第680回:コロナ禍、冷酷だった小池都政を振り返る。の巻(雨宮処凛)

 7月7日に投開票の東京都知事選に、蓮舫氏が立候補を表明した。

 表明の5日後に蓮舫氏が訪れたのは、東京都庁の下で毎週土曜日に開催されている食品配布だった。

 この連載でもよく触れている食品配布。コロナ前は近隣の野宿男性50〜60人が並んでいたのだが、コロナ禍で並ぶ人はどんどん増加。そこに物価高騰も重なり、今年の5月24日には過去最多の800人が並ぶなど、この国の困窮を象徴する場となっている。行列には子どもを連れた女性や若者など、コロナ前には決して見かけなかった層も目立つ。蓮舫氏が訪れた6月1日には、実に773人が並んだという。

 Twitter(現X)に表示された、「もやい」の大西連氏に話を聞く蓮舫氏の姿を見て、久々にほっと一息つきたくなるような安堵感に包まれた。そんな気持ちになって、自分自身がこの数年間、いろんな感情を押し殺していたことに初めて気づいた。

 どんな感情かと言えば、「どうせ小池都政に何を言ったって変わらない」「何を言ってもやっても無駄」というような思い。そんな感情から、もしかしたらやっと解放されるのかもしれない一一。蓮舫氏の立候補という知らせを前に、押し殺していた感情が私の中で動き出す感覚に包まれた。

 振り返れば、小池都政は困窮者にことごとく冷たかった。コロナ禍の最中もだ。

 例えば2020年11月、東京都は、この都庁下の食品配布に対する「嫌がらせ」をしている。

 コロナ禍で行列に並ぶ人が増え、200人近くになってきた頃のことだ。食品を受け取る人々が並ぶ場所に、東京都は三角コーン約20個を並べるという形で妨害したのだ。この行為は5週間連続で続き、6週間目にやっと終わったものの、今も思い出すと怒りを禁じ得ない。

 なぜなら、民間の支援団体による困窮者支援を、都は感謝こそすれ妨害するなど言語道断だと思うからだ。毎週土曜日、都庁のお膝元に食べ物を求めて大勢が集まることに対し、都としてできることはないかと考えるのが真っ当な感覚ではないだろうか?

 この妨害に小池都知事がどう関わっていたのか、私には知る由がない。しかし、今も多くの人が並んでいるということを知らないわけはないだろう。食べ物にも事欠く人々にどう手を差し伸べるかは行政の長の器が試されるところだが、小池都知事は無視し続けてきた。そして今もその姿勢は変わっていない。もし、このようなことに心を痛めるトップだったら、きっと状況は変わっていただろう。なぜなら、トップが一言いえば、ものごとはあっという間に動くということを私たちは嫌というほど知っているからだ。

 冷たさを感じたのはそれだけではない。

 例えば私はコロナ禍、東京都に何度も申し入れをし、要請書を渡している。コロナ禍で困窮者支援をする一人として、「新型コロナ災害緊急アクション」や他の団体と連名で何度も都庁を訪れたのだ。

 ざっと思い出すだけで、20年4月、5月、21年3月、21年9月、22年12月。

 それでは、どのような内容の申し入れをしてきたのか。

 まずはコロナ禍初期、困窮者やホームレス状態の人が増えていること/さらに増えることが予想されたので対策を要請した。

 特に感染が拡大し始めた20年3月頃にはコンサートやイベントの中止なども相次ぎ、「密」を避けるため出歩く人も激減。それに伴って日雇いの仕事もどっと減り、ネットカフェの料金が払えず路上に出てくる人が相次いだ。ちなみに東京都が18年に発表した調査結果によると、都内には1日あたり4000人のネットカフェ生活者がいるとのこと。コロナ前にそれほどの人が住まいがないことがわかっていたのに放置され、結果、コロナ禍で大量ホームレス化という事態が起きていたのである。

 ここで大きな問題が発生した。

 住まいのない状態で生活保護を申請すると、多くの場合、「無料低額宿泊所」という施設に案内される。しばらくそこに滞在しながらアパートを探すことになるのだが(中には何ヶ月、何年もそこから出られないケースもある)、施設の多くは相部屋。中には10人、20人部屋なんてものもある。「3密」が思い切り揃ったような場で、当然感染リスクが非常に高いわけだが東京都はなんの対策もせず、相部屋に入れるままにしていた。

 この頃、路上に出てしまった人からは「生活保護を受けたいけれど、相部屋の施設が怖くて申請できない」という声を何度か聞いた。

 ちなみに同時期、ロンドン市長はホームレス状態の人々のためにホテルを300室開放。パリやカリフォルニアでも同様の措置がとられていた。また、ドイツでは同じ頃、コロナ禍で失業して家賃が払えなくなった人を、大家さんは最大2年間追い出してはいけないというルールができていた。が、都としての住まいに対する対策は遅々として進まない。

 このような状況を受け、住まいをなくした人のため、個室のホテルや公共施設の確保を要請し、積極的に生活保護や既存制度につなげることなどを申し入れたのだ。20年4月はじめ。これがコロナ禍で最初の要請だった。

 結局どうなったかといえば、その数日後、緊急事態宣言が発令。住まいを失った人たちにホテルが提供されることになった。この措置を受けてホテルに入ったのは800人以上(これは運良く支援につながれた人たちで、氷山の一角だと思う)。ほっと胸を撫で下ろしたのだが、すぐにまた諸々の問題が発覚した。

 ホテルに入れたのはいいけれど、生活保護や既存の制度につなげるなどがなされないだけでなく、所持金の確認などもされないまま、「入れっぱなし」で放置されているような状況の人が多かったのだ。

 1日3食弁当は出るものの、所持金数十円という人もいる。そうなると、とても職探しなどできずにこれから先への不安が募るわけだが、聞き取りも何もされていない。

 また、緊急事態宣言の延長とともにホテル滞在も随時延長されていたのだが、それを知らされずにホテルを出され、路上に追いやられる人も出てくるという始末。

 このような状況に対して20年5月、再び東京都に申し入れ。

 その際、支援団体側で相談会をするのでチラシをホテルに入っている人に配布してほしいと頼んだものの、それも叶わなかった。チラシを配布してくれれば、相談会に来た人を生活保護や既存制度につなげるなどこちら側ができるのに、である。

 さて、コロナ禍ではそれとは別に「いいこと」もあった。

 先に、住まいのない人が生活保護申請をしたら相部屋などの施設に入れられることを書いたが、緊急事態宣言が出て以来、都内で家がない人が生活保護申請をすると、都が借り上げたホテルに1ヶ月ほど滞在できるようになったのだ(一人で行っても知らされず、支援者が交渉してやっと入れるというケースもあったが)。

 その1ヶ月の間にアパートを探して転宅すれば、一度も施設を経由せずにアパート暮らしに移行できる。このようにして、「5年越し、10年越しのネットカフェ生活がやっと終わった」という人々が多く生まれた。このことは非常に良かったと思うし、この点については感謝している。もしコロナ禍がなければ、その人たちは今も自分が「福祉の対象になる」ことも知らず、ネットカフェ生活を続けていただろう。

 しかし、このホテル提供、厚労省から事務連絡が出たことにより22年10月、実質終了。その背景には旅行支援があるのではと言われている。真偽はわからないが、住まいのない人の命綱であるホテル提供を中止し、余裕がある旅行者を支援するという方針転換には周りの支援者たちもショックを隠しきれなかった。以降、再び施設に入れられることとなり、劣悪な環境に耐えられずに失踪、という人が続出してしまっているのが現状だ。

 さらに、ホテル提供で書いておきたいのは年末年始支援だ。

 20年末から21年の年明けにかけてと21年末から22年の年明けにかけて、東京都では住まいのない人にホテルが提供された。仕事が切れるこの時期、ホームレス化する人は少なくないが、この期間は役所が閉まっている時期でもある。その一週間ほどを極寒の路上ではなくホテルで過ごせることとなったのだ。

 窓口は、ネットカフェ生活者支援などをするTOKYOチャレンジネット(都の事業)。できるだけ多くの人をホテル利用につなげる目的もあり、この2回の年末年始はチャレンジネットの隣の大久保公園で「コロナ被害相談村」が開催。住まいのない人をすぐに案内して、多くの人が年末年始をあたたかい部屋で過ごせた。そうして必要な人は、年明けと同時に役所に支援者が同行し、生活保護申請。その中には所持金ゼロ円で、寒空の中、凍死しないよう夜は歩き続けていたという女性もいた。

 これも非常にありがたい措置だったのだが、22年から23年の年末年始にはホテル提供は終了。この年からは年末年始に住まいがない人と出会っても、ネットカフェに泊まってもらうしかなくなった。

 さて、コロナ禍でもうひとつ印象深いのは、21年夏の第5波のことだ。

 この頃、とうとう路上からコロナ陽性の人が出るということが起きてしまった。

 が、当時は医療崩壊の真っ只中。「都内では救急車を呼んでも来ません、救急車が来たとしても受け入れてくれる病院がありません、なので感染しないように」とテレビなどで呼びかけられていた頃。連日のように自宅療養している中から死者が出ていることも報じられていた(小池都知事は自身のコロナ対策を誇っているというが、どの辺を誇っているのだろう?)。

 そんな「原則自宅療養」の中、自宅がなく、住民票も保険証もない人がコロナ陽性になってしまったら。

 第5波で露呈したのは、国も都も、このような事態をまともに想定していないということだった。入院もできず、療養ホテルにも入れず、結局は支援団体が自らのシェルターに命がけで保護する、という状況。

 「野戦病院」のような現場から帰宅してテレビをつけたある日、そこに映されていたのは華々しい「東京オリンピック」の開会式だった。この時、自分が住んでいるのは「パラレルワールド」かと愕然としたことを覚えている。オリンピックの閉会式では小池都知事がゴージャスな着物姿で登場し、やはり自分の生きている東京と、この人が都知事をつとめる東京とはまったくの別次元に存在するのではと気が遠くなりそうになった。

 さて、そんな「自宅がない人が陽性になった場合の対策」について、21年9月、東京都に申し入れ。

 もうひとつ、書いておきたいのは水道の給水停止についての東京都への申し入れだ(22年12月)。

 22年、東京都では水道料金の滞納による給水停止が昨年より倍増していることが発覚。

 共産党の和泉なおみ都議の質問によって明らかになったのだが、21年度の給水停止が10万5000件だったのに対して、22年の4〜9月だけで9万件にものぼっていたのである。

 その背景には、検針員が水道料金を払えない人のもとに訪問して催告を行い、困窮者は福祉につなげる委託事業を「業務の効率化」を理由にやめたこともあるという。

 その話を知って思い出したのは、当時駆けつけ支援をしたある女性。

 住まいを失い、残金もほぼゼロ円とSOSメールをくれた女性のもとに22年11月、駆けつけたのだが、その人が住まいを失ったきっかけは水道の停止だった。コロナ禍はじめに宣伝された、水光熱費の支払い猶予の措置を覚えている人も多いだろう。多くの人が「助かった」と口をそろえる制度だが、減免措置が終わったとしても困窮している人の状況は変わらない。やむを得ず料金を払えずにいたところ、水道を止められてしまったのだという。

 水道の停止は、命に関わることである。

 ちなみに同時期、全国170自治体では水道料金の減免措置をしていたという。東京都はお金があるのに、命に関わる水を容赦なく止めていたのである。

 さて、ざっと振り返っただけで、コロナ禍、これだけの問題点を都に指摘し、申し入れをしてきたわけである。その中には、ホテル提供が実現するなど声が届いたと思えることもあった。が、それ以外はスルーされてきたというのが私の実感だ。

 だけど、どこかで仕方ないと思ってきた。

 なぜなら、都のトップである小池さんは自身がむちゃくちゃのし上がって成り上がってきた人である。彼女が困窮者へ寄り添う姿勢を私は今まで見たことがないし、なかなか想像もできない。だからこそ、相談会などで都知事選に何度か出てきた宇都宮さんと一緒になると、「ああ、宇都宮さんとか別の人が都知事になってたら、今頃全然違ったんだよな……」と諦めとともに思ったりした。

 だけど今、都知事選を前に、私は久々に諦めモードから抜け出している。変えられるチャンスがとうとうやってきたのだ。

 私たちは、トップの一声がどれだけ大きいか知っている。トップがこうすると宣言すれば、現場は変わるし意識も空気も変わるのだ。

 今、その希望が見えてきた。

 1ヶ月後、東京はどうなっているだろう? 今、私は久々にワクワクしている。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。