第85回:2024年春・被災地ツアー報告「閣僚で、帰還困難区域に入ったことがある人はいるのでしょうか」(渡辺一枝)

 東日本大震災から10年後の2021年から、福島被災地ツアーを始めた。今年4月5日~7日に6回目のツアーを行った。2泊3日で、1泊目は小高の双葉屋旅館、2泊目はいわきの古滝屋に宿泊。集合は福島駅、解散は郡山駅だ。ガイドと運転は、いつも今野寿美雄さんにお願いしている。今回の参加者は、東京から2名、埼玉から1名、長野から1名と私の5人が、予め決めていた東北新幹線に乗車して福島駅に着き、今野さんに迎えて貰った。

4月5日(1日目)

 福島駅を出てから国道114号線で浪江に向かう。窓の外は、緑が濃い。ウワミズザクラが咲き、道路脇には濃紫の三寸菖蒲がずっと植え込まれていて、さながら菖蒲ロードのようだった。
 川俣町に入り、「かわまた復興発電合同会社」の看板表示がある復興メガソーラーを見て過ぎる。「道の駅かわまた」の周辺にはガマズミが咲き、その先にはミズキの花も。
 「水境」という道路標識を過ぎて浪江町に入る。この「水境」は分水嶺を意味していて、ここより東側に水源のある川の水は、いずれも太平洋に注ぐ。道路脇には「企業に勇気を 地域に元気を」の立て看板があった。被災前のいつの日かに建てられたものだろうが、その文言が今は虚しい。
 私は、川俣町に入った時から持参の線量計のスイッチをオンにしていた。0.3マイクロシーベルトを超えると警戒音が鳴りだす設定になっている。2011年5月に入手して、福島に通い出した最初の頃はいつも持参していたが、今は被災地ツアーの時だけ持って出る。

●特定復興再生拠点区域

 帰還困難区域の一部地域は、昨年3月31日付で特定復興再生拠点区域として避難指示解除になった。しかし特定復興再生拠点区域は、全域が帰還困難区域となっていた津島地区の、ほんの1.6パーセントだ。そして、除染されたとはいえ、そこで安心して暮らしていけるほど安全な場所ではない。ましてその周囲は、未除染なのだ。
 拠点区域内に入ると、線量計はピッという計測音を立てたが、数値は0.28程度で警戒音は発しなかった。津島訴訟(※)原告団長の今野秀則さんの家がこの拠点区域内に在り、家の前には車が駐車されていて、数人が何か作業にあたっていた。家の中には秀則さんも居た。
 秀則さんは、ここで日常を過ごすことは無理だと考えて避難先の大玉村に生活拠点を移し、新居を構えていた。だが、街道筋で老舗旅館「松本屋」として栄えていた家を解体するか残すか、解体申請締め切り間際まで思い悩み、悩んだ末に、残すと決めた。6人きょうだいの長男としてきょうだいたちとも相談し、全員一致で残すと決めたそうだ。被災前には夏休みや正月にはきょうだいたちが家族連れで集まって賑やかに過ごし、また春秋の彼岸には、ここから一緒に墓参りに出かけた。被災後も、年に一度、お盆の時期にはきょうだいたちは墓参りにここに集まった。ここを解体したらみんなで集まる場所がなくなるからと、自分たちが生まれ育った家を残すことに積極的に賛成してくれたことが、秀則さんは嬉しかったと言った。
 避難中もちょくちょく帰ってきて掃除をし、手入れをしてきていたので、建物自体に傷みはないが、家を残すとなると水回りなどもきちんと整備しておかねばならない。この日は排水の浄化槽を造るための作業にかかっているということだった。

※津島訴訟…「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」。津島地区の元住民らが、東京電力と国に損害賠償などを求めて起こした訴訟

●原発事故が奪うもの

 秀則さんの家からスクリーニング場に向かった。 
 寿美雄さんの実家は帰還困難区域の津島・赤宇木で、予め申請して許可を得て、それなりの手続きを経なければ入れない。津島中学校隣地のスクリーニング場で白い不織布の上下服を受け取り、着衣の上からそれを着る。靴の上から不織布のオーバーシューズを履き、さらにその上に青いビニールの靴カバーを履く。頭には髪を隠すように不織布のキャップを被る。不織布のマスクをつけ、白い木綿の手袋をはめる。このいでたちでないと、帰還困難区域内の家には入れないから、全員この白装束で車に乗った。
 帰還困難区域に入るゲートへと向かう途中、津島地区の役場機能移転先の近くを通りかかった。復興住宅が10戸建ち、8戸は入居者がいる。内2戸は元々津島の住民だが、他の6戸は移住者だ。帰還した住民は、住居周辺が除染されてはいても、決して安全な場所ではないことは承知して、それでも故郷での暮らしを選んだ。だが、移住者は実情を知らないのか、それとも知ろうとしないままなのか、洗濯物が外に干してあった。
 津島訴訟原告副団長の石井ひろみさんの家の前を通る。築150年ほどになるのだろうか、2階建ての立派な木造家屋だ。入ってすぐの台所には大きなかまどがあり、結婚してここでの生活が始まった時のひろみさんは、まずお姑さんにかまどで火を焚くことから教えられたという。無人の家には動物が入り込んで荒らして、かまども崩されてしまった。
 隣家はひろみさんと親しい菅野みずえさんの家だ。その通り門の白藤は、すっかり緑の葉が茂って門を塞がんばかりだった。みずえさんは、母屋は残すが、この通り門は解体するそうだ。盗人が入って箪笥などを持ち出し、後には動物が入り込んで荒らされてしまったという。
 ひろみさんの家もみずえさんの家の通り門も、文化遺産としての価値が非常に高い建造物だ。原発事故は、先人たちが築いてきた貴重な暮らしの痕跡も奪ってしまった。

●帰還困難区域

 赤宇木への分岐点にあるゲートに向かう途中から、私の線量計はピィピィと警戒音を発し続けていた。ゲート手前に待機していた警備員に、運転席から今野さんが許可証を見せて鍵を開けてもらった。まず向かったのは赤字木・小阿久登の集団墓地。車から降りずに、建立されている立派な墓石群を拝観しながら、祖先がこの地に住み着いて1000年以上の月日が経つこと、墓地の入り口の石造りの四角い枠は土葬の名残であることが説明された。2000年に今野さんのお父さんが、地域で初めて火葬で葬られたが、それまではずっと土葬だったそうだ。
 ガマズミの花を見ながら共同墓地を後にし、今野さんの実家へ向かった。「あれ? なんの木だろう? ここはトマト畑だったんですよ。あんな大木が生えちゃってる」。傍の草藪を指して、今野さんが言う。人が住まなくなった地域は、人の手を介さずに樹木が茂る。車からは木の名は見定められずに通り過ぎて、ノカンゾウのオレンジ色の花を見て家の下に着き、ここで車を降りた。
 「いろんなもの触っちゃダメですよ。花なんか採っちゃダメですよ」。今野さんの声を遮るように線量計が鳴りっぱなしだ。猪が体当たりして破られたガラス戸を今野さんが開け、家の中に入った。ツアーの参加者は、内部の有様に息を呑んで言葉が出ない。布団や座布団の山が崩れて、ペレットが床一面にこぼれ落ちている。長押にはハンガーに干したままの洗濯物のシャツやタオルがかかっている。
 「ここは神棚部屋です。この辺りの家はみんな、こうした大きな神棚を作って神様を祀ってました」。室内の様子に言葉も出ずにいた参加者が、今野さんの説明に遠慮がちに「立派ですね!」と声を出すと、「山の中だし自然の権威が大きかったから、苦しい時は神頼みで、みんな神様を大事にしてたんでしょうね」と今野さんは答え、「兄貴の洗濯物も、あの日のままですよ。13年前のまま」と言った。
 さらに今野さんは、仏壇の前の小テーブルの下に落ちていた「お行列帳」を拾い上げてページを繰り、「俺は何してたんだろうな。あ、写真係だ。兄貴が位牌を持ったから俺が遺影を持って、弟が遺骨を持ったんだな」と言った。「お行列帳」にはお父さんの葬儀の時の参列の関係者それぞれの役割が記されていた。「松明」「導の火」「六地蔵」「陸尺」「銅羅(ドラ)」などと葬儀にまつわる係名が記され、地域の人たちが「結」によって暮らしを支え合っていた様に思いを馳せた。
 母屋を出て牛舎へはほんの数メートルだが、草を避けて歩いた。お父さんの代に1頭から始めた酪農は長男のお兄さんが継ぎ、被災前には50頭を飼っていたそうだ。幸いここは20キロ圏外だったから、牛たちは原発事故後に他県の酪農家に引き取られた。「だから兄貴は、他の酪農家のように泣かずに済んだんですよ」と、今野さんは言った。
 高台に建つ今野さんの家から車を停めた道路まで戻り、靴カバーや白衣の上下などを脱ぎ、ビニール袋に纏め入れた。道の脇には湧き水が作った池がある。1本のサワラの木があって、水神を祀っていたという。池には鯉がいた。向こうに川があり、川ではヤマメなど川魚が獲れた。山では山菜やキノコがとれて、食べ物には困らない土地だったから、縄文時代から人の暮らしがあった地域だったと今野さんは言う。そして車を走らせてからも、ふと右の山肌に目をやって「ここには土の中に生えるキノコが採れたんだよなぁ。毎年6月になると採れる。美味かったなぁ」と呟く。助手席にいたKさんが「トリュフですか?」と尋ねると、「いや、トリュフじゃなくて、なんて名前だったかなぁ。忘れちゃったけど美味いんですよ」と答えた後で、不意に思い出したのだろう。「ツチグリだ」と、懐かしげに言った。だがそれは、もうきっとこの先の人生では味わうことのできない故郷の味だろう。
 原発事故後に多くの町民が避難した浪江高校津島校に行った。今野さんの妻子も、ここに避難したのだという。「雪が降って、息子や子どもたちは雪を食って遊んだりしたんですよ」と今野さん。息子のH君は、当時5歳だった。今そこに設置されているモニタリングポストの数値は、0.6を表示している。除染され、セシウムの半減期の1/3は過ぎてはいてもこの数値だ。当時はいったいどれほどの値だったか。校庭には卒業記念碑があり「飛翔」「I can」の文字が彫られていた。この卒業生たち、今はどこでどうしているのだろう。
 スクリーニング場に戻り、使用済みの防護服などを纏め入れたビニール袋を係に渡し、靴裏の測定をしてもらい、次の見学先へ向かった。

●再び114号線で

 フロント部分に「除染土壌(大熊)」のプレートをつけたダンプカーと、幾度もすれ違う。荷台は空なので、避難指示解除になった地域からの除染土壌(と表示されているが実際は汚染土だ)を、大熊町の中間貯蔵施設に搬入した帰りなのだろう。2台ずつ連なって走る姿に、間隔をおいて何度もすれ違った。
 津島集乳所だった建物には、「牛乳大好き 酪農牛乳」と書かれた寂れきった看板がかかっていた。津島には今野さんの実家のように、酪農を生業にしていた人たちが多かった。映画『遺言 原発さえなければ』の冒頭の場面に出てくる関場健治さんの家に続く橋は、すっかり青草に覆われてしまっていた。濃いピンク色のムシトリナデシコや、花芯が臙脂色の黄色い花びらのジャノメソウが群れ咲いていた。昼夜の温度差が大きいから、東京で見るよりもずっと色濃く鮮やかだった。どちらも美しく咲いていながら、汚染されていることを哀しく思った。
 大柿ダムの前に在った食堂「まんまや」は解体されて更地になって、建物跡には砂利が敷かれて、モニタリングポストは1.234マイクロシーベルトを表示していた。建物が在った時の半分の数値だった。汚染された建物が撤去され、砂利で遮蔽されたためだろう。
 ダム湖を過ぎ、吉沢正巳さんの「希望の牧場」への分岐を過ぎ、公共宿泊施設「福島いこいの村なみえ」の前を通る。ここは水素エネルギーで電力供給していると、今野さんからの説明を受けて発電設備を見て過ぎる。運転教習所の脇を過ぎながら、免許証を取りたがるような若者がいない町なのに教習所がある訳は、中間貯蔵施設や廃炉の仕事でやってきた作業員たちが大型の免許やフォークリフト、あるいはモーターバイクなどの免許を取得するためなのだと今野さんの説明を聞く。

●「双葉町中間貯蔵施設」及び「東日本大震災・原子力災害伝承館」

 双葉町の産業交流館の屋上に上がり、少し離れたところにある中間貯蔵施設を目視する。今はもう、そこには黒いフレコンバッグは一つも見えず、人工芝だろうか緑のカーペットを敷いたような光景だ。階下に降りて1階のフードコートの浪江焼きそばで昼ごはんを済ませてから、隣接する伝承館へ入館。
 今日は来館者が多い。東京の英語学校の学生たち、親子孫と3代での家族連れなどだった。入館して最初に案内される5分程度の映像を見た後、他の人たちの一番尻尾について、螺旋の勾配をあがる。壁面には、福島県が担ってきた首都圏への電力供給の歴史を示す展示がある。猪苗代湖の水力発電から始まり、常磐炭鉱・火力発電、核の平和利用といって原子力発電所が造られてきた経緯や、東海村JCOやスリーマイル島、チェルノブイリでの事故、また大きな自然災害についても、写真と年表で展示されている。2011年3月11日の東日本大震災によって過酷な原発事故が起きたことも写真と共に説明し、最後はこの建物の外観の写真に添えて、2020年9月20日に開館したことが記されている。
 これらの展示写真を説明する今野さんの言葉をツアー参加者に聞いて欲しくて、見学者の列のしんがりについたのだ。そうしないと他の見学者の流れを止めてしまう。今野さんは、あの未曾有の地震と津波の後でなぜ原発が事故を起こしたのかを、時系列に沿った写真を指しながら解説する。中越沖地震で柏崎刈羽原発の停止状態が続いた東京電力は、自社の経営に支障が生じないことを優先して福島第一原発の津波対策を怠ったこと、写真年表には書かれていない地震学会の長期評価などについても触れながら、解説していく。こうした説明や解説がなければ、写真を見ても、ただの過去の出来事としてしか思えないだろう。最後の写真を指して、今野さんは言う。「ここは、この伝承館ができたことを伝える『伝承館』なのです。そして、ここから『復興』を掲げた福島イノベーション・コーストが始まることを伝えている『伝承館』です」。私たちの前を行く団体の中にも、今野さんの言葉に耳そばだてている人がいた。
 伝承館開館を示す写真が展示された螺旋の勾配を上がりきると2階への入り口で、2階が展示室。地震・津波の被害を伝える展示、放射性物質についての展示などなど、小部屋に分かれての展示となっている。
 東京電力福島第一原発の敷地内全体をジオラマで表した展示もある。5、6号機の敷地は、今回事故を起こした1~4号機よりも高い場所にあることが見て取れる。海面から30メートルの高さが本来の土地高だったが、東電がそこを削って低く地均しして1~4号機の建屋を建設したのは、海水を汲み上げるポンプを短くしたかったからだ。
 今野さんは1号機から4号機までの模型を指しながら、それぞれの説明をしていく。3号機は東芝製の国産初号機でMOX燃料を使用し、東電として初めてのプルサーマル発電を行っていたという。
 これらの最後の部屋が「福島イノベーション・コースト構想」についての展示だ。これは東日本大震災と原発事故によって失われた福島県の浜通りの産業回復と新たな産業基盤の構築を目指す国家プロジェクトだという。ロボット・ドローン、エネルギー・環境・リサイクル、農林水産業、医療関連、航空宇宙の各分野での具体化と実現に向けた産業集積、人材育成、交流人口の拡大情報発信などに取り組むのだという。字義通りに聞けば結構なことかもしれないが、素直に頷けない点が多々あるプロジェクトだ。およそどんなことでも発達した科学技術は、使い方によっては軍事に転用できる。いや、戦争が科学技術の発達を促してきたと言えるかもしれない。

●イノベーション・コースト構想の各施設

 展示には、イノベーション・コースト構想に関わるさまざまな施設の解説があった。これらの施設は、内部の見学は企業秘密なので叶わず、すべて外側から見ることしかできない。しかし、イノベーション・コースト構想による新規事業は目白押しだ。原発事故で住民が避難して更地が広がった町は、「復興フロンティア」というわけだ。

福島ロボット・ドローンテストフィールド、浪江滑走路

 この事業は南相馬市の原町に拠点があり、浪江にあるのは長い滑走路だ。伝承館には昨年までは人が乗れるドローン、「空飛ぶタクシー」とでも呼びたいようなものが展示してあったが、多分それの実証実験は、浪江のこの滑走路を使って飛ばしたのだろう。今回の伝承館の展示はドローンではなくて歩行型のキャタピラのようなロボットだった。災害があった場合に瓦礫の上を探索できるようなものなのだろう。

水素エネルギー研究フィールド・水素充填技術研究センター

 世界一の水素製造工場だそうだ。今野さん曰く「世界一エッチ(H=水素)な工場」。水素は水を分解して生じさせる。そのためには電力が必要で、工場の周囲を太陽光パネルが囲む。全て再生可能エネルギーで生産していると謳っている。製造された水素は定置型燃料電池向けの発電、燃料電池車、燃料電池バスなどに利用される。

福島高度集成材製造センター(FLAM)

 浪江町の製材業者と郡山市の集成材事業者が共同で、株式会社ウッドコアとして事業を起こし、県産木材(スギ、カラマツなど)から集成材を一貫生産している。集成材は堅牢で大型木造建築に使われている。浪江町周辺の復興再生拠点市街地形成施設事業では、隈研吾氏デザインでFLAMの建材が使われるそうだ。

アンモニア製造プラント

 隣接する水素工場で作られる水素を原料として、再生可能エネルギー由来の「グリーンアンモニア」を製造する。大気汚染を防ぐ脱硝(有毒な窒素酸化物を無害化すること)用途で、火力発電所などへの供給を検討しているという。日揮ホールディングスと旭化成が取り組む世界初の実証プラントだそうだ。

シャインコースト復興牧場

 棚塩地区の24ヘクタールの土地に、建設が予定されている牧場。乳牛1300頭、搾乳素牛80頭、肥育素牛700頭を飼育し、1万トンの生乳と堆肥を生産目的とする。ロボット、ICT(情報通信技術)を駆使して自動給餌、搾乳機器、繁殖期を見極めるセンサーなど最先端技術を導入する。町有地に施設を置き、運営は県酪農業協働組合と全国酪農業協同組合連絡会、被災酪農家が共同出資する。

陸上養殖イノベーションセンター

 浪江町と日揮ホールディングス及びかもめミライ水産株式会社が、陸上で生食用サバの養殖事業を始める。今年6月に操業開始する。

福島国際研究教育機構(F-REI)

 「創造的復興の中核拠点」を目指すこの施設は、浪江駅近くの広大な敷地で、これから建設にかかるところだ。大学等研究棟の他に宿泊棟や、職員たちの住居などなど大掛かりな施設になるようだ。建設されれば、浪江の風景は一変し、被災前の町の姿は思い起こすことさえできなくなるだろう。
 F-REIはアメリカのパシフィック・ノースウェスト国立研究所(PNNL)と連携しており、PNNLには、軍需産業や原子力産業もスポンサーになっているという。アメリカのハンフォードをモデルに福島イノベーション・コースト構想を進めていくに際して、F-REIは司令塔的役割を果たす。日本の今の政治状況から考えて、非常に危険な道にもう具体的に歩み出していると感じられてならない。「復興」の名の下に、戦争への道をいくような。

●請戸小学校

 災害伝承館を出た後、震災遺構として残されている請戸小学校の駐車場に車を停めた。被災前は校庭だったところだ。すっかり青草に覆われてしまった敷地の縁にはカエルの石像が、こちらに背を向けて並んでいる。背中に子カエルをおぶっている大きなカエルもいる。全部で7体。カエルたちが見つめる視線の先に在るのは、福島第一原発だ。これは避難した人が抗議の思いを込めてここに置いた「帰れないカエル」だ。
 この「帰れないカエル」たちから少し離れたところに、土管を立てて置いたような円柱形のコンクリート製の建造物がある。直径が4〜5メートルほどはあるだろうか。天井は塞がっている。この中にはドローンが入っていて、地震や津波など有事には天井が開いて飛び出すようになっている。そして空中から周辺の被害状況を調査するそうだ。

●おれたちの伝承館

 続いて訪れたのは、写真家の中筋純さんたちが立ち上げた「おれたちの伝承館」。様々なジャンルのアーティストたちが、自分の表現方法で原発事故を伝える。それぞれ独立した作品でありながら互いに響き合って、この場に身を置くと自分も共鳴する一部になってそこに在るように感じられる。ゲートで遮られた夜ノ森の満開の桜並木の写真に迎えられ、中に踏み入ると、和紙で作られた白骨化した牛の骸が目に入る。見上げれば巨きな天井絵。赤い少女が笛を吹き、白馬に乗った少女が天空を駆けていく。「命の煌めき。放たれよ!」とばかりに。その下には、斧の一刀彫りの巨大な木像が、まるで天に向けて手を差し伸べるように屹立する。壁面には木炭で描かれた豊饒の海、モノクロームでありながら海の深さと生き物たちの息吹が感じられる。
 ツアー参加者たちも私もここに来てようやく、さっきまでの「伝承館」でのイノベーション・コースト構想見学で感じていたモヤモヤとした息苦しさから解放された心地になった。
 官製の「東日本大震災・原子力災害伝承館」は、学校教育の中での修学旅行などの見学場所になっているらしいが、そこと併せて、この「おれたちの伝承館」をセットにしてコースに入れて欲しいと思う。

 1日目の見学を終えて、双葉屋旅館に到着。お風呂に入って美味しい夕食をいただきながら、歓談。参加者のIさんが「閣僚で、今野さんのお家のような帰還困難区域に入ったことがある人はいるのでしょうか? あの白い服を着て靴カバーを履いて、ずぅっとあのピィピィいう音を聞きながら過ごす気持ちは、体験しないとわからないですよね」と言った。
 部屋に戻って今日のメモ書きを見ると「伝承館」で今野さんが説明してくれた言葉が走り書きしてあった。「勿来9号機、イノベーション・コースト構想」と書いてあるが、どんな話だったのか頭に入っていない。それともイノベーション・コースト構想の中には勿来9号機も計画にあるということなのか。今度また教えを乞おう。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。