第38回:寅さんが生きられなくなった世の中で。白い浴衣姿の「その人」のこと(小林美穂子)

 「その人」の名前を私は知らない。遠い親戚だと両親から聞いていた。
 私が小学生の頃、その人は2度、我が家にやってきた。
 その人がやってくると、父は私と弟を寝室に引っ込めた。母は台所でつまみを作り続け、父がその人の相手をしていた。夜遅くまでちゃぶ台を挟んで飲み食いすると、必ずその夜は泊っていった。別室で眠りに落ちた私の記憶に、陽気な笑い声と、闊達な喋り声が残像のようにかすかに残っている。
 白い浴衣姿の痩せた男として記憶されたその人は、間もなくして我が家ではタブーとなった。墓地で首を吊ったのだ。
 「誰にも言うな。そんな親戚がいると人様に知られたら、お前たちは結婚できなくなる」
 父は硬く怒ったような顔をして、小学生だった私たちきょうだいの口を封じた。

存在を消される人たち

 もともと遠い親戚なので、その人を知る人たちと私が出会うこともなかったし、家でもタブーとされているので、親とも話をすることは憚られた。歳を重ね私は大人になり、実家を離れ、その人のことも忘れた。
 記憶の層の深い奥底に沈められていたその人が、ふいに浮かび上がったのは、私が生活困窮者支援の世界に入ってからだ。出会う路上生活者の中高年者と話をしたり、関係を重ねたりしていくうちに、彼らとその人の姿がふっと重なる瞬間があった。その繰り返しが何度かあったあとで、完全に忘れたと思っていたその人は突然浮かび上がって姿を現し、それ以降再び消えることはなかった。
 ツレアイである稲葉剛の講演でかつて聞いた、フランス人アーティストのクリスチャン・ボルタンスキーの言葉が忘れられない。
 「人は2度死ぬといわれている。1度目は実際に死ぬ時であり、2度目は写真が発見され、それが誰であるか知る人が一人もいない時だ」
 子どもの頃に2度だけ会ったことがあるだけで、記憶の深い深い場所に沈んでいた「その人」は、30余年もの時を経て、再び私の中で甦り、生き返ったのだった。

白い浴衣の記憶違い

 その頃には価値観がまったく合わなくなった両親とは、無意味な対立や反発で疲弊するのを回避するために、時々電話で双方の安否確認をするような関係になっていた。
 しかし、汚れが目立つ白い浴衣姿で胡坐を組んで酒を飲んでいたその人の姿は、私の中で居座り続けた。彼はどんな人だったんだろうか。知りたい気持ちは募った。
 ある日、父にさりげなく切り出したところ、電話口の父は明らかに狼狽していた。私は、そのまま電話を切られるのを恐れて、自死も、レールから外れた生き方も、恥ずべきことではないのだ、一生懸命生きた人をタブー視することは、とても失礼なことなのだと熱弁をふるうと、父は今になって私が思い出した不思議に唸りながら、口ごもりつつもぽつりぽつりと語ってくれた。
 最も意外だったのは、ずっと象徴的に記憶していた「白い浴衣」が「普段着だった」という点だった。何度も確認したが、「浴衣じゃない。普段着だった」と言われても、いまさら記憶の中のその人は普段着を着てはくれない。なによ、普段着って……。ワイシャツなのか、ポロシャツなのか……、バミューダパンツとか? しっくりこない。未だにこの点については納得がいかないが、父が言うならそうなのだろう。

「その人」のこと

 父がいまだに名前を教えてくれないその人は、とても明晰な方で、話術に長け、快活で愉快な人だったらしい。夜遅くまで響いていた笑い声と、とまらぬ会話を思い出し、私も愉快な心持ちになる。
 その人の父親は戦後すぐに亡くなった。「名家」と父が言うその家は、その後没落し、母親は小さな旅館の賄いなどをしながら、それはもう大変な苦労をして一人息子を育てた。しかし、歳を取るにつれ仕事も減り、自分自身の生活も覚束なくなってしまった。それなのに肝心の息子は成人してもなかなか仕事が続かない。限界に達した母親は、ついにはふらふらしている息子を見限って「おっぱなした(手を放した)」。
 母親と暮らしていた家を出たその人は、ホームレス状態となり、行商をして暮らした。お金がある時は安宿を泊まり歩き、お金がなくなれば親戚を訪ねて金を無心して歩いた。
 遠い親戚である我が家までたどり着いたということは、近縁はすでに頼れなくなっていたからだろう。何度か探し当てた遠縁を頼ったあとで、もう頼るあてもなくなったその人が、最後に頼ったのもやはり血縁だった。その人は40代の若さで、先祖代々が眠る墓地で、親族たちの元へと一人旅立った。

生活保護制度を機能させたい

 その人とその母親が戦争に翻弄されながら、自助と共助だけを頼りに必死に生きた時代、特に閉鎖的な地方では、生活保護制度は存在していても「権利」として利用するにはほど遠かっただろうし、福祉事務所もそう簡単に利用させてなどくれなかっただろう。
 その人と母親が暮らしていたのは、群馬県の当時「桐生広域圏」と呼ばれる小さな田舎町。奇しくも(本当に奇しくも)昨年11月から頭がクラクラするほどの桐生市の生活保護問題を取材したり、相談を受けたりするようになった私は、生活保護を利用させないためにありとあらゆる手段を講じてはばからず、犯罪の一線をも軽々と飛び越えた桐生市の福祉事務所に深く失望し、強い怒りを感じている。
 貧困と闘い続けたその人の母親、そして何らかの生きづらさやトラウマを抱えていたかもしれないその人が今生きていたなら、制度は彼らを助けただろうか?
 残念ながら、今の群馬県の福祉行政を見る限り、私には自信がない。それが悔しくてたまらない。

戦後とバブル期を過ぎても

 今から15年前に生活困窮者支援の世界に飛び込んだ私の人間関係は、それ以前に比べると「異世界」というくらいに様変わりしていて、多種多様な経験、人生に囲まれている。
 子どもの頃に少年兵として志願し、激動の戦後を行商して渡り歩いた人は、怪しいものを売っては苦情が来る前に逃げる、を繰り返した武勇伝を恵比須顔で語ってくれる。長いホームレス時代も経験しているが、今は生活保護制度のもと、地域の人々に愛される人気者だ。
 大陸から引き揚げてきて、やはり激動の昭和を、それこそなんでもして生き抜いてきたガンコ親父は、テキ屋(露天商)をやっていたころの思い出話をする。何度も繰り返される話は、話芸のように完成度を高めてゆき、聞き手は顛末を知りながらも身を乗り出して聞いてしまう。彼らの顔や言葉には、時代の音や匂いが漂う。古いレコードを聴くみたいに。
 大変な時代を生き抜いて、夢を抱いて夢破れ、その時その時、表せないほどの思いを山と積み重ねて、誰に何と言われようと必死に生きて来た。そして、力尽きたその時には、制度が彼らを守る。彼らの健康で文化的な最低限度の生活を下支えして、血縁はいなくても、ともに時間を重ねた他人たちに囲まれ、いろいろある余生を暮らすのだ。

寅さんが居場所を失ったこの国で

 『男はつらいよ』は日本人に最も愛されてきた映画である。今、調べてみたら、シリーズで全50作もある。私も何作かは観ている世代だが、最初に観たのは、なんと幼少時に過ごしたケニアである。日本大使館が上映会をしたに違いないのだが、妹のさくらがサメに食われる悪夢を見た寅さん(映画の主人公)が、妹の名を叫びながら目を覚ますというシーンを今でも覚えている。ある程度の年齢の方は、皆さん一度は「男はつらいよ」シリーズを楽しんだことがあるはずだ。寅さんの口上を諳んじている人もいるだろうし、登場人物を知り尽くしている人もいるだろう。
 寅さんを愛する人がこれほど多い日本で、寅さんの生き方はもう許されない。
 「その人」の末路を「可哀そうなことをした」と、父は毎日仏壇に手を合わせる。父に責任があるとは思えないが、命を断った墓地に大きな墓も建てたという。それは信心深い父には大切なことなのかもしれないが、一人でこっそり遠縁の淋しい死を悼むのではなく、彼がどうしたら生きられたかを考え、世論が形成される社会を私は願う。願うだけでは叶わないから、私は今こんな食えない活動をしている。
 今なら、その存在をずっと忘れていたことを、その人は許してくれるだろう。名前も知らないその人は、今でも私の中では浴衣姿で胡坐をかいて、美味そうに酒を飲み、父に向って笑っている。

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小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。