第80回:37年前、カナダでの思い出 (渡辺一枝)

 思いがけないことが、思いがけず過ぎた日々を蘇らせてくれることがある。今日が、そんな日だった。
 友人がFacebookにチャップリンの映画『The Gold Rush(黄金狂時代)』のことを投稿しているのを見つけた。映画を観たかったので、記されていたURLをクリックした。チャップリンの映画だからと何気なくクリックしたのだったが、冒頭に出てきた文字に「Chilkoot  pass(チルクート峠)」とあるのを読んで、思いがけず引き込まれてしまった。これは1925年の映画だが、1890年代後半のカナダ・ユーコン準州のクロンダイク地方が出てくる。そして、そのクロンダイク地方で、チルクート峠に向かう山道、チルクート・トレイルを私が歩いたのはもう37年前の夏。それは私の初めてのカナダ行だった。

薄紅色のヤナギラン

 その少し前、友人の野田知佑さんが、もうそれが何度目かになるカナダのユーコン川をカヌーで下る旅に出ていた。以前にユーコンの旅から帰った野田さんに「お土産です。その花、日本にもありますか?」と渡された種の入った袋には「Fire weed」と記されていた。そして野田さんは言った。「その花がね、たくさん咲いているんですよ。山火事が起きると、焼け跡に真っ先に芽を出すのがその草で、マッケンジー川を下っている時も山の斜面に一面に咲いているところがありました。ユーコンの荒涼とした風景の中で、その一面の花の色は、なんだかやるせない景色なんですよね。何日も人の姿を見ない日が続いた時にも、この花だけは目につくんです」
 「Fire weed」は、日本語ではヤナギランと呼ばれる花だ。これまで私は、志賀高原や八ヶ岳でヤナギランの群生を見たことはあったけれど、カナダの大自然の中で薄紅色の花が一面に咲く様を見たかった。その頃の私は草木染めに夢中だった頃で、ユーコンの野に咲く花たちで布を染めてもみたかった。友人のローリーに言うと、ホワイトホースの妹の家にホームステイすれば良いと言って、妹夫婦に連絡をとってくれた。
 ローリー・イネステイラーは日本に住むカナダ人の冒険家だった。隻眼で黒い眼帯をかけた彫りの深い顔立ちで長身の彼は、脚も少し不自由でステッキを突いて歩く。あの頃の私は日本にいる時はほぼ毎日着物で過ごしていたから、ローリーと私が連れ立って歩くと、奇異に映るのだろう、すれ違う人たちが驚いたような顔をするのだった。そして、ローリーも私も、そんな反応を楽しんでもいたのだった。
 またユーコンに出かける野田さんを見送ってひと月ほど過ぎた頃、私も日本を発った。ユーコン準州の玄関口・ホワイトホースの空港に着くと、ローリーの妹のクリスチンと夫のラリーが迎えにきてくれていた。二人には初対面だが空港に降り立った日本人は私だけだったから、向こうからすぐに寄ってきてくれた。
 ラリーの運転する車で、二人の家へ向かった。空港の周りにも大きなビルや看板などは無く、広がる空と木々の緑の剥き出しの自然の中のそこここに、ヤナギランは陽光を受けて咲いていた。Fire weed road と名付けられた通りもあった。ヤナギランがユーコン準州の花ということが、素直に納得できた。この花は春に咲いて冬が来るまで咲いていると言われて、私の聞き間違いかと思ったのだが、この北の地では、春も夏も秋もいちどきに短い夏として訪れることに気がついた。花穂のてっぺんの最後の花が咲き切ると、もう雪深い冬を迎えているのだろう。

ビーバーの川、リスの庭

 クリスチンの家は街を外れた森林帯の中のログハウスで、庭にはトレーラーハウスが2台あり、私はこの一方のトレーラーハウスを使わせてもらうことになった。クリスチンは画廊勤めで、大工のラリーは遠くの場所にログハウスを建てに出かけるので仕事の間は留守になる。だから昼間この家にいるのは、ルスキーという名の老いたハスキー犬と白い中型犬のアニーと私だった。朝食は母屋でクリスチンと一緒に食べ、お昼はクリスチンが焼いたマフィンと、ラリーが温室で育てている胡瓜やトマト、それに自分でコーヒーを淹れて部屋で食べた。時々は戸外で、リスが白樺の木立の下を走ったりパインツリー(実がパイナップルに似ている松科の樹木)に駆け上るのを見ながら食べた。
 家の裏の川には、ビーバーがいてビーバーダムを作っていた。もっと小さな動物かと思っていたら猫よりも大きく、狸ほどの大きさだった。水中に潜って行ったかと思うと木の枝を咥えて戻り、すでに堰になっているダムの上にその枝を載せて、また水中に潜る。ビーバーダムに堰き止められた川はまるで湖のようで、夕陽が斜めに射した水面には、さざなみが朱金に光っていた。いつまでも眺めていたかったが、大きな蚊が飛び交っているのを手で払いながらなので、長くはとどまれなかった。夏の北の大地は、蚊が命を謳歌する季節でもあったのだ。ダウンタウンのマーケットには、蚊を取る仕掛け罠も売っていた。まさかそんな罠に蚊が掛かるわけはないだろうから、それは北の地で生きる人の陽気なジョークなのだろうが、罠に付いていた説明書には、それがどれほど優れた性能を持つかがまことしやかに書かれていた。
 家の周囲の針葉樹の下は深々と苔に覆われていて、小さな花たちが咲いている。イチヤクソウ、ベニバナイチヤクソウ、日本では見かけない鈴蘭によく似た姿のワンサイドピロラ、細い花茎の頂を二つに分けて、片方ずつに1㎝ほどの淡いピンクの釣鐘状の花をつけるツインフラワー、10㎝ほどの茎高に白い五弁の花を俯きに咲かせたシングルデライト、陽の当たる場所には白や紫、ピンクの飛燕草(ラクスパー)が丈高く咲いていた。それらは栽培されたものではなく、自然に野に咲きいでたようだった。他にも、そこかしこで目立つ草があった。銀白の穂が光を受けて紫がかって見えたり、緑に光ったりする草だが、穂はまっすぐ立たずに横になびくような形についている。存在の有り様が、日本で言えばエノコログサのようだった。その草の名前を聞くと、誰に聞いてもフォックステイルだと答えが返った。言われてみれば狐の尻尾に似ていたが、ホワイトホースに着く前にバンクーバーの書店で買った図鑑を調べたら、スクワーラルテイルグラス「リスの尻尾」が本名だった。私たちも、エノコログサをそうと呼ぶよりも「猫じゃらし」の呼び名の方が馴染んでいるように、ここでも「Squirrel tail grass」などと言うより「Fox tail」の方が馴染むのだろうと思った。

染め三昧の日々

 染め物には染料を煮出すのに鍋が要る。日本から持って出るのは荷が嵩張るので持たずに出て、バンクーバーで買った。25×30cmほどの角形で深さもたっぷりしているし、蓋も同じように深く、しまっておく時にはすっぽりと重ねられる。染め物に使うのに格好のステンレス鍋だった。出勤前のクリスチンにその鍋を見せると、「イチエの染めた布を早く見たいから、急いで帰ってくるわ」と言って出かけた。
 日本から絹の半衿や木綿のハンカチを10枚ずつ持ってきていた。持ってきた布の半分は明礬(みょうばん)で先媒染をしてあった。まず初めに染料に使ったのは、もちろんヤナギランだ。ヤナギランなら日本でも染められるが、この花を州の花とするユーコンに敬意を込めて、一番初めはユーコンの色を染め出したかった。家からハイウェイに出ると道端のどこにでも薄紅色の穂花が群れ咲いていた。
 無媒染で染めた半衿は、丁字(ちょうじ)色のような、グレーを含んだピンクのような色に染まった。ユーコンの色は、こんなに柔らかい優しい色なのだった。明礬で先媒染した半衿は青リンゴの緑色、鶸(ひわ)色になった。これも嬉しい驚きだった。
 その後も、染め三昧の日々を過ごした。この地で初めて見たストロベリーブライトは、真赤な小花が集まって、まるで小粒のイチゴのように見える草花だった。茎から切って花も葉も茎も一緒に煮出して染めてみたが、あまり色は出なかった。後でホワイトホースの書店で買った染色の本を読むと、一晩以上染液に浸すと赤く染まると書かれていた。私は浸す時間が短すぎたのだった。
 その後も、森の中の苔を染料にしたり、日本では外来植物に分類されシナガワハギと呼ばれるイエロースウィートクローバーも使ってみた。スウィートと名にある通りとても良い香りがするのだが、嬉しいことに染めた布にも香りは移り、帰国してから10年以上経った後でも、染めた半衿から色も香りも抜けずに残っていた。
 クリスチンは毎日勤めから戻ると「イチエ、今日は何を染めたの? 見せて見せて」と、真っ先に聞くのだった。大学で美術を専攻し今は画廊に勤める彼女は、私の「染め遊び」を、一緒に楽しんでくれていた。

チルクート・トレイル

 ある日クリスチンは、帰宅するなり「イチエ、チルクート・トレイルに行かない? 友達2人とアニーも一緒に行くけれど、どう?」と言った。私に異論のあるはずが無い。
 チルクート・トレイルは、ゴールドラッシュの時代にアラスカのスキャグウェイからカナダのベネットまでを、金塊を求めて人々が列を成した足跡を辿る道だ。

*出発地点のスキャグウェイへ

 3泊4日のトレッキングになるが、その間の食料はクリスチンと友人2人が分担して揃える手筈になっていて、翌日私は、クリスチンと一緒に私たちの分担になっている品物の買い出しに行った。スナック類や果物が、私たちの分担だった。帰宅するとビニール袋4枚にドライフルーツ、チョコレート、ビスケットなどのスナック類を同量ずつ分けて入れ、果物も4人分に分けた。そのほかにクリスチンはアニーのドッグフードを日数分用意してビニール袋に入れた。
 私たちはそれぞれ自分のテントや寝袋、食料を自分のザックで背負って行くが、アニーも自分の食料はちゃんと自分のザックに入れていくのだと言う。クリスチンのその言葉に私が驚くと、彼女はそのザックを見せてくれた。背の両側、脇腹に振り分け荷物のようにして背中にかける赤いザックで、それを見たアニーは喜んで尻尾を振って駆け寄ってきた。それまでもそれを背負って行った楽しい体験があったからだろう。赤い布地に黒いベルトで体につける犬用ザックは、白い毛並みのアニーによく似合った。
 金曜日の夕方にホワイトホースを発って、アラスカ・ハイウェイをラリーの運転で行った。国境を越えるときに陽気なアメリカ人の役人は、私のパスポートにポンとスタンプを押しながら「ヤァ、東京から来たのかい。アラスカが気に入ったら半年居たっていいんだよ」と、ウィンクしながら言った。
 スキャグウェイで、クリスチンの友人二人、グレッチェンとリリアムと午前0時の待ち合わせだった。こんな時刻の待ち合わせは日本では考えられないが、短い夏の暗くならない夜を持つこの国では、驚くには当たらない時刻なのだった。そこで待つ間に、夫の車で送られてきたリリアムに会った。午前0時、さすがに少し薄暗くなった港に船が着き、グレッチェンが降りてきた。全員集合し、私たちはラリーの車とリリアムの夫の車に分乗してスキャグウェイから少しハイウェイを戻り、トレイルの出発点ダイヤにテントを張った。ここから山道を歩いて国境を越えベネットの町まで、53キロを3泊4日で行く、のんびりとした山歩きだ。テントに入って寝袋に潜ったのは、午前2時だった。

*1日目

 目覚めたら、もう日は高くのぼっていた。遅い朝食を済ませてテントをたたみ、出発の用意ができたのはもう昼過ぎだった。焦ることはない、ここは日の暮れない国なのだから。
 短パンに登山靴姿のカナダ人の女性3人はズンと見上げるように大きくて、チビの私はまるで子どものようだった。日本を出るときにはそんな山歩きをすることなど思い至らなかったから、モンペにスニーカーの私は最初にへばってしまいそうだった。でも、歩き出して間もなく解ったが、3人とも見かけほど強くなく、グレッチェンなどすぐに「ああ、もうだめ。疲れた。休んでおやつを食べる」と言い出すのだった。いつの間にか私は先頭を歩いていた。アニーは、私の前か後にいた。歩き続けた後で私たちが座って休めばアニーも身を横たえ、歩き出せば彼女もまた歩き出した。私たちが荷を下ろして休むときは、アニーも背中のザックを外してもらった。すると身軽になったアニーは、ブルブルと体を振ってから、さも気持ち良さげに横になってまどろんだ。
 沢沿いの道では、私たちはその水を汲んで飲み、アニーもバシャバシャと水に入り込んでは水を飲んだ。沢から外れた場所で休んだ私たちが水を飲むときは、クリスチンは掌に水筒の水を溜めてアニーに飲ませた。私が立ち止まってみんなを待つと、アニーは嬉しそうに身をくねらせて私の足にまとわりつき、それからまた嬉しそうに樹林の中に駆け入って行く。「アニー」と呼ぶとガサゴソと落ち葉を賑やかに音立てて飛び出してくるのだった。イタズラでお転婆で、誰にでも好かれる陽気な娘が「楽しいね、とっても楽しいね」と笑っているように思えた。犬だって、楽しければ笑うのだと思った。
 林の道には綿毛が散り敷いていて、あたりの樹木の幹にも枝にも綿毛がまといついている。見上げれば、20mはあろうかと思われる広葉樹が綿毛を降らせているのだった。名を問えば「コットンツリー」と答えが返ったが、ポプラの一種なのだろう。白楊かヤマナラシか、あるいはそれらとも別種のポプラか。
 出発地点から12キロ半のキャンヨン・シティが、歩き始めて最初のキャンプ地だった。
 清潔なトイレがあり、トイレットペーパーも備えてあった。夕食が済んでそれぞれのテントに入ったのは、8時頃。まだまだ明るい夕方だった。明日は何時に起きて何時に出発、などと約束し合わない気楽な山旅だった。学生時代には起床時刻も決め、その日の宿営地に到着予定の時刻まで決めて計画通りに歩いてきた山旅が、ひどく滑稽なものに思い出されたが、何しろここはほとんど夜の無い昼だらけの地なのだった。

*2日目

 歩き始めたときに私は、これからは1日目の倍の時間をかけて歩こうと思った。歩き出すと、ついついスタスタと速度が速くなってしまう。踏み出した一歩一歩を、もっとゆっくり十分に楽しみながら歩こうと思った。
 樹林の道には奇妙な形態の植物が、苔むした地にニョキニョキと突き出ていた。みんなに名前を聞くと「ポキュ」だと言う。20cmほどの丈で、テンナンショウの花が咲き終えて「狐の松明」と呼ばれる毒々しい赤い実が末枯れた時のように見えたので、初めはテンナンショウの仲間かと思った。後で図鑑を調べたら全く別のもので、これ一種のみで科を成していて葉緑素を持たないアラスカ及びユーコン独特の植物で、「グランドコーン」という名だった。そう知れば、地面にとうもろこしを突き立てた形にも見える植物だった。
 丸太を2本渡した橋を渡った。橋の下は轟々と音を立てて、灰白色の冷たい水が跳ねていた。私が渡っても、アニーは怯えたように動けない。リリアムもグレッチェンも渡って来た。クリスチンがアニーの赤いザックを背から外し、「アニー、ゴー!」と叫ぶと、アニーはやっと腰を上げて橋に足をかけ、恐々川を渡り始めた。すぐ後ろに付いたクリスチンに、「ゴー、ゴー、アニー、ゴー」と追われつつようやく渡ってきた。先に渡った私たち3人は拍手で迎え、クリスチンはホッとした表情でアニーの頭を撫で、脇腹を叩いて労い、その背にまた赤いザックをくくりつけた。
 道は沢筋から外れて高度を増していった。またいつの間にか先頭は私とアニーで、3人はずっと後ろだった。足元は深々とした苔の絨毯で、レイン・フォレストと呼ばれるアラスカの湿潤な気候を受けた原生林地帯だった。私が足を止めればアニーは、その柔らかな苔の上に横たわり、心地よさげに鼻面を脚に寄せて丸くなってまどろむのだった。
 その日のキャンプ地、シープキャンプに着いた。歩き始めてからここまで2人のレインジャーに会った他には、トレッカーには一人も会わなかったが、キャンプ地にはすでにツェルトが在ってバックパイプのザックが置いてあった。私たちも荷を下ろして、それぞれテントを張った。顔を洗いに川に行くと、向こうの中洲に金髪の女性がスケッチブックを広げていた。ツェルトの主のようだった。
 夕食にはまだたっぷり間のある時刻で、3人の仲間はそれぞれ昼寝タイム。アニーもクリスチンのテントの脇で丸くなっていた。私は目についた花たちを片っ端から書き留めようと思ってノートを広げたのだが、なんだかそれがとてもちっぽけなことに思えてきて、ノートを閉じた。血に飢えたギャングのような大きな蚊が飛び交っているのでテントに入り、川の音に聞き入るうちにまどろんでいた。
 目覚めて夕食は、パンにチーズ、缶詰のオイルサーディン、ドライフーズに水を加えて携帯用の小さなガスで煮出したチキンスープ。キャンプ地について食事の支度を始める時はいつも、最初にゴミ袋を用意する。ゴミ袋にはすでに、この旅が始まってからの全てのゴミが入っている。ゴミ袋は二つ。可燃物、不燃物に分けてある。缶詰の缶は潰して持ち帰るが、いつもグレッチェンがいともたやすく踵で踏み潰すので、私は彼女にクラッシャー・グレッチェンと渾名を進呈した。アニーもまた自分のザックからドッグフードを出してもらってそれを食べるが、そのほかに私たちからもお裾分けがあるから、アニーにも満ち足りた食生活だ。

*3日目

 この日は道の勾配がきつくなってきた。やがて樹林帯が切れて明るくなった山道は花畑の道だった。トリカブト、バイケイソウ、サラシナショウマ、シロバナワレモコウ、カノコソウ、タカネナナカマド、シモツケ、シシウド,その他も知らない花たち……。立ち止まって花たちを眺めていると先に行っていたアニーが戻ってきて足元に座り、私を見上げて尻尾を振る。「アニー、見てごらん、これは私が好きなナナカマド」と指差して見せるとアニーは私の指先を見てまた私の顔を見て尾を振る。青く澄んだ空、晴れて強い日差し、冷涼とした山の風、揺れる花たち、足元には賢い犬、私はなんだか自分がどんどん透明になっていくように感じられた。
 その花たちも途切れて、道は急登のガレ場になった。どれほどの傾斜か、足だけでは登りきれずに手と足を使って一歩一歩と進んだ。いっそこれくらいの傾斜になると肩にかかる荷の重さよりも、一歩ごとに高度を稼げることに気が向くので、かえって辛さはない。とは言え一歩ごとの足元をしっかり確かめないと、浮いた岩に足を乗せたらその岩ごとずり落ちそうだった。クリスチンもグレッチェンも姿が見えず、私のすぐ後ろを歩いていたリリアムもずっと下の方で黒い点になっていた。アニーは、私を追い越しては行かなかったから、きっと3人の誰かの側にいるのだろう。私一人の高みで、空があんまり青すぎるから、目の先に何か頼れるものが欲しかった。だが、ガラガラと土色にガレた山肌が続くだけだった。道が少し回り込むと、下にはさっき越えた雪渓が見え、その上にクリスチンとグレッチェンが動いたように見えた。
 1時間ほどそんなガレ場を歩いて巨大な岩をヒョイと越えたら、そこからはもう道は上らず、目の先には碧く湖が広がっていた。そこがこのトレイルの最高地点、3,750フィートのチルクート・パスだった。アラスカとカナダの国境だ。目の先の湖はカナダのマロウ湖だった。
 島国日本では歩いて国境を越えることは叶わないが、今私は背に16kgほどの荷を負って、歩いて国境を超えた。それにしても空の青さよ。私がどんどん小さくなっていく。
 やがてリリアムがやってきて、私たちはカナダ側へ下り風を避ける陽だまりで荷を下ろした。チルクート・パスは大して高くはないのだが、わずか1時間ほどの間に800mもの高度を詰めるので、なんだか大層な山登りをしたような気分だった。マロウ湖を見ながら水を飲みスナックを食べ、目の下のマロウ湖や山腹の雪解け水を落とす滝や、空に浮く雲の一つ一つを指して「綺麗ね」「冷たそう」などと話し、まるで小学生の遠足のようだった。もっとたくさんの想いを伝えたいのに、私は片手に乗っかるほどの言葉しか持っていなかった。
 私に染め物のことを聞きたがったリリアムに、藍染めのことを話していたときだ。彼女が声を抑えて指差した方を見たら、夏羽の雷鳥の群れだった。小さな雛たちも一丁前に岩の間を歩いて行く。驚く私を見てリリアムはイタズラな少年がお手柄を立てた時のように首をすくめて笑った。日本にもいるかと聞く彼女に、高い山に棲んで、冬は白い羽根になると答えると、リリアムは生物の先生になったような顔つきで「イエス、イエス」と言った。「日本語では  雷鳥というけれど、英語ではなんと呼ぶの」と聞くと、やっぱり生物に先生のような顔つきで「スノウ・グラウス」と答えが返った。
 たくさんのお喋りとたくさんのつまみ食いで時を過ごしている間にクリスチンたちがやってきた。アニーの赤いザックは、クリスチンの大きなザックの上に載っていた。グレッチェンは「疲れタァ!」と叫んで、ドタリと横になってしまった。
 お昼も食べて心ゆくまでの休息の後で、いくつか雪渓を横切り、道はどんどん下っていった。空の青、湖の碧、雪渓の端の雪の層は花色とも薄縹(うすはなだ)とも見える青、そんなたくさんの青を見ながら歩いた。近づいてみればマロウ湖は翡翠の色だった。クリスチンに「この色をなんと呼ぶの」と聞くと、「ターコイズブルー・アッパーグリーン」と答えが返った。
 雪解け水が山肌を走り緑濃くなった道は、花の種類もこれまでとは変わった。チルクート・パスを境に、アラスカ側とカナダ側では植生が全く異なった。ハクサンイチゲ、コケモモ、チングルマ、タカネキンポウゲ、シナノキンバイによく似た花、タカネフウロ、などなど高山植物のお花畑だった。次々に現れる花の名を手帳に書き、まだ知らぬ花は持ってきていた押し花器に挟み、どこまでも続くお花畑を行った。雪解けの水を集める小さな流れをいくつも越えた湿地帯のような辺りでは、風が、白いパフのようなワタスゲの花群れを揺らしていた。
 これまでずっと青空の中を歩いてきたのだが、この日のキャンプ地に着く頃から雨になった。私たちはザックから雨具を出して着て歩いたが、同行の3人は、雨など全く意に介していない風だった。そんな彼女たちの様子に私も「雨が降ったら濡れればいいさ」という気分になった。雨の中でテントを張り、大きく枝を張り出した樹の下で夕食の準備をした。土砂降りではないものの、霧雨よりはもっと降っている雨を頭上に受けながらの夕食だった。日本人グループだったらきっと、テントの中に入って食べただろうと思いながら、カナダの女性は強いなぁとも思った。
 食事が済んで川の水で食器を洗うと、一番大きなリリアムのテントに入って熱いお茶を飲みながらのお喋りタイムだった。雨脚は結構強くて、私はちょっと心許ない想いだったが、誰も明日の天気のことなど話題にしないのだった。彼女たちのそんな態度から、この時もまた「雨が降ったら濡れればいいさ」という気分になったが、それでもやっぱり十分な備えがなければこの山中では危険だっただろう。私たちには十分な食料と燃料、防寒着、それに何よりもパワーがあった。
 その夜、アニーは私のテントで寝た。テントをバラバラと打つ雨の音、ゴウゴウという川の水音、そんな物音を子守唄にアニーの温もりを湯たんぽに、私も眠った。

*4日目

 目覚めると体を濡らすほどの濃い霧を残して、雨は上がっていた。朝食を済ませテントを畳んで、トレイル最後の道を行った。花の層は高山帯の花から亜高山帯の花に変わってきた。朱赤のオダマキが咲いていた。黄橙のコウリンカ、青紫のトリカブト、オレンジ色のカンゾウの仲間の花、茎高い山の花たち。北の国の花たちだった。
 また道は樹林帯になった。木々の葉陰に屋根が見え、それがこのトレイルを見回るレインジャーたちの宿泊所だった。昨日山道で会った2人のレインジャーに、ここでまた会った。ブロンドの髪の人が最初に会った時と同じく、彼がたった一つ知っている日本語「ありがとう」で挨拶してくれた。バンクーバーの寿司バーでアルバイトをしたことがあり、その時に覚えたと言った。彼らレインジャーたちの活躍で、この国の自然は、なお良く守られているのだった。
 ここで私たちはそれぞれに、チルクート・トレイルを歩いた証明書をもらった。一人ずつ係官のところに行って、名前とどこから来たかを伝え、記入してもらう。クリスチンの証明書には「クリスチンとアニー」と記されていた。ここからはもう、ベネットまでの道を下るだけ。針葉樹林帯を抜け砂地のような歩きにくい道を過ぎ、暑さを感じるようになり、そろそろ疲れを覚えるようになってきた。アニーももう、行く時のように走り回りはしなかった。
 ベネットは湖畔にある地で、ゴールドラッシュの頃ここは、ホワイト・パスという鉄道の終着点だった。その昔活躍した蒸気機関車が寂しく勇姿を晒し、今は使われていない線路には、ノコギリソウが咲いていた。ここからはモーターボートでカークロスという町まで戻る。約2時間の航路だという。
 モーターボートは少し前に出ていったばかりだった。私は4時間近くも待たなければならないのかと思ったのだが、グレッチェンは携帯用のガスを出してお茶を沸かし、リリアムはポップコーンを煎り始めた。クリスチンはアニーと寛いでいた。彼女らのこんな生き方を、私も身に付けたいと思うのだった。自然公園が細心の心遣いで整備され、利用する人たちもゴミは全て持ち帰る、その一方でこの気風。いいなぁと思った。
 カナダの人たちは、自分の国はまだ100年しか歴史がないと、誰もがそれをコンプレックスのように話した。だが私は彼らがそう言うたびに、「歴史ある日出る国」と謂われる私の国を少し恥ずかしく思った。自然破壊が進み、あちこちがゴミだらけの国を。
 3時間ほど待つ間に戻ってきたのは乗客4人乗りの、モーター付きのゴムボートだった。
 山旅が終わった安堵感と湖を渡る風の冷たさにぐったりとして、誰もが無口でボートの上ではいつくばっていた。アニーもクリスチンの足元で丸くなっていた。湖を囲む山々に焼けこげた山肌を晒しているところがあった。その山裾は薄紅色に一面のヤナギランだった。ああ、本当にこの花は、山火事の焼け跡に真っ先に根を張る花だった。
 カークロスにつくとクリスチンが家に電話をかけ、ラリーが迎えにきてくれた。普通は40分ほどかかる道を25分ほどで来たから、よほど飛ばしてきたのだろう。ラリーとクリスチンは抱擁し、クリスチンは留守中の礼を言い、ラリーは山旅の成功を祝して、言葉少なに互いを労いあった。
 それからラリーは私たちの方を見て、車の荷台からアイスボックスを取り出した。おもむろにその蓋を開けると中から、よく冷えたシャンパンとグラスを取り出した。「ワォ!」と、こちらからは歓声が上がった。なんて粋な計らいだこと! 私たちはグラスを高く掲げて、「アニーに」と言って乾杯をした。みんなが口ぐちに「アニー」と言うものだからアニーは、尻尾を振りながらソワソワと歩いては私たちの顔を見上げた。ラリーはビスケットを一つポケットから出して、アニーにあげた。アニーはなお嬉しそうに大きく尻尾を振った。
 一攫千金を夢見て荒くれ男どもが辿った山道を、4人と一匹、女だけの旅が終わった。ラリーの運転する車で、アニーは助手席のクリスチンの足元でぬくぬくと気持ちよさそうに寝息を立てていた。

100年前の見果てぬ夢の街

 クリスチンの家でのホームステイを終えた後で、日本を出てバンクーバーまで一緒だった友人とホワイトホースの空港で落ち会い、レンタカーでドーソンシティに行った。
 ドーソンは、砂金の川クロンダイク川がユーコン川に合流する地点の町だ。木造の家は、道路から木の段を2、3段上がると、鎧戸のような両開きで胸高のドアがある。また外壁の前面に、板張りで幅の狭い廊下のようなバルコニーと2階に上がる階段のついた家もあった。そこは賭場だと言う。櫛の葉がかけたように家が途切れた場所があったが、そこでは乾いた土色の風に道端の草が揺れていた。道路には車が走行していてガソリンスタンドも在った。そこを行くのが四輪のタイヤで走る自動車ではなく4本脚の馬であったら、ガソリンスタンドは馬の繋ぎ場であったのだろう。100年以上も前のそんな光景が目に浮かんだ。
 泊まったホテルの受付のカウンターには「砂金受け付けます」と札がかかっていて、その下には天秤ばかりが置かれていた。今もクロンダイクには砂金採取を目的にやってくる人がいるのだろうか。それは確かめられなかったが、この街は、ゴールドラッシュ時代の見果てぬ夢の名残を残す街だった。

思い出の旅の終わりに

 友人のFacebook投稿にあったチャップリンの映画がきっかけになって、思いがけず37年前の日々を懐かしく辿り綴っていた昨日今日だった。カナダの旅へ誘ってくれた野田さんもローリーもいまは亡く、これを綴りながら彼らと共に過ごした日々をも懐かしく思い返していた。
 そんな時にとても不思議なことがあったのだ。ローリーのパートナーだった章子さんから、突然メッセージが届いたのだ。3月に、ローリーの17回忌を営むという知らせだった。
 3月は、哀しい月だ。2008年3月28日ローリー・イネステイラー逝去。2022年3月27日、野田知佑さん逝去。ローリーが亡くなってから、章子さんともご無沙汰続きだった。
 章子さんには3月の御法事に伺うと返事をし、ちょうど今、ローリーの妹の家で過ごした日々のことを思い出して書いていると伝えた。折り返し章子さんからの返信が届いた。クリスチンは孫も居て、元気に過ごしていると書かれていた。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。