岡山市には、シネマ・クレールという2スクリーンだけの小さな映画館がある。市内唯一の独立系アートハウス映画館(ミニシアター)である。
僕の住む牛窓からシネマ・クレールへは、車で40〜50分かかる。映画を観るには、ちょっと遠い道のりだ。
しかし観たい映画があれば、たいていはこの映画館で観ることになる。なにしろ、僕が観たい映画の多くは、シネコンではかからず、シネマ・クレールのようなアートハウスでしか鑑賞できないからである。
アートハウスのスクリーン数は、日本全体のスクリーン数のたった7%にすぎない。しかし日本で上映される映画の約半数は、アートハウスだけで上映されている。ドキュメンタリー映画にいたっては、そのほとんどがアートハウスだけの上映である。
アートハウスは、日本の映画文化の多様性を保つ、貴重な存在と言えるだろう。
ところが先日、シネマ・クレールの支配人の浜田さんと話していたら、コロナ禍で減った観客の数が、思うように戻らないと嘆いておられる。このままでは存続が難しくなるとも。
僕は危機感を募らせた。
シネマ・クレールがなくなってしまったら、年間約200本の映画が、岡山では観られなくなる。のみならず、僕の作品を上映してくれる場所も失ってしまう。
死活問題である。
そこで「ノーギャラでもよいので、何かやらせてください」と提案したのが、「シネマ放談の会」である。
映画を鑑賞した後、そのまま客席に残り、いま観たばかりの映画の感想を自由に語り合う。司会は僕。追加料金はなし。放談なので、褒めてもよし、けなしてもよし。月に一回程度、面白そうな映画を選んで、とにかくみんなで「ぶっちゃけトーク」をしようという企画である。
ニューヨークに住んでいたころ、映画仲間5、6人と一緒に映画を観た後で、食事をしながら語り合うのが、とても楽しかった。傑作を観た後、それがどれだけ素晴らしい作品だったのか熱弁するのも楽しかったが、駄作をこき下ろすのはもっと楽しかったような気がする。ああいう会を映画館でやってしまったら面白いのではないかと、大胆にも思ったのである。
その記念すべき第一回は、4月7日、ジュスティーヌ・トリエ監督『落下の解剖学』を“肴”に選んだ。カンヌ国際映画祭で最高賞を獲得し、米アカデミー賞脚本賞も受賞した話題作である。
参加者は約40人。感想を聞くとっかかりを作るため、鑑賞直後に皆さんに最高五つ星で点をつけてもらった。すると、相当優れた映画だと思ったのに、案外「三つ星」をつける人が多くてびっくりした。五つ星は二人だけ。そこから五つ星つけた少数派と三つ星つけた人の意見の応酬が始まり、とてもスリリングな議論になった。
第2回は5月3日、濱口竜介監督『悪は存在しない』。こちらもベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した、注目度の高い作品である。
ゴールデンウィークにぶつけたところ、約100席の会場がほぼ満席の大盛況。やはり最初に星をつけてもらったところ、少数の二、かなり多くの三、たぶん一番多かったのが四、そして結構多い五という皆さんの評価だった。発言者の中には「私的には八つ星」という絶賛派や、「一か五だと思ったけど、一では失礼なので五にした」という、謎だけど何となくわかるような気もする回答もあった。前回もそうだったが、今回もラストの解釈と評価で議論が白熱した。
2回の放談をしてみて、改めて思った。
やはり私たちは、映画を観た後に誰かと語り合いたくなるものなのだ。
日本の観客は、大人しくてなかなか発言しないという印象があったが、とんでもない。皆さん、情熱的に手を上げて、我も我もと発言してくれた。そしてその発言が他の参加者を刺激し、どんどん加熱していく。
2回とも、気がつけば1時間くらい話し込んでいた。
その過程で心底驚き感動したのは、皆さんの解釈や感じ方、評価の多様さである。僕は普段から「映画の見方は人それぞれ」と申し上げているが、正直、あれほどとは思わなかった。そして様々な解釈やアイデアに触れるたびに、自分の映画の見方も豊かになっていく。人が物理的に集まって映画を観ることの意義を、再確認できたように思う。
「放談の会」の常連さんが生まれ、横のつながりもできて、みんなでシネマ・クレールを盛り立てていけたらいいなあ。また、シネマ・クレールだけでなく、全国のアートハウスで同じような企画をしてくれたらいいのになあ。
どうでしょう、皆さんの街の映画館でも、やってみては?
絶対、楽しいです。