第309回:散歩と短歌と(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 このコラムは、だいたい月曜日と火曜日に書いている。書き上げたら、遅くとも火曜日の午後には「マガ9」編集部へ送る。
 そして、水曜日の午後に公開。そんなスケジュールである。

 土日の休日は、天気さえ許せば、そして何か仕事や用事がなければ、散歩に出かける。ただし第4土曜日は、ぼくが「デモクラシータイムス・ウィークエンドニュース」の司会の日だから、その準備の資料作りなどで散歩は中止だ。でも翌日の日曜日には、たいてい散歩。家の近所や、ちょっと足を延ばして大きな公園などに行くこともある。
 いつもは、散歩しながらコラムのテーマを考えている。
 その日の朝に読んだ新聞記事の見出しや、ニュース番組のアナウンサーの言葉などを思い出しながら歩いていれば、なんとなくその週のコラムのテーマが浮かぶ。デモクラシータイムスで話題になった出来事を思い出すこともあるし、街角のポスターや選挙間近なら選挙カーの騒音にだって刺激される日もある。

 だけど、最近はあまりひらめかない。何を見ても、なんにも浮かばないのだ。
 世の中の動きに鈍くなってきているようだ。年齢のせいかもしれない、と歩きながら苦笑している。
 なにしろ、ちっともいいことのない世の中である。殺伐とした出来事ばかり。だから、頭が考えることを拒否しているみたいなのだ。
 その代わり、妙に歌が浮かぶ。短歌である。言葉遊びというか歌作りというか、下手な短歌をひねくり回しながら歩いているのだ。むかし、ちょっとだけ短歌に興味をひかれた時期があった。その思い出が甦ったか?
 だから、今週は世相に関わる文章じゃなくて、散歩途中に頭に浮かんだ下手な短歌をあげてみようと思う。笑ってやってください…。

天国はあるのだろうか 老人の呟きひとつ 避難所の夜
(能登の被災地、避難所の切ない光景のニュース動画、それを見ていたら老人がふとそんなことを言っていた…)

天国と地獄を分かつ道あれば ぼくはどちらへ連れ行かれるか
(避難所の老人の呟きの連想…)

昏(くら)い夜の 散歩の奥の水の音 ああ ぼくはまだ生きているんだ
(夜の散歩、ふと迷い込んだ道、小川の水音が聞こえてきた)

おまえでも いずれ死ぬ身の影法師 おれと一緒じゃいやというのか
(散歩しながら、自分の影に語り掛けている…)

空見上げ おおい雲いわき平はどっちかと ふと独り言 それがさみしい
(雲を見ていたら、山村暮鳥の詩が浮かんだ)

読みかけて 投げ出した本累々と まるで恨みの墓石のよう
(「積ん読」ではなく、最近は「半読み」で投げ出す本の多さよ)

書きかけの文章つまらん 削除キイ 押す指先の根気の無さよ
(これも高齢者の実感、文を書くのも根気のいることだと…)

長い夜 ベッドの上で寝返って 眠っているのか醒めているのか
(高齢者になると、ほんとうに眠りが浅くなって…)

おれ行かない お前の葬式出たくない おれの葬式お前は来ない
(そうだよな、おまえが先に逝ったら、おれの葬式には来られないもの)

2時3時4時5時6時 疾(と)く過ぎよ きみ待つ午後の長き残酷
(こんな灼けつくような若い日もあったんだ、古いノートから)

「くそおんな」古いノートの片隅の「おんな」は誰のことだったろう?
(思い出すような、忘れてしまったような…)

マスクして帽子を被りサングラス 電車の中の妙な沈黙
(ああ、現在)

放光院翠翁道貫居士という それが親父の戒名である
(亡父は病院のx線技師であった)

墓などはいらぬと言いつつ戒名を考えているぼくはアホです
(でも、親父の戒名は気に入っているんだ)

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。