第675回:弱さや醜さで繋がってきたから生きられた〜「除菌社会」と「こわれ者の祭典」の巻(雨宮処凛)

 ゴールデンウィークはじめの4月27日、久々にあるイベントに出る。

 それは「こわれ者の祭典」。さまざまな病や障害、また生きづらさを抱えた人たちによるパフォーマンスイベントで、2002年、アルコール依存症で元ひきこもりの月乃光司さんによって始められた。

 そんな「こわれ者の祭典」の、私は名誉会長。「不名誉顧問」は香山リカさん。これまで、摂食障害や脳性麻痺、強迫神経症、パニック障害、各種依存症、自殺未遂者などなどの当事者が出演してきた。

 「こわれ者の祭典」が東京でイベントをするのは実に数年ぶりなのだが、今回はタイトルにデカデカと「水原一平さんは仲間です!」と掲げられている。言わずと知れた、違法賭博に関与していたとして訴追された大谷翔平氏の通訳である。イベント説明には以下の言葉。

 「ギャンブル依存症、アルコール依存症・薬物依存症・摂食障害・買物依存症…
 依存症の当事者グループでは、お互いを『仲間』と呼び合う大切なつながりがあります。
 偏見や中傷は依存症者を孤立させますが、正しい理解と『つながり』が回復への一歩です」

 そんな「こわれ者の祭典」に登場するゲストがなんとも豪華だ。

 水原氏問題で積極的に発言をしている「ギャンブル依存症問題を考える会」代表の田中紀子さん、「Addiction Report」編集長の岩永直子さん、俳優の東ちづるさん、そして私。

 さて、「こわれ者の祭典」に出るのはおそらく5年以上ぶりだと思うのだが、私がこのイベントを知ったのは2000年代はじめ。その頃のイベントのキャッチコピーは「練炭で死ぬ前に俺たちを見てくれ!」というものだった。

 それは当時、練炭自殺や練炭を使ってのネット心中が流行っていたからなのだが、そんな強烈なコピーからもわかるように、このイベントでは自殺願望をはじめとして「普段話せないようなこと」ばかりがこわれ者メンバーやゲストたちから語られる。

 ひきこもっていた日々の超絶惨めな話。連続飲酒の中での失敗。今まで家族や周りの人たちにかけた迷惑。生きづらくて死にたくて「やらかした」ことの数々。

 あまりにも赤裸々すぎるトークに、会場は時に爆笑に包まれる。笑いながら涙を拭く人もいる。それぞれの生きづらさを抱える人たちで埋まる客席は、いつも不思議な一体感に包まれる。

 ダメでも惨めでも死にたくても、それは自分だけじゃないんだと安心できる場。生きるのが下手で躓いてしまうのは自分だけじゃないんだと、そしてこれほどに世を恨んでいるのも自分だけではないのだと気付ける場。「死にたい」話から、時に「殺したい」話までが安心してできる場。そんなことを言っても誰にも非難されず、逆に共感される場。

 思えば私自身、「こわれ者の祭典」をはじめとして、そういう場があったから生きてこられたと自信を持って断言できる。特に1990年代、自殺願望を抱えてフリーターとして生きていた頃は、死にたい人たちが集まるようなイベントにばかり行っていた。当時、そのようなイベントは多くあり、そんな場に行くことによって「死にたいほど辛いのは自分だけじゃないんだ」と思えた。安心して、自分の醜い部分を見せられる人たちと出会えた。それによって生き延びてきた。

 しかし、今、そんな場所は極端に少なくなったと感じる。

 それはインターネット、特にSNSが発達したからで、配信はもちろん、発言の「切り取り」やその拡散によって「炎上」リスクが高まったからだろう。

 文脈を無視して、「あいつは無差別殺人願望があると言っていた」というような形で拡散されると、当人は社会的生命さえ失いかねない。そんな例があると、「安心して自分の醜い部分を見せられるような場」はあっという間に消えていく。同時に、他人のことも信じられなくなる。「共感できる仲間」だと思っていた隣人は、自分の発言を切り取って悪意をこめて拡散する「裏切り者」かもしれないのだ。こうして「ここだけの話」ができる場は失われ、他者に対する疑心暗鬼ばかりが膨らんでいった。

 そんなふうに自らを晒せる場が消滅していくと、当然きわどい話もできなくなる。みんながそうなると、世の中で目にするものは無害な「正論」しかなくなる。そうなると、自分の「負の感情」が前よりもずっと「異常」なものに思えてくるという悪循環。そんな「正しさ」で埋め尽くされた世の中で繰り返される、「不適切な言動」をしたものに対する集団リンチ。

 この10年ほど、私たちはSNSによってどれほど「安心」を奪われてきただろう。「心理的安全性」なんて言葉が注目される昨今、SNSこそがもっともその安全性からかけ離れた場で、死者すら生み出し続けているというのに。

 そんなことを悶々と考えている時、ある人のインタビューを読んだ。

 それは京アニ事件について評論家の與那覇潤氏が語った朝日新聞デジタル(24年1月24日)のインタビュー(「『除菌志向』進む日本 『無敵の人』を『無敵』でなくすのは相互接触」)。

 與那覇氏は京アニ事件、秋葉原無差別殺傷事件、安倍元首相銃撃事件について、「三つの事件に共通するのは、『ネガティブなものを共有できる場所』が日本社会に乏しいことが犯行につながった、という点だと思います」と述べ、「事件を繰り返さないためには、ネガティブと思われがちなものにも『居場所』がある社会でなくてはならないと思います」と続ける。

 そうして指摘するのが、「社会の脱臭化」だ。以下、引用である。

 「平成の後半から日本では『社会のデオドラント化』が進んだと感じています。ネガティブなものは、そもそもこの世に存在しないでほしい。少しでもにおったらスプレーをかけるように『除菌』しようとする傾向が強まりました。
 同じ時期に普及したSNSは典型的です。気に入らない言動や表現を見たとき、『みんなでたたいて、世の中から消してしまおう』とあおる人が増えました。
 かつてリベラル派と呼ばれる人たちは、異分子と共存していくことを説いたはずなのに、今は、敵視する相手の排除に率先して走る動きばかりが目立ちます」

 そうして社会に「自己完結志向」が強まり、それが潔癖症につながることについて述べた後、以下のように続く。

 「些細な迷惑ひとつでも、相手を不快にするかもしれない。消臭剤をかけられる対象になるかもしれない。だから、周りに迷惑だと思われないように、自分のネガティブなところを隠そうとするけれど、どこかで抑えきれなくなり、暴発してしまう人が出てきます。
 昨年話題になった、歌舞伎町の路上にたむろする『トー横キッズ』、風俗店の男性に貢ぎ続ける『ホスト狂い』、反社会的な動画で人気を集める『迷惑系ユーチューバー』の追っかけたち。なぜそんなものにハマるかといえば、『後ろ暗い影のある世界なら、ネガティブな自分でも受け入れてもらえるのではないか』と、最後の希望にすがる人がいるからではないでしょうか」

 これを読んだ時、膝を打つ思いにかられた。

 今、私たちの前にある一見「グロテスクなもの」たちは、正しさで人を嬲り殺すような除菌社会から生まれたのではないだろうか?

 そう思うと、納得することばかりだ。「ホスト狂い」ひとつとっても、ホストを金の力で感情のゴミ箱のように扱い、暴言を吐く一部女性の姿は「正しい世界」に居場所がない人たちを確実に癒している。

 迷惑系ユーチューバーがどれほど叩かれようとも一部根強い支持者がいるのは、その人を支持すること自体が、この除菌社会へのノーを突きつけていることと無意識にイコールだからなのだろう。

 そんなことを思うと、この社会には、安心して醜い部分を見せられる場がもっともっと必要だと思うのだ。屈折の果てに迷惑系ユーチューバーを支持するのではなく、弱みを見せ合い、傷を舐め合い、そんな自分たちを笑い飛ばせるような場所。少なくとも、私はそんな場があったからこそ、あの辛い時期を生き延びることができた。

 もし、私が今の時代に生きづらさをこじらせていたら。SNSで「正しくない」とされる誰かを猛攻撃して行き場のない苛立ちを発散させていたかもしれない。そして自分は「いいことをしているのだ」と思い込んでいたかもしれない。その果てに、ある日、誰かを自殺に追いやっていたかもしれない。

 そう思うと、死にたいとか殺したいとか無差別殺人をしてしまうかも、なんて物騒なことを公開の場で言い合っていた時代の方がずっといい。なぜなら、私たちはそう口に出すことで、誰にも迷惑をかけていなかったのだ。それが今は、そんなドロドロした思いをSNSで誰かにぶつけ、集団リンチの果てに殺してしまうことさえあるのだから。

 「除菌社会は」このままどこに向かうのだろう。

 ということで、おそらく日本で「ここだけの話」ができる数少ない場の「こわれ者の祭典」、興味を持った方は、ぜひ来てみて、体験してほしい。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。