覚めると今度は体が動かせず、起きているのに何もできない状態が長時間続きました。退院後も、これからどうなっていくのか、手術前と同じ生活を送ることができるのか、これからの不安で眠れない日もありました。
 それから4年。ヨウ素制限をして気をつけていたのに、がんは再発しました。2回目のがんの告知は、驚くこともなく、ただ残念に感じました。2回目の手術は甲状腺がんを全て摘出しました。
 アイソトープ治療(放射性ヨウ素を内服することで、甲状腺内部から放射線を当てる治療)も受けました。薬は重い蓋のガラス容器に入れられ厳重に管理されていたので、これを飲むのかと、怖かったです。薬を飲んだ後は体から放射線が出るので、人との距離を取らなければなりません。頭でわかっていても、精神的に辛いものがありました。入院中、一度だけ炊配膳する看護師の近くに行ってしまったことがありました。すると「近づかないで」と言われたので、暗い気持ちになりました。薬を服用した後は、ずっと壁を見つめる生活です。
 翌日の夕方、喉の周りが腫れて熱くなり、呼吸がしづらくなりました。先生が回診に来る前に(自分の体が発している)線量を測ったら、53マイクロシーベルトありました。入院中は病室でじっと副作用に耐える生活が続き、精神的にも身体的にも大きな負担がかかりました。もう2度と、この治療は受けたくありません。
 私は小学校に入る前に原発事故に遭い、13歳でがんになり、17歳で2度目の手術を受けました。自分の考え方や性格、将来の夢もはっきりしていないうちに、全てが変わってしまいました。だから私は将来自分が何をしたいのか、よくわかりません。恋愛も結婚も出産も、自分には縁のないものだと思ってきました。経済的に安定した生活を送るため、高校時代は青春を楽しむというよりは、学校推薦をもらうための場でした。
 去年意見陳述をした頃は、勉強に対するプレッシャーや将来への不安で眠れないこともありました。
 今春大学生になり、環境や人間関係が大きく変わりました。自分の行動に責任が持てるようになり、自分自身、人として成長しているのを感じます。それに伴い、この裁判の原告としても自覚を持つようになりました。
 裁判の具体的な内容やさまざまな論文、意見書の全てを理解することはできていません。ですが、最近話題になっている海洋放出のニュースなども見ていると、複雑な気持ちになります。この気持ちを言葉で言い表すことは難しいですが、自分にできることは小さなことでもいいから、やってみようという気持ちを持つことができました。
 今後も長く続くであろうこの裁判に、貢献していけたらいいなと思っています。

●第8回口頭弁論を傍聴して

 法廷は大法廷の103号室で、原告代理人や報道関係者席の他の一般傍聴席は80席のところ、傍聴希望者は188名になり、抽選でした。私は外れたのですが譲ってくださる方がいて傍聴できました。
 被告代理人の意見陳述は、理論に疎い私にさえ、お粗末に思えました。閉廷後に、「アンスケア」の名を何度唱えたのかが話題になる程(多分40回は言ったでしょう)、権威であるという組織の名を繰り返すばかり。原告側の準備書面に対しての自らの考察を被告代理人が述べることはありませんでした。
 それに対して熊澤弁護士の損害論は現実に立脚して見事でした。また、原告のお2人は、衝立を経ずに素顔を出して、証言台に立ちました。それぞれ5分弱の意見陳述でしたが、素顔を晒して生の声で陳述されたことは、傍聴席の私の心に深く響きました。
 裁判長は原告から提出された書面に目を落としながら、時々は顔を上げてしっかりと陳述をする原告を見遣っていました。左陪席は厳つい顔つきではありましたが、終始原告を見つめてしっかりと聞いているように思えました。右陪席は宙を見たり前方を見たり視線は落ち着かない風でしたが、原告の声に耳傾けている様子でした。一方、被告代理人は、向かいの壁を見たまま心を閉ざしていたのか聞こえないふりをしたかったのか、証言台の原告を一瞥もしませんでした。
 私は、裁判に限らずどんなことも「真実は現場にある」と思っています。

報告集会

 裁判が行われていた時間帯には、日比谷コンベンションホールで支援者集会が行われていました。ここでは弁護士や原告がこの日の法廷で話す内容をあらかじめ録画していたものを流し、傍聴席に座れなかった支援者にも、法廷でどんなことが進められたのかが紹介されました。
 裁判を傍聴できた私たちは閉廷後に日比谷コンベンションホールに合流して、報告集会となりました。
 最初に原告のお母さんが登壇されました。
 「被告の意見陳述を聞いても『アンスケア』という言葉を繰り返し繰り返し発していて、何を言っているのか、何を言いたいのかがはっきりせず、信用できる組織ではないことを感じました」と言い、そして「今日もこうして大勢の支援者の皆様に来ていただいて、皆様ありがとうございます」と、挨拶されました。
 次に、支援者の黒川眞一さんが挨拶しました。黒川さんは物理学者で高エネルギー加速器研究機構名誉教授ですが、この裁判では原告側意見書を書いています。被告が依拠するアンスケアの主張の矛盾をついた意見書です。その黒川さんは、次のように述べました。
 「科学者には守るべきルールがある。第一は普遍性だ。誰が言っているかではなく、何を言っているかということが大切なのだ。東電の意見陳述は『アンスケア』を一体何回繰り返したのか。問題なのはアンスケアが何を言っているのかであって、『アンスケアには権威がある』ということは、科学として言ってはいけないことなのだ。科学は、何が主張されているのかが大事で、権威を信じてはいけない。
 今日は原告の証言に感動した。科学は、文学を助けることができると思っているが、あの証言は、まさに文学だった」
 そして、支援者の愛知県立大学学生も、次のように述べました。「6月に武藤類子さん(福島原発告訴団団長)と宮本ゆきさん(デュポール大学教授)、そしてこの裁判の弁護団の北村賢二郎弁護士の3人の講演会があり、この裁判のことを話した北村弁護士の言葉に心動かされて、9月の第7回口頭弁論を傍聴した。今日も傍聴して、僕と同じ年代の原告の生の声を初めて聞いた。この裁判について世の中の関心を集めていくことが大事だと思うので、自分の周りの人たちにも話していきたい」

 次回、第9回口頭弁論は2024年3月6日(水)14:00〜東京地裁。
 なお多くの傍聴希望者で東京地裁前に集い、この裁判が大きな関心を持たれていることを裁判所に示しましょう!

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。