第82回:映画『サイレント フォールアウト』福島で上映(渡辺一枝)

ビキニデー

 もうすぐ春休みという小学3年生の3月のことだった。静岡県・焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」が、漁場の海で放射能を浴びたことが大きなニュースになった。1954年3月1日に太平洋上のマーシャル諸島、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験による被ばくだった。その後、14日に焼津に帰港した第五福竜丸から水揚げされたマグロが、高濃度に放射能汚染されていることが報道された。漁船員の被ばくも大きな問題となった。そして9月23日に無線長だった久保山愛吉さんの死が報じられると、原水爆禁止の声は強く、大きな広がりとなっていった。
 今あの頃を思い返しても記憶が不鮮明なのだが、「雨に濡れると頭が禿げるから、濡れないように」という言葉で被ばくの危険が言われていたが、あれは水爆実験直後からだったのだろうか。それとも第五福竜丸が帰港して被ばくの実態が明らかになってからだっただろうか。核実験によって放射性物質が大気中に放出されたのだから、実験直後から言われるべき言葉だったと思うが、どうだったのだろう。
 ともかくも、それ以来3月1日は「ビキニデー」として記憶されてきた。
 その後、被ばく漁船は第五福竜丸だけではなかったことも明らかになってきていたが、あまりニュースにはなっていなかった。しかし、元南海放送ディレクターの伊東英朗監督が制作した映画『放射線を浴びたX年後』『放射線を浴びたX年後2』は、この問題を鋭く抉り出し、私はそれを観て問題を知ってきた。
 その「X年後」シリーズの第3弾として作られたのが、『サイレント フォールアウト 乳歯が語る大陸汚染』だ。

『サイレント フォールアウト 乳歯が語る大陸汚染』

 前2作でビキニ環礁で操業していたマグロ漁船員の被ばく問題を追った伊東監督は、3作目の今作では、アメリカの核実験そのものに迫っていった。1950年代にアメリカのネバダ州で始まった核実験が、人々の暮らしに何をもたらしたかを取材している。
 核兵器開発を目的にして度重ねて行われた核実験の後、地元民の多くに健康被害が生じ、がんなどの病気で亡くなる人も相次いだ。100回にも及ぶ大気圏内核実験によってアメリカ大陸全域が放射能汚染されたが、この事実をアメリカの国民はほとんど知らない。アメリカ原子力委員会は汚染を把握していたが、国民に知らされることはなかった。
 しかし、育ち盛りの子どもを持つ親たちの不安は昂じ、ネバダの東、ミズーリ州セントルイスの女性たちを中心として大きな動きが起きた。カルシウムに似た性質を持つ放射性物質、ストロンチウム90は、骨や歯に溜まる。だから子どもたちの乳歯を検査すれば、子どもたちが被ばくしているかどうか証明できると考え、抜けた乳歯の提供を広く呼びかけての「乳歯検査」を始めたのだ。ところが女性たちの活動を、アメリカの連邦議会は「共産主義を支持する組織」だと名指しして非難した。「赤狩り」の時代で、さまざまな妨害も受けた。だが、子どもを持つ女性たちは怯まなかった。
 最終的に集まった61,000本の乳歯を分析した結果、ストロンチウム90が検出され、子どもたちの被ばくが裏づけられた。そして運動の中心になっていた女性医師が科学雑誌の『サイエンス』に寄稿した論文を読んだ、時の大統領ジョン・F・ケネディの呼びかけで、1963年に米・英・ソ三国による部分的核実験禁止条約が結ばれたのだった。
 伊東監督は丁寧な取材によってこれらの事実を明らかにし、気象学者への取材で放射能汚染はアメリカ全土に及んでいたことも明示した。
 この映画を観ながら私が真っ先に感じたことは、福島原発事故後に日本政府がとった方針は、核実験後のアメリカ政府のやり方となんとよく似ていることだろうということだった。日本はアメリカに倣ったのではないか? とさえ思えた。
 さらに言えば、映画は1950年代〜60年代のアメリカの核実験について取材していたが、ソ連は1949年にカザフスタンのセミパラチンスクでの核実験を初めとして実験を続けたし、1952年にはイギリスもまた核実験を行っていた。そうして競い合うように、核による攻撃力を開発していった。「仮想敵国」を実際に攻撃こそしないが、いずれの国でも核験は、自国民を犠牲にした。それはある意味、自国民に対する攻撃であったと言えるのではないか? 「冷戦時代」と称されるが、核開発はまさに冷たい戦争だったと、映画を観て私は思った。
 これまで「X年後」シリーズ制作を支援してきた人たちを対象に開かれた初の試写会で監督は、「作品はまだこれから編集をして完成版にするが、アメリカの人たちに事実を知ってもらいたいので、まずアメリカで上映したい。大多数のアメリカ人が、核の被害を全く知らない。問題を知って核廃絶のために議会を動かしてほしいから、アメリカ人にこの映画を観てほしいのだ」と言った。
 その場にいた人たちは皆、作品完成を望み、同時に日本でも多くの人に観てほしいから自主上映をしたいと願った。私もそう思ったし、またアメリカでの上映が叶うことも願ったから、私はシカゴに住む友人で日本研究者のノーマ・フィールドさんの連絡先を監督に伝えた。もしかしたら監督は別のルートで、ノーマさんの連絡先をすでに承知していたかもしれないが、一助になればとの思いからだった。

この映画を福島で上映したい

 その後、映画は完成し、昨年3月31日に完成試写会が開かれた。翻訳監修にノーマ・フィールドさんの名があった。6月に別の試写会で完成版を観た私は、各地で自主上映会の開催を募ると聞き、これを福島の人たちに観てほしいと思った。同時にまた、福島の人にとってはこの映画鑑賞は大きな「痛み」を伴うことではないかとも思った。
 原発事故直後から政府は「直ちに健康に(放射線による)影響はない」と繰り返し、モニタリングポストでの実測値からではなく、原発からの距離によって避難指示区域を指定した。国が起用した「御用学者」による「年間100ミリシーベルトまでは安全」の講演会が、県内各地で開催されていった。他の地では「年間被ばく量1ミリシーベルト」が基準なのに、福島では20ミリシーベルトを下回ったからと、4月には入学式・始業式を行う通知が出された。そんな時期に「100ミリまで安全」の言葉を聞いて、避難先から戻った人たちは多かった。しかし安全かどうかを自ら判断して、国が定めた避難指示によらずに避難を続ける人も少なくなかった。
 国や行政からの支援は、避難指示の線引きによった。だから同じ地区内に住みながら、隣同士で受けられる支援が違って、例えば「隣の家はペットボトルの水が配給されるのに我が家にはそれが届かない」という状況も生じた。賠償金額も違った。
 そうして福島では、人心が分断されていった。健康に不安を感じて避難を選ぶ人と、不安を感じながら留まる・あるいは留まらざるを得ない人、国や県の言葉を信じて避難を疑問視する人、というように人々の心は割れた。地域が、あるいは家族が分断されていった。
 原発事故を無かったことのように忘れさせ、ひたすら復興を謳う国や経済界が在る。そしてまたこうした現状を報ずるマスコミの論調も、誰の立場に添っての発信かによって大きく違っていた。
 あれから13年経って、その月日の中で思い定めた在り方でこれからも生きていこうとする人たちには、その立場がどうであれ、この映画の上映は傷口に塩を塗り込むようなことにならないか。そんなことが案じられた。だから、もし福島で上映するなら、他の地域とは異なる配慮が必要ではないかと思った。

「フォーラム福島」

 福島の私の友人たちにまずは映画を観て欲しく思った。月に一度、戦争と平和や人権、環境問題に関してオンラインで勉強会を重ねているグループがあり、そこには福島県人の友人が多くいた。勉強会にはノーマさんや宮本ゆきさん(シカゴ・デュポール大学教授、『黙殺された被曝者の声』翻訳)のようにアメリカや他の国に住む人たちも参加していたが、まずこの勉強会でのオンライン鑑賞会を提案し、みんなで観たのは8月の末だった。
 この会での視聴後の話し合いの時に、アメリカ南西部のウラン開発被害を研究しているTさんから、「この映画に出てくるのは白人ばかりで、黒人や先住民族などの被ばく者の姿が出ていなかった」という意見が出た。それに対して、鑑賞会に参加してくれていた監督は「マイノリティの問題も理解しているが、マジョリティのアメリカ人に、自分ごととして捉えてもらいたいのでマイノリティ被害者はあえて取り上げなかった」と答えた。
 私は日頃はチベット問題など、少数者の差別問題に声をあげているのに、この映画を見た時にはTさんのような視点が欠けていたことに気づき、自分を恥じた。でも同時に、監督の言葉にも納得と同意を覚えた。しかし、Tさんは大事なことを指摘してくれたと思い、この問題は私の中に楔のように残り、「意識していなくても自分の中にある差別意識」を考えていくことを、私自身のテーマにしていこうとも思った。
 その翌日、私はノーマさんと電話で話した。福島で上映会をしたい思いと、それに関しての不安を伝えると、ノーマさんからも同じ答えが返った。それでも上映することに大きな意味があると、ノーマさんも私も思いは一つだった。
 この時はまだ、具体的な考えは浮かんでいなかったが、できることなら映画館で上映したかった。自主上映だと日程を決めてどこか会場を借り、その日に1回か2回上映が普通だろう。上映日が1日だけでは、その日に都合が悪ければ、観る事はできない。何日間か上映期間があれば、どこかで観ることができるかもしれない。それに自主上映だと、福島に居住していない私には、会場を借りるのも難しかった。映画館で上映できないだろうかと考えた。
 福島には社会的なドキュメンタリーなどもよく上映している「フォーラム福島」という劇場があると、友人の今野寿美雄さんから聞いていた。そしてまた今野さんは、友人の中には映画の上映実行委員会を作って、フォーラム福島で上映会をした人がいるとも言った。今野さんは私が福島へ取材に行く時にはいつも、現地案内や会うべき人への紹介をしてくれる人で、私は深く信頼して頼りにしているが、体制側からは「歩く風評加害」と呼ばれていた。
 今野さんにもオンラインでこの作品を観てもらい、そして繋ぎ役をお願いして、「フォーラム福島」支配人の阿部泰宏さんに私が会ったのは10月の初めだった。映画の内容を伝え、配給会社を通しておらず自主上映のみで公開されている作品だが、上映していただけないかと話した。この時点で阿部さんはまだ作品を観てはいなかったが、今野さんの応援も功を奏して、上映実行委員会を作っての自主上映として、劇場での1週間上映を快く受けてくださった。

『サイレント フォールアウト』福島上映実行委員会

 嬉しい返答を得て、原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)共同代表の武藤類子さんら友人たちに声をかけた。県外に避難している人も含めて、私以外はみんな福島県人の11人で上映実行委員会を作り、会議はオンラインで進めていくことにした。
 顔合わせということで第1回上映実行委員会を開き、これまでの経緯を説明して改めて協力をお願いした。実行委員の中には、YouTube で公開されている予告編しか見ていない人もいた。そこで実行委員全員がこの映画を観て、福島で上映するにあたって大事にしたい点を話し合おうということになった。劇場支配人の阿部さんにも観ていただいた。
 全員が映画を観た後で、次の実行委員会を持った。「気持ちがザワザワとした」「2011年のあの日に、気持ちが押し戻された」という感想が出ながら、しかし、福島でこの映画を上映する意義はあると意見は一致し、毎回の上映後にトークイベントを企画することになった。
 年が明けて、阿部さんから連絡が入った。「フォーラム福島」では2012年から毎年3月は、「311映画特集」として東日本大震災と原発事故に関する作品を上映してきているが、2024年も「あの日から13年 いま問い直したい『311映画特集』」を行うので、その一環として、3月15日(金)〜21日(木)の1週間を『サイレント フォールアウト』の上映期間とすると伝えられた。ここに組んでいただけたことも、そしてまた上映期間中に、土・日の他に休日があるのも、とても嬉しいことだった。ちなみに、この映画特集期間中に上映される作品はどれも、私自身も観たいものばかりだった。フォーラム福島で上映が決まったと福島の友人に告げたら、「あそこは、福島市に住む私には宝物のような映画館なのよ」と言われたことを思い出した。

3月15日〜21日トークイベント

 そして今年3月15日、いよいよ上映が始まった。ここには上映後のトークイベントで話された内容を記す。

3月15日(金)
今野寿美雄さん(元放射線作業従事者、子ども脱被ばく裁判原告代表)×清水義広さん(ふくしま30年プロジェクト)

 今野さんは2011年3月11日には仕事先の女川原発(宮城県)に居て、作業がちょうど終わって帰り支度をしていた時に地震が起きた。15日までは道路が寸断、損傷していて自宅に戻れなかった体験から、避難計画など机上で立案しても実際には避難は不可能であることを、正月に起きた能登半島地震の例も挙げながら話した。また福島県が「年間20ミリシーベルト」で住民に帰還を促すことへの強い憤りを表した。子どもを守ることが大人の務めであると訴え、原告代表を務める「子ども脱被ばく裁判」では、一審、二審とも原告の訴えを審議せず被告の言い分のみを取り上げて原告敗訴の判決が出された経緯を話し、最高裁で闘いを続ける決意を語って裁判支援を呼びかけた。
 清水さんは「ふくしま30年プロジェクト」で放射能汚染の数値を測り、記録を続けてきたことを話した。プロジェクトが目指しているのは、放射能を測定し、またそれを記録し、記録を集積していくことだが、本来これは国がするべきことでありながらされておらず、民間がやっている。そのための設備や費用など大変な金額が嵩み、苦しいながらどうにか続けているが、活動を縮小せざるをえないNPOも出てきている。30年プロジェクトも閉じて、別の団体に合流して活動を続けるそうだ。清水さんは、これまでの記録も散逸させずに大切な記録として保管していきたいと話した。

3月16日(土)
島明美さん(市民の生活環境を考える会代表、伊達市議会議員)

 島さんの話によれば、伊達市は原発事故後に真っ先に除染事業に取り組んだが、それは酷いものだったという。放射線量が高いにもかかわらず除染対象区域から外された地域もあり、住民たちは不安に駆られていた。そんなときに市長選が行われ、続投を狙う市長は「市民の声を拾う」として、除染対象外の区域に住む住民を対象にアンケート調査を実施する。住民たちは、これまで除染に消極的だった市長がやっと自分たちの声を聞いてくれると考え、期待を込めて票を投じた。これによって市長は2期目当選を果たすことになる。ところが当選後、市長は除染範囲を広げるどころか、問題は市民が必要以上に不安を抱えていることだとして、「心の除染」が必要だと言い出したのだ。
 子を持つ母親として放射能汚染に不安を抱いていた島さんは、そうした市の姿勢に疑問をもって情報開示請求をし、市が国の除染ガイドラインよりも緩い独自の除染基準を設けていたことを明らかにした。その経緯を話しながら見せてくれた分厚く重たいファイルは、選挙の際に実施されたアンケートの回答集だという。全部で30冊にもなるそのファイルは、当時の市民の不安や苦悩が生々しく書かれている、貴重な記録だと話してくれた。
 島さんは、情報開示請求などの活動を経て、現在は伊達市の市議会議員として活動している。このトークイベントの日の朝、新人議員としての自分を同じ会派で支えてくれた先輩議員の訃報を受け取ったと言う。かねてその先輩からは、「議員になるということは、親の死に目にも会えない覚悟がいるよ」と言われていた。島さんはそう言葉を結んだ。

3月17日(日)
武藤類子さん(ひだんれん共同代表)×ノーマ・フィールドさん(シカゴ大学名誉教授)

 この日は、予め類子さんとノーマさんがオンラインで行った対談の録画を、スクリーンに映写した。
 対談は類子さんの映画を見た後の「13年前を思い出して体がザワザワした」という言葉から始まった。ノーマさんは冷戦時やその後の9・11事件など歴史的な流れの中でのアメリカ人の意識の変化などを話した後で、アメリカでこの映画の小さな上映会を開いた時のことを話した。
 20人ほどの小さな集まりで、視聴後には活発な話し合いが進んだが、意見も出尽くしてそろそろお開きにしようという頃に、後ろの席に座っていた黒人女性が手を挙げたという。そしておずおずと小さな声で発言した。「こんなことを言って良いかどうか迷いましたが、国の中で一番大事にされている人たちがこんな酷い目に遭っていたことを、私は知りませんでした」。彼女以外の参加者は全員白人だったという。ノーマさんは「一口に白人と言っても立場は色々ですが」と、黒人女性の言葉を伝えるのに併せて言った。
 私には、ノーマさんが紹介してくれたこの黒人女性の言葉が、8月の勉強会での視聴後に心に楔のように残っていたTさんの発言をめぐる問題についての、進むべき方向を示してくれているように思えた。

3月18日(月)
三瓶春江さん(「ふるさとを返せ!津島訴訟」原告)

 事故前、春江さんはふるさと浪江町津島で4世代10人で暮らしていた。家族がバラバラになっての避難生活となり、その間に高齢の父親は、津島に帰りたいと言いながら亡くなった。
 帰還困難区域指定解除となっても、津島は子どもや孫の世代が安心して暮らせる場所ではない。そして、自分たちだけが帰っても、避難先で新たな生活を築いている若い世代は帰らない。ふるさとを捨てたくない。けれどもそこに子どもや孫を住ませるわけにはいかない。「解除になっても帰らないで避難を続けている」、その気持ちを理解してほしいと、振り絞るような声で話した。
 避難の様子や裁判の経過を冷静に話していたが、避難指示解除になっても帰れない故郷への心情を語る時には、溢れそうな涙を堪えて語る春江さんだった。

3月19日(火)
宇野朗子さん(「うみたいわ」主宰)×千葉由美さん(TEAMママベク 子どもの環境守り隊)

 いわき市在住の千葉さんは原発事故前には被ばくについてあまり知識はなかったが、元々環境問題に関心を持って学んでいたこともあり、予防原則(化学物質や技術が人の健康や環境に重大・不可逆的な影響を及ぼす恐れがある場合、科学的な因果関係が十分に証明されない状況でも、規制措置を可能にするべきという考え方)が大事と考えた。事故の後、国も県も、子どもの健康よりも経済復興を優先させていると感じたため、子どもを守るには母親が立ち上がらなければと、お茶会を開きながらゆるやかに「ママの会」結成を目指した。2013年「いわきの初期被曝を追及するママの会」として市長への公開質問状を提出して初の申し入れを行い、記者会見などを行った。その中では、市民活動への偏見、家族間の価値観の相違など、元々存在していた根深い問題にも直面したという。
 そこから「TEAMママベク 子どもの環境守り隊」という放射線量測定プロジェクトを立ち上げ、いわき市の許可のもと、市内の小中学校・保育園・幼稚園・公園の測定活動を行い、問題があれば対策を求めるなどの取り組みを続けている。行政との信頼関係を構築して、市のホームページにママベクのホームページのリンク掲載が叶うなど、官民協働での被ばく防護策を実現できたことは大きな一歩だ。しかし、子どもを人質に取られたような状況下で、感情を抑えて穏やかさに徹して実情を伝えていくことは難しい。国は「放射線量が下がった」と喧伝するが、それは空間線量であって、日本は土壌汚染の基準をあえて設けず測定もしていない。2013年から蓄積しているママベクのデータは、健康被害の根拠、汚染の実態を示す証拠としてとても貴重なものだ。行政との協議では、そのデータをいわき市の財産として保管し、未来に生かしてほしいと訴えているという。
 福島から京都に避難している宇野さんは「うみたいわ」を始めたきっかけから話した。福島第一原発の汚染水を海洋放出する方針が決定された時に「本当にそれで良いのか?」と疑問と恐れを感じ、「七世代先を考えよ」というネイティブアメリカンの言葉が脳裏によぎった。「七世代先の人々に、生きとし生ける全てのものが幸せに生きる地球を手渡すために、私たちに何ができるのか」を考えようと、2021年に有志でスタートしたのが、さまざまな人たちとの「対話」の場をつくる「うみたいわ」だ
 政策を決定する際には、多様な立場の人々が対話することによって共に決める社会を目指したいと願い、汚染水のことだけでなく私たちが創造したい未来について、「七世代先を考えよ」をスローガンにして、対話を続けていきたいと思っているという。立場の異なる人との対話が有効に機能して市民が当事者として責任を持って関わり、政府は市民の声を遵守し実行する社会に向けて、「うみたいわ」は対話を通して探究し、学び、変容し、実現していく「ラーニング・ジャーニー(学びの旅)」だと考えている。

3月20日(水・休)、3月21日(木)
黒田レオンさん(国際NGO LaRoSeHan議員団議長、ヒロシマヒバクシャ)

2日間にわたる黒田レオンさんの話を、以下にまとめる。

・1945年、鎌倉から広島へ
 鎌倉で生まれ、子ども時代は鎌倉で過ごしていた黒田さん。1945年の年が明けてから、一家で広島に引っ越すことになった経緯から話し出した。大学で理数系教科を教え、発表してきた論文も注目されていたお父さんは、スポーツ万能で立派な体格だったのに、なぜか召集令状が届かずにいた。しかし、ある日とうとうそれが届いた。お父さんが指定された場所に行くと、令状を受けた大勢の人たちが会場に集まっていた。正面に立った偉そうな軍人が、軍隊に加わって戦地に赴く心得を話し最後に「戦争へ行きたくない者は挙手を」と言ったので、お父さんは手を挙げたそうだ。他にも何人か挙手した人がいたが、彼らは手や脚など身体のどこかに不具合のある人たちだった。いかにも健康そのものでありながら挙手をしたお父さんは、長刀の柄で胸を突かれて倒れ、ボコボコに殴打されながら「貴様は何故手を挙げたか」の問いに、「私は鉄砲を持ったことも撃ったこともないから、戦地に行っても役に立たない。しかし私は科学者だからその力でお国のためになることができる」と答えた。
 その翌日にお父さんに、軍都の広島へ赴任するよう命令が下り、一家は広島へ引っ越したのだという。畳敷の部屋はなく洋室ばかりの立派な官舎があてがわれたが、家の中の一室は床から天井まで部屋いっぱいに紙袋が積み上げられていたそうだ。お父さんにあれは何かと問うと、砂糖だが、その砂糖からガソリンを作るよう命令されていると答えが返ったという。

・そして8月6日
 黒田さんは「皆さんがここでご覧になった映画は、遠く離れた場所で行われた核実験によって被ばくした人の話でしたが、私は自分が体験した投下された原爆直下の場所での被ばくのことを話します」と言って、8月6日のことを話し出した。
 朝、6歳の黒田さんと2歳下の弟、その下の妹と3人でテーブルを囲んでいた。その瞬間、台所にいたお母さんが、普段は声を荒らげたことのない静かな人なのに「熱い!」と叫び声をあげた。3人の子どもたちは何がどうなったのかわからない間にうずくまってしまっていた。何かに押し潰されたみたいで目も開けられず、何がどうなっているか分からずにいた時に父親の「大丈夫か?」という声がした。倒れたりうずくまったりしていた3人の子どものそれぞれの背の上にどこから飛んできたものやら畳が覆い被さり、そこにはガラスの破片がたくさん突き刺さっていたという。お母さんもお父さんも家族全員、怪我もなく皆無事だったのが、8月6日の朝だった。

・それから3日間のこと
 官舎の建物は損傷もほとんどなくしっかり残っていたので、ここで被災者を受け入れることとなり、一家は急いで部屋を片付けて準備にかかった。そんな時に、熱く焼けた道路の上を裸足で逃げている被災者に履き物を届けるようにと連絡が入り、黒田さんは家中の靴や下駄、草履など履き物を全部集めて指示された場所の橋に急いだ。道路には黒焦げの死体が多数転がっていたし、川の中も生きているのか死んでいるのか分からないが、人で埋まっていた。橋の上には人が溢れていて、持ってきた履き物を渡したが、それではとても足りない。家に戻って隣の家や学校の下駄箱の履き物も全部集めて、また運んだ。それでも足りずに戻って、反対側の隣の家の履き物も集めて、また運んだ。そうやって3回家から橋まで往復すると、疲れてしまったので、その日はもう外へは行かなかった。それが8月6日のことだった。
 実は、その頃広島の一家の家には両親ときょうだいの他に、もう一人家族がいた。母の弟だから叔父さんなのだが歳がまだ若く13歳だったので、6歳の黒田さんは「兄ちゃん」と呼んでいた。その兄ちゃんが朝出て行ったきり帰ってこないので気がかりだった。それで翌日から兄ちゃんを探しに町を歩いた。向こうから比治山の方に向かって歩いて来る避難者はみんな裸で、こんなふうに(と言って黒田さんは両手を前に突き出して)、その手には肌がびらびらとぶら下がって、目が飛び出してだら〜んと下がっている人も、何人もいた。目が飛び出していて、どうやって見えるのか分からないけど、みんなトボトボ幽霊みたいに並んで比治山の方へ歩いていた。
  時々黒田さんと同じように逆に街に向かって歩いている人もいたが、その人たちも誰かを探しているのだった。でもそれはみんな大人で、子どもで歩いていたのは黒田さんだけだった。夢中で歩いていて、倒れている焦げた死体をちょっと踏んでしまったことがある。そしたらずるっと皮が剥けて、ああ、申し訳ないことをしたと思ったが、怖いとかそんな感情は無かった。でも兄ちゃんは見つからず、その日も兄ちゃんは帰って来なかった。
 次の日も兄ちゃんを探しに行った。やっぱり見つからず、その日もやっぱり兄ちゃんは帰って来なかった。
 次の日はもう、兄ちゃんを探しに行かなかった。だが、夕方になって兄ちゃんが帰って来た。怪我も何も無く、しかし着ていた服が出て行った時とは違って、それも焦げた跡も何もない綺麗な服だった。どこにいたのか、どうしていたのか聞いても、兄ちゃん自身に記憶もないのか、答えられなかった。
 黒田さんは結局、8月6日から3日間、広島の町を歩き回った。目にしたのは、焼け野原と黒焦げの死体、着ていた服は焼けてしまって裸で皮膚が垂れた姿で、目が飛び出した姿で「水、水」と水を求めて歩く人の群れ。川の水は海が満潮の時にはびっしりと死体を浮かべたまま遡り、干潮になると海の方へ流れ下る。そんな様子を見ていても、それが当たり前の風景になってしまっていて、怖いとか気持ちが悪いなどの感情は全く湧かなかった。

・「15歳までしか生きられない」
 黒田さんが10歳の時のことだ。学校で、授業中の廊下をカツカツと歩く靴音が聞こえ、それが教室の前で止まったと思ったら、ドアを足で蹴破って入ってきたのは二人のMP(米軍の憲兵)だった。二人は真っ直ぐに黒田さんを見据えて近づいてきて、「Stand up(立て)!」と命じた。椅子から立った黒田さんは厳つい体格の二人に両側から挟まれるようにして教室を出ると、校庭に駐車していた車に乗せられ、連れて行かれたのは比治山の原爆傷害調査委員会(ABCC)の建物だった。これは米国科学アカデミー(NAS)が1946年に原爆被ばく者の調査研究機関として設立したものだ。
 連れて行かれた部屋には他にも何人かの人がいたが、着ているものをみんな脱ぐようにと命じられた。若い女性たちもいたし、女性でなくても男でも人前で素っ裸になるのは躊躇してもじもじしていたが、強い口調で再度、裸になれと命じられて仕方なく、みんな丸裸になって調べられた。投下直後の町の中を3日間も歩き回り高線量被ばくをしていた黒田さんは、「15歳まで生きられないだろう」と調査官たちが話すのを聞いた。
 それから後もABCCで検査を2回されたが、流石に二度目からは丸裸ではなく上に羽織るものが用意されていた。
 15歳までしか生きられないと聞かされていたが、15歳になっても死ななかった。「生きてやろう! やりたいことをやって生きていこう! と思った」と黒田さんは言って、さらに言葉を繋げた。
 「いま僕は85歳です。6歳の時に広島にいてあの街に起きたことを見てきました。被ばく者は高齢化して亡くなる人も増えています。僕は命が続く限り語り続けます。どこへでも行きますから、呼んでください」。そう言ってポケットから手帳を出して「これは僕の被爆者手帳です。福島の皆さんにもこういう手帳があると良いと思います」。その言葉に、会場の参加者から「大事なことだと思うが、それを持つと被ばく者だという目で見られ、差別されるから反対だという声があって、実現できなかった」と声が上がった。黒田さんは、「広島でも同様にそういう声はあったが、後になってみれば手帳は必要なことだったと、みんな思っている」と言葉を結んだ。
 また、原爆投下直後の3日間の過酷な体験は、トラウマを生まなかったか、P T S D症状は出ないかという質問があった。
 「沖縄や戦地での戦争体験者の話などからP T S Dのことはよく聞くし、ああそうだろうなと思うが、僕の場合はそれはありません。あまりにもそんな状態の中にいて感覚が麻痺していたのか、それが普通で当たり前の光景でした。ただ、今でもある種の臭いに関しては『ウッ』と胸が詰まって、とても気分が悪くなることがあります。臭いはダメです。堪えられません」。黒田さんは、そう答えた。 
 遮二無二戦争遂行の道を歩んでいた日本の姿が、そして6歳の少年の目に映った原爆投下直後の広島の町が、聴いている私にリアルに迫ってくる黒田さんの話だった。

1週間の上映を終えて

 『サイレント フォールアウト』上映期間中、243名の人が映画館に足を運んでくれた。この数は、他県での自主上映の集客数と比べると、決して多くはない。映画の事務局に聞くと、今年2月の時点で既に124会場で自主上映が行われ延べ3300人が観たという。中には1日だけの自主上映で200名集まったところもあったと聞いている。だが11名の上映実行委員の私たち、そして劇場支配人の阿部さんも、福島でも1週間にこれだけの人が観に来てくれたことを素直に喜んでいる
 上映後のトークイベントに参加してくれた人が多かったことも、また嬉しいことだった。上映期間中には福島市内の飯坂町で「2024原発のない福島を!県民大集会」(17日)や、東京の代々木公園では「さようなら原発全国集会」(20日)が開かれ、そちらに参加した県民も多くいただろうから、上映期間を1週間取って、それ以外の日にも見られるようにしたことも良かったと思う。そして何よりも、映画を観た人たちが「この映画は、多くの人に観てほしい」とスタッフを務めていた実行委員に伝えたり、アンケートに書いたりしてくれたことが嬉しかった。「福島の人たちに観てほしい」と思って上映を企画したのだが、けれども「観たくは無かった」と不快に思う人もいるかもしれないと思ってもいたからだ。
 『サイレント フォールアウト』は、核兵器開発にまつわる歴史を伝えた。被害者の証言や、核実験に抗して立ち上がった女性の運動や、放射能の影響を記録し続ける研究者の姿を描き、それらの歴史的事実を捉え、見えなかった事実を明らかに示した。私たちにたくさんの課題を提起ししてもくれたが、語り継ぐべき歴史の事実を明示してくれた意義はとても大きい。
 そして上映後のトークイベントでは黒田レオンさんが、核兵器被害の実相を話し、私たちがしっかりと記憶に残し、後の世に語り継がなければならないことを伝えてくれた。歴史を語り継ぎ、語られた歴史を受け取りさらに繋いでいくことの大切さを思う。今野寿美雄さん、清水義広さん、島明美さん、三瓶春江さん、宇野朗子さん、千葉由美さんは、原発事故による現在進行形の被害に向き合っての活動を語ることで、今まさに歴史を紡いでいることを示してくれた。この活動をしっかりと記録していくことが、後にとても大切な歴史となっていくだろう。
 さらに、武藤類子さんとノーマ・フィールドさんの対話は、冷戦時代の核実験からチェリノブイリ原発事故、そして福島へと話題が繋がり、原発は決してクリーンなエネルギーなどではないことを、改めて強く意識させてくれた。類子さんもノーマさんも互いの心情に深く寄り添いながら静かで穏やかな口調だが、そこには深い悲しみと憤りが溢れていた。
 口をつぐんだ後で類子さんがふっと頬を緩めて「(乳歯検査に取り組んだ)女性たちが攻撃に遭っても怯まず運動を続けて、核実験禁止(条約)が実ったことに光が射してきたように思えました。私たちも厳しい状況の中にいますが、諦めずに歩いていきましょう」と言った。
  

*これを書いた後、嬉しいニュースがあった。『サイレント フォールアウト』が、アメリカで「国際ウラン映画祭」のナバホ族主催の上映会で上映されたという。核実験で大きな被害を受けている先住民の人たちが主催の上映は、とても大事な意味があると思う。
 「Silent Fallout Project」では、北米上映ツアーのためにクラウドファンディングで支援を募集している。当初の目標額500万円は達成したが、ネクストゴールの1000万円に挑戦中で、4月29日午後11時までだ。円安の現在、ツアーには500万円ではとても足りないだろうと思う。伊東監督はネクストゴールが達成しなくても自費でツアーをやり遂げると言っているが、支援が集まって北米ツアーを成功させて欲しい。


米各地を巡る上映キャラバンでアメリカの人たちに大陸汚染を知らせたい
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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。