第83回:「読む」という行為──点字絵本との出会いから(渡辺一枝)

 目が不自由な人たちのために、点字本というものがあることは知っていた。「日本点字図書館」から、これまでに幾度か、拙著の点字訳についての諾否の問い合わせがあった。その度に「喜んで」と答えを返していた。「点字」も、また聴覚に不自由がある人の「手話」も、それぞれ言語体系の一つだと思っている。だから、英語を習うように「点字」や「手話」を覚えたら、私の世界はもっと広がるのではないかとも思っていた。思っていながら学ぶ機会もなく過ぎている。そればかりか私は、実際に点字本に触れたこともなかった。そして点字は表音文字だろうから、表意文字である日本語を、どのように訳すのだろうと思っていながら、それを知ろうとはして来なかった。
 それが、視覚障害者の木川友江さんと友人になったことで、点訳について知ることができた。

「たぁくらたぁ」の連載記事

 木川さんは【信州発】産直泥付きマガジン『たぁくらたぁ』の連載記事執筆者の一人だ。「ありのままを、思いのままに」のタイトルで57号(2022年夏発行)から連載記事を書いている。その第1回は「目が見えなくても一般企業で働きたい!」と題して、木川さんの生育歴が綴られていた。
 網膜色素変性症という病気で、生まれた時から目が不自由だった木川さんは、盲学校卒業後に職業リハビリテーションセンターで電話交換手になるための訓練を受けた。訓練期間が過ぎて就職活動を始めたが「差別」という就職難にぶつかる。手足に不自由があってもすぐに就職先が決まる同期生の中で、全盲の木川さんは履歴書さえ受け取ってもらえないことがほとんどで、運良く面接まで漕ぎ着けても数日後には不採用の通知が届いた。だが、就職活動を始めて22社目で、丸井津田沼店に就職することができた。木川さんが22歳の冬のことだ。訓練の見学をした(株)丸井の人事部長が「全盲であっても仕事ができる」ことに理解を示して採用されたのだった。
 4年半後に郷里の長野市に戻ることを決めて退職する日のことだ。「あなたが入社してきた時、忙しいのに障害者の面倒など見られないと思ったけれど、いつの間にかあなたは、交換室にいなくては困る存在になっていた。あなたなら、どこに行っても大丈夫」と、先輩が言ってくれたそうだ。そして、現在は東京で「ロゴス点字図書館」の職員として働いていることが書かれ、「誰もが安心して『ありのまま』で生きられる社会が実現するために、私の小さな連載が、お役に立てれば嬉しい」と結ばれていた。
 『たぁくらたぁ』で目の不自由な人が執筆者になったのは、それが初めてではなかった。38号から45号まで、盲導犬ジャスミンと共に暮らす広沢里枝子さんが「ジャスミン、明日に向かって歩こう」を連載している。2015年夏に『たぁくらたぁ』の編集委員の戸崎公恵さんが広沢さんと一緒に3・11から5年目の南相馬を訪問し、2人が盲導犬と共に福島を訪ねた記事が37号には載り、その翌号から広沢さんの連載が始まり、広沢さんの連載が終わって少し間を置いて木川さんの連載が始まったのだった。

編集委員の戸崎公恵さん

 『たぁくらたぁ』の編集委員を務める戸崎さんは点訳をライフワークとしていて、長野市が発行する「広報ながの」の点字版を手掛け、市内の高校で非常勤講師として福祉の授業を受け持っている。授業では点訳の知識を教えるだけではなく、実際に視覚障害者が利用するもの、例えば食堂のメニューやバスの時刻表、カラオケの歌詞カード、子どもに読んであげたい絵本などなどを作ったりもしているという。また仕事柄福祉関係の知人や障害のある友人が多いので、その人たちの講演も授業に組み入れている。広沢さんも木川さんも、戸崎さんの授業の中で生徒たちに話をしたことがあるそうだ。
 ある日の戸崎さんの授業で、飲食店の点字メニューを作った時のことだった。点字メニューを用意している店も稀にあるが、視覚障害者と同席しなければ出てこないから、存在はほとんど知られていない。そのときは、知人からの声掛けで、市内の喫茶店の点字メニューを作った。
 その店が普段使っているメニューをラミネート加工して、点字用の特殊な透明シールに点字を打って貼れば、障害の有無にかかわらず同じメニューを共有できる。だがシールは紙と違って厚みと粘着力があるから、点字を一点一点打ち込むのにコツが要る。シールは1枚が高額な上、直しが利かない。さらに、無事に打ち終えても貼り付ける時に空気が入ってはまずいので、生徒たちは緊張の連続だった。
 しかし初めてとは思えないほど器用にメニューを仕上げた生徒がいて、戸崎さんは「素晴らしいね。文節分かちも完璧で、国語が得意なんだね」と誉めて担任に報告すると、それは担任から見ると「箸にも棒にもかからない」生徒だったという。後に生徒から渡された手紙には「誉められるのが苦手です。今まで誉められたことがないから、どうしたらいいかわからない」と書かれていた。
 仕上げたメニューを生徒たちと一緒に喫茶店に届けると、地元の広報誌記者や新聞、テレビのメディアが取材に集まっていて、記者の一人が「人の役に立ててやり甲斐があったのではないか」と生徒たちに感想を尋ねた。「う〜ん、それもあるけど、このメニューを目の見える人も見えない人も一緒に使うのが、普通になればいいな」と答えたのは、あの生徒だったという。

「ありのままを、思いのままに」

 さて、『たぁくらたぁ』57号から始まった木川さんの連載はまさしく「ありのままを、思いのままに」というタイトル通りで、ありのままに思いのままに生きようとする木川さんの日常が描かれていた。
 大手銀行で口座を開こうとした時のことだ。全盲の木川さんは口座を作る際の書類は、自筆で書けないから代筆してもらう必要がある。対応した行員は「お口座を作っていただく時の代筆は、私どもではお受けしかねます。ご家族とご一緒にご来店を」と丁寧な口調で言った。夫も目が不自由だし両親は高齢で代筆を頼めないと説明しても埒があかず、「障害者の世話は家族がするものだという古い考え方を変えたくなかったのだろう」と思えた。
 さらに、上司の男性行員が出てきての交渉は平行線を辿るばかりで疲れがピークに達した時に、思わず木川さんは言った。「書類には暗証番号を書く欄もありましたが、あなたは家族に自分の暗証番号を教えることができるのですか」。一瞬の沈黙の後で、男性行員が「ご事情はわかりました。わたくしが代筆いたします」といった。結局、口座を開設するのに2時間以上もかかったという。
 2000年11月に「交通バリアフリー法」が施行されると、木川さんが利用する駅では、通勤時間帯には駅員が乗り換えを手伝ってくれるようになった。だが無人駅が増え今後もそれは増えていくだろうと考えれば、乗降時に介助が必要な場合には事前予約が必要になる、万が一の転落事故に対応できないなど、問題は多々ある。そして、自然災害や人身事故などによるダイヤの乱れがあると、駅係員はその対応に追われて視覚障害者の誘導どころではなくなる。そんな時に、一般の乗降客に助けられたことが何度もあったという。
 たとえば、木川さんが通勤で使っている電車が人身事故で運転見合わせとなり、降りたことのない駅で別の電車への乗り換えを余儀なくされた時、声をかけてくれた人がいた。事情を話すと、「ご一緒しましょう」と言って白杖を持っていない左側に自然に立って右腕を貸して、乗り換え改札まで誘導してくれたという。一人では辿り着けなかったと精一杯のお礼を言う木川さんに、男性の声が返った。「そんなに喜んでいただけるなんて嬉しいです。電車は遅れたけど、僕にとって今日はとても良い日です」。
 また、子どもの頃、お母さんがケーキを焼いてくれると言う友達が羨ましくてならなかった木川さんは、自分でケーキを焼けるようになりたいと思っていた。高等部普通科に進学した時の担任、S先生は大学を卒業したての家庭科教師だった。S先生は木川さんの夢を丁寧に受け止め、お菓子作りやたくさんの料理を教えてくれた。シュークリームのシュー生地を混ぜる時には「もったりして重たくなってきたのが、木べらから伝わるわね」などと、視覚以外の感覚を使うことで、見えなくてもできる方法を一緒に考えてくれた。S先生のお陰でお菓子作りをきっかけに日常の食事作りも楽しく習得していった。
 お菓子作りからパン作りへと興味は広がり、パン教室に通い始めたが、ここの先生は目が見えない木川さんを守ろうと緊張していて、「天板はすごく熱いから近づかないように」と言われたりするし、木川さんものびのびと楽しむことができなかった。だがある日、Iさんという人が発酵調味料を生かした料理教室を開くことを知り、マンツーマンでの料理教室を開いてもらえないか問い合わせ、受け入れてもらえた。塩麹を作り、契約農家の畑の野菜を自分で収穫し、畑に隣接されたキッチンでIさんの指導を受けながら料理する。塩麹作りも野菜の収穫も初体験だったが、Iさんは目から入る情報を的確に伝え、料理手順を言葉で説明してくれた。
 木川さんは野菜などを切るときには、包丁スレスレに左手を添えて食材の大きさを測る。炒め物をするときには、右手で持った菜箸で野菜を混ぜながら、左手は野菜が外にこぼれないように鍋の中で熱くなった食材ぎりぎりにかざす。作業中にずれないようにと、火のついたガス台の五徳や鍋の位置をこまめに触って確認する。そんな木川さんの様子を、Iさんは「危ない」と止めずに静かに見守る。こうして、木川さんの希望を入れてIさんが考えてくれた6回コースの料理教室に通った。
 連載記事5回目では、義母を看取り葬儀を終えるまでを書いている。葬儀場の担当者から通夜から葬儀までの予定について説明を受けたとき、その担当者は目の不自由な木川さん夫婦に戸惑うこともなく、今後の連絡は木川さんに、と伝えるとすぐに承知してくれた。その対応が嬉しくて、夜は夫と二人で深夜まで語り合った。夫は「通夜とか葬式とかでは、一番使いものにならねぇのは、目の見えない俺たちだよな。俺は石か? でも、いいんだ。みんなと一緒にそこにいることに意味がある」と言った。目が不自由だと初めての場所では、一人ではトイレにも行けない。だから二人で話し合って決めたのは、葬儀が終わるまで、できることはなんでもしようということだった。お寺や親戚への連絡、ヘルパーさんに代筆を依頼して当日必要な支払いの準備など、忙しく動いた。
 葬儀の当日は葬儀場スタッフの視覚を補う適切なサポートによって、木川さん夫婦は「役に立たない石」ではなく、木川家の長男夫婦として義母を見送った。葬儀を終えた夜、夫は大好きなビールを飲みながら、寂しさを滲ませて言った。「葬式じゃあ、見えない俺なんかクソの役にも立たねえと思っていたけど、お袋をちゃんと送ってやれたなあ」。

連載記事が載る雑誌を、丸ごと読みたい!

 木川さんが『たぁくらたぁ』に連載を始めたのは戸崎さんからの声掛けだったが、木川さんの心を動かしたのはこの雑誌のタイトルの語源だったそうだ。
 「たぁくらたぁ」とは、信州の方言で「馬鹿者」とか「おっちょこちょい」といった意味だ。畑のスイカを盗もうとしたら、畑の持ち主に「この、たぁくらたぁが…!どうせ持ってくなら、そんなまずいスイカじゃなくて、こっちの美味いやつを持っていけ!」と言われた…という、初代編集長が子どもだった頃の思い出話から、雑誌のタイトルが決まったのだが、木川さんはこの話に感動して、それまで一文字も読んだことがなかった雑誌が好きになり、連載を引き受けたのだという。
 編集委員の戸崎さんは、連載が始まった『たぁくらたぁ』57号のすべての記事原稿のワードデータを木川さんに送った。それで、木川さんは発売とほぼ同時に、パソコンのスクリーンリーダーでそれを読むことができた。木川さんはその時の感動をFacebookにこう投稿した。
 「私がこれまで知らずにきてしまった、社会の中の大切な問題が、それぞれの筆者の視点で丁寧に描かれている。自然の恵み、人や物の命を愛おしみながら生き生きと生活している素敵な人たちに出会うこともできる。知るべきことを知らないまま来てしまった自分を恥じる涙、素敵な生き方に感動する涙…。いろいろな涙を流しながら目次を見ると、ちょうど半分ほど読み終えた頃だろうか…」
 そして木川さんは、視覚障害者の誰もが気楽にこの雑誌を読めるようになったら、どんなに素晴らしいだろうと思うようになった。自分が勤めるロゴス点字図書館には、利用者が希望する活字資料を点訳または音訳して提供する「プライベートサービス」があるから、利用者からの依頼があれば『たぁくらたぁ』の点訳ができると考えた。そしてロゴスの利用者で自分より前に連載記事を書いていた広沢さんを思い浮かべ、雑誌の点訳という自分の夢を伝えた。広沢さんは声を弾ませて答えたという。
 「2年間執筆させてもらったけれど、(雑誌一冊を)通しで読んだことはなかった。友ちゃん(木川さん)の連載が始まった57号からぜひ読んでみたいから、ロゴスさんにプライベート点訳をお願いします」。
 かくして『たぁくらたぁ』57号の点訳はロゴスのプライベートサービスに依頼され、ロゴス所属の「グループうさぎ」によって、昨年10月末にいよいよ57号の点訳がスタートした。
 戸崎さんが、その経緯について木川さんが書いた文章「生の魅力を多くの人に伝えたい〜『たぁくらたぁ』点字版への夢〜」を編集委員たちに転送してくれたのは今年の1月末のことだった。以下、そこから転載する。


点字編集システム
 現在の点訳のほとんどは、点字編集システムというソフトを利用してパソコンで行われている。全国の点字図書館で制作された点訳・音訳資料のほとんどは「サピエ図書館」というインターネット上の点字図書館に所蔵されている。現在「サピエ図書館」で検索できる資料の数は、ダウンロードできる資料や各施設で所蔵している資料も含めると約80万タイトル以上に及ぶ。
 ここにアップロードされれば広沢さんだけでなく、全国の視覚障害者に『たぁくらたぁ』と出会うチャンスを届けられる。インターネットのおかげで、これまで点字用紙に一点一点点字を打ち込んで手書きで図書を制作していた時代に比べると、視覚障害者が読める書籍や資料は比較にならないほど増えた。
 点字は縦3点横2列の6個の点の組み合わせでできている。この6点を1マスとして、2マス3マスと組み合わせることにより、アルファベット・数字・楽譜など、あらゆる文字や記号を表現できるが、点字ならではの制限も多い。点訳は点字の特性に向き合い、さまざまな工夫や配慮を重ねて原本の情報を読者に伝える。だから、まず作業を始める前に点訳者に原本の下読みをしてもらった上で、点訳方針を決める。
 『たぁくらたぁ』点訳にあたっては、点訳の伴奏者である私は、原本を読むことができない。しかも先天的に全盲なので、活字で書かれた印刷物を目で見た経験がない。原本には見出しの種類がいくつあるのか、写真があるのか、それがキャプション付きかどうか、表やグラフはあるのかなど、たくさんの質問を重ねて原本の情報を得ながら点訳方針を決めていった。

点訳の難しさ
 点字は表音文字であり、仮名だけで書かれているから、漢字の読み方を文脈に合わせて決めなければならない。「最中」を「サイチュウ」と読むか「サナカ」と読むのかなど文脈から適切に考えなければならないし、ルビのない固有名詞も正しく点訳する必要がある。
 活字のように文字の大きさや字体を自由に変えることができないから、読者に見出しの大きさの違いを伝えるためには書き出し位置を変えたり、必要に応じてその見出しを括弧類などの記号で囲む。文章を理解する上で、原本での文字の大きさや字体の変化を伝える必要があると判断すれば、点字独自の囲み記事を使用して表現する。
 章立てがきちんとしていて見出しのレイアウトも整っている書籍に比べて、雑誌や広報誌は字体やレイアウトが自由で一定しておらず、点訳が最も難しいものの一つだ。57号では「〈特集〉非戦・不戦・反戦」という見出しが一番大きくて目立つ。目からの情報だけを頼りにしてしまうと、ほとんどの見出しがこの大きな見出しに含まれてしまう。しかし雑誌の構成上は、「巻頭言」、「〈特集〉非戦・不戦・反戦」、「〈新連載〉核時代を終わらせるための表現」など、いくつかの見出しが台頭に並ぶ。それだけで独立した見出しもあれば、中に幾つかの小見出しを含むものもある。視覚的情報から離れて、原本の構成をしっかり理解することも、質の高い点訳をするために欠かせない。

57号点訳の苦労
 57号には4コマ漫画があるが、これは「選挙活劇ドタバタ民主主義」という2ページの連載記事で、最初のページは手書きの文章で次のページが4コマ漫画となっている。絵を点図で表現する方法もあるが、漫画のような複雑な絵を点図で表現するのは難しい。そこで、絵に添えられた文字を点訳し、適宜点訳者が説明を補うことで漫画を表現するという方法をとった。
 書かれた言葉を順番に点字にしただけでは。漫画の意図が理解できない。補う説明にも工夫が必要だ。試験的に点訳してもらった点字データを見ながら、絵の様子や添えられている文字の位置など、点訳者に細々とした質問を重ねる。そうして書き取った情報を参考に、一つのストーリーとして理解できるように文字を組み立てていく。
 点訳者と伴走者、どちらにとっても大変な根気のいる作業だ。

57号点字版誕生

 昨年10月末に点訳を開始して、今年1月末に点訳の第一校正済みデータが木川さんに届いた。そのデータを点字プリンタでプリントアウトして、木川さんが素読みで通読するのが2度目の校正で、これを終えると点訳・校正作業はほぼ終了。その後別のボランティアグループによって「サピエ図書館」にアップロードするためのデータチェックが行われた。
 こうして点訳開始から5ヶ月後の3月17日、とうとう『たぁくらたぁ』57号点字版が完成したのだという。
 完成日当日、木川さんは「『たぁくらたぁ』を初めて一冊通して読むことができました。その内容の深さに、改めて感動しました」と、依頼者の広沢さんと作業に協力した『たぁくらたぁ』編集委員の戸崎さんへ完成データを送ったという。「『たぁくらたぁ』57号完成ありがとうございました。本誌を視覚障害の方たちにも読んでいただきたいと願いながら2004年4月創刊から19年目にして念願叶い、感無量です。完成までに携わっていただいた全ての方達に、心より感謝いたします」と、戸崎さんは返信した。

立春の日に

 『たぁくらたぁ』を墨字から点字へという木川さんの熱い思いが綴られた「生の魅力を多くの人に伝えたい〜『たぁくらたぁ』点字版への夢〜」を、私は戸崎さんが投稿してくれたメーリングリストで読んだ。戸崎さんからのメールの末尾には、「2月4日のイベントに木川さんも東京から参加します」と書いてあった。
 そのイベントというのは2月1日〜3月17日の会期で、長野市内のギャラリー「マゼコゼ」が主催する「渡辺一枝とたぁくらたぁな仲間たち展」という催しで、2月4日と3月16日にはトークイベントも予定されていた。美術家で、「マゼコゼ」代表の小池雅久さんが企画したものだ。私を「俎板の上の鯉」にして「たぁくらたぁとはなんぞや」を解き明かしたいということだろうと思った。私は自分が「たぁくらたぁ」な人間だと自覚しているので、小池さんの意図はよくわからないまま、俎板の上に載った。
 このイベントは決して渡辺一枝展ではないのだが、俎板の上の鯉の私の年表や諸々の私物がギャラリーに展示された。2月4日のトークイベントは「ほんとうの声を届ける〜アートだからこそできる伝承」と題して、小池さんを中にして「おれたちの伝承館」館長の中筋純さんと私の対談だった。
 ギャラリー1階のブックカフェには二十数人が集い、見知った顔もあったが、半数ほどは初めて会う人で、戸崎さんと一緒に居るのが木川さんだった。トークイベントが終わって、木川さんと手を握り合いながら「初めまして」と挨拶を交わした。けれども57号から61号までの木川さんが書いた記事でその人となりを知っていた私には、初対面という感じはまったくしなかった。木川さんもまるで以前からの知己のように、「今度メールで連絡しますね」と言った。

「こぶたがずんずん」

 それから2週間ほど経った頃、木川さんから嬉しいメールが届いた。立春の日のトークイベントの後で、2階のギャラリー展示室に並んで置かれた拙著の中から、戸崎さんが絵本『こぶたがずんずん』を音読してくれたと書いてあった。これは私がまだ結婚前の20代になったばかりの頃に「怖いもの知らずのこぶたのお話です」と題して書いたものだ。書き溜めていた短い文章集を読んだあすなろ書房の編集者が、「これをぜひ絵本に」と言って、長新太さんの絵で1988年に出版された。元の文章を全てひらがなにして、大好きな長新太さんの絵でこぶたが躍動する嬉しい絵本になったのだった。
 木川さんからのメールには、「このこぶたは、私のことです」と書いてあった。そして絵本のこぶたがすっかり気に入った木川さんは、耳から聞くのではなく点字で読みたいと思い、点字シールを貼った『こぶたがずんずん』を取り寄せて、自身で点字で読んでもくれたという。
 いま思うと、子どもの頃いつも、母や学校の先生から「わがままだ、無鉄砲だ、協調性がない」と言われていて、そんな評価に不満で「だって私は私で居たいだけなんだもん」と思っていた私が、大人の仲間入りをした頃に、子ども時代の不満を解き放したくてこの話を書いたように思える。だから、私自身がこぶただった。でも、木川さんから「このこぶたは、私のことです」と書いたメールをもらって、「ああ、本当。木川さんはこのこぶたのようだ」と思ったのだった。

「こぶたがずんずん」

まったくこぶたというのは騒々しくって、それに怖いもの知らずなんです。
もしかしたら、珍しがり屋なのかもしれません。
大きな牛が草を食べているところへ、向こうからこぶたがやってきました。
こぶたは、どうすると思いますか?
もちろん牛は知らん顔して、草を食べています。
だのにこぶたは、回り道をしようとしないのです。ずんずんずんと進んで行きます。
ぶほぅぶほぅ どいてくれよ ぶほぅ
牛は牛で、ふん、たかがこぶたなんぞと、今度は寝そべってしまうのです。
そうして大きなあくびをするのです。
大きな牛を目に前にしたら、ちっぽけなこぶたは逃げ出すに違いありませんから。
けれどもいったい、どうしたのでしょう!
こぶたはまるで、まっすぐ前しか見てないようにずんずんずん、牛に向かって進んで行きます。
そうして、こうなのです。
悠々と寝そべっている牛の脇腹を鼻で押しながら
こぶたなりゃこそ、やっこらやのさ。どいてくれどいてくれ、おっとっとのと。ぶほぅぶほぅ。
これには、さすがの牛も参ります。
しょうがないやつだなぁと、重たい体をよっこらしょっと持ち上げると、こぶたは大きな牛のお腹の下を、堂々と歩いて行くのです。
そうして牛は、なんだかそんなこぶたが、おかしくなってきてしまうのです。
こぶたなりゃこそ、やっこらやのさ。どいてくれどいてくれ、おっとっとのと。ぶほぅぶほぅ。
そんなしてこぶたは牛だけでなくトラクターもキャタピラも押し退けて、ずんずんずんと行くのです。
だのに、ちっとも憎まれたりしないんです。まったくこぶたは、とくですね。
こぶたの鼻を見ていれば、誰だって墨を縫って逆立ちさせてみたいと思うでしょう?
こぶただってやっぱり、自分の鼻に墨を塗って逆立ちしてみたいと思うのです。もしかすると、そんなことを一番喜ぶのは、こぶたかもしれませんね。
怖いものなし、こぶたのお話です。
これで、おしまいです。

「てんやく絵本」

 木川さんからメールを受け取った後のことだった。購読誌の『暮しの手帖』に、「てんやく絵本」についての記事が載っていた。
 大阪市のオフィスビルの一室に「てんやく絵本ふれあい文庫」という図書館があるという。子ども時代に絵本を楽しんだことがなかった視覚障害者の岩田美津子さんは、我が子が「読んで」と絵本を持ってきたときに、絵本は親が読んでやるものだと思い、絵の内容と本文を丸暗記して、読み聞かせていた。しかし、それでは肝心の絵が岩田さんにはわからない。「見えない人のための絵本がないなら、作ろう」と思い立った。裏面に接着剤が付いた塩化ビニール製の透明シートを絵に合わせて切り抜いて貼れば、「絵に触れる」ことができると思った。知人の協力を得て作ったら、息子の勝志さんは添えられた点字に触って「お母ちゃんの字がついてる!」と大喜び。こうして見える人も見えない人も楽しめる「てんやく絵本」が生まれたという。次男の芳文さんが物心つく頃には、「てんやく絵本」の蔵書は100冊にもなっていたそうだ。そして岩田さんは1984年に、希望する人にてんやく絵本を貸し出す家庭文庫を始めたのだという。
 この記事は、このタイミングで読めたことと合わせて私の内に深く刻まれた。

B5版の版形で3センチの厚さが2冊!

 木川さんとメールのやり取りをして3週間ほど過ぎ、「マゼコゼ」での「渡辺一枝とたぁくらたぁな仲間たち展」での2度目のトークイベントの日になった。「語り継ぐ〜大熊から未来へ〜」と題して、大熊未来塾の木村紀夫さんと私が小池さんを交えて話し合う。この日も木川さんは戸崎さんと一緒に来てくれた。私たちは「こぶた」の話で盛り上がった。
 トークの最後で戸崎さんが、木川さんの骨折りで『たぁくらたぁ』57号の点字版ができたことを紹介し、木川さんが点字版をバッグから出してテーブルに置いた。B5版で3センチもある真白い本が2冊! 参加者に順繰りに手渡された。私のところに回ってきて持ってみたら、なんと重たいこと! 元の本誌はA5版で5ミリあるかないかの厚みで、小さなポシェットに入るくらいの薄い雑誌だ。点字版が生まれるまでの過程を、木川さんの文章で読んではいたけれど、実物を手にして改めてその作業の大変さに思いを馳せ、感動と深い感謝を覚えたのだった。宝物のように思えた点字版の『たぁくらたぁ』だった。
 真白い点字版を開いて手で触れるが、私には読めない。読めないばかりか真白い紙が、少し目に痛い。点字用の用紙は白ばかりなのかと、戸崎さんに聞いてみた。薄い緑など色のついた紙もあるが、白い紙より割高だという。そもそも点字用の用紙そのものが、一般紙に比べて割高なのだともいう。
 そんなことも知らない私だった。知るべきことを知らないまま来てしまったことを悔い、木川さんと知り合えたことで、目の見えない人の生き方や思い方に触れ、これまでよりも私の世界は少し広がったように思った。そして、もっと広く深い世界を、持ちたいと思っている。木川さんには、「読む」という行為は目で読み流すのではなく、大事に丁寧に向き合うべきことなのだと教えられたようにも思った。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。