第86回:2024年春・被災地ツアー報告──「物」が語りかけ、「ことば」が見せる情景(渡辺一枝)

 前回に続き、今年4月に実施した福島第一原発事故被災地を訪れるツアー、第6回の報告です。

4月6日(2日目)

 2日目は双葉屋を出てから鈴木安蔵(※)の生家を見て過ぎ、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町を経て、いわき市の古滝屋まで行く。

※鈴木安蔵…南相馬市出身の憲法学者。戦後に民間の「憲法研究会」を主宰し、独自の憲法草案を作成。その内容が、GHQの憲法草案にも影響を与えたとされる

●双葉町

 双葉駅前のロータリーを回りながら、案内してくれる今野寿美雄さんは、オリンピックの聖火リレーがここを走ったことと、すぐ目の前の大きな建物は双葉町役場の仮設庁舎だということを説明してくれる。仮設とはいえ相当額の費用が費やされている。やがて仮設庁舎は解体して、本庁舎は別の場所に建設される。線路の向こうに見える黒い住宅は双葉町の復興住宅だそうだ。
 駅周辺の建物の壁にいろいろな絵が描かれているのは、アートを通じた復興プロジェクトで描かれたものだが、心に響くものは感じられなかった。そこを通り過ぎて、現在は特定復興再生拠点となっているが去年の3月までは帰還困難区域だったエリアに入る。2011年3月11日から時間が止まったような光景が現れた。崩れた屋根、へしゃげた家、破れたガラス窓の向こうにボロボロになったカーテンが揺れている家、軒下に落ちた看板……。ゴーストタウンそのものの姿だ。オリンピック聖火リレーのために除染した駅周辺から、ほんの数分で展開するこの光景。日本の今が、ここに現れているように感じられる。

●大熊町

 JR大野駅周辺は、全くの更地になっている。避難指示解除になったことで工事車両が入れるようになり、駅前の商店街の名残は一切合切消されて更地になった。産業団地にでもするのだろうか。
 復興拠点とされている大川原地区は、役場の庁舎を中心にコンパクトタウンになっている。コンビニ、集会所及び浴場、介護施設、平屋の戸建て復興公営住宅が並ぶ。ここには帰還した大熊町民が入居しているが、その向こうには他所からの移住者用の住居群が建っている。
 認定こども園を併設した町立の小・中一貫校「大熊町立 学び舎 ゆめの森」は去年の8月25日に開校した。鉄骨2階建ての斬新な建物は建築費に50億円以上かかったという。図書室の蔵書5万冊で司書はブックソムリエと呼ぶそうだ。教員は教育をデザインするからデザイナーで、用務員はスクールコンシェルジュという。児童数は園児から小中学生まで合わせて30名弱らしい。
 施設設備が斬新なだけでなく教育内容もまた、先進的で実験的な内容を目指すというが、この周辺はまだまだ放射線量が高いところもあるのに、なんだかなぁと思う私はへそ曲がりだろうか。

●富岡町

 朝、出発した時は重たい曇り空だったが、大熊町から富岡町に入る頃から雨になった。夜ノ森に近づく頃から車の通行量が増えてきた。今日は土曜日で、お花見に繰り出してきた人たちだった。桜並木は6、7分咲きで、大型バスから揃いの衣装の若者たちが降りてきた。よさこいソーラン祭りの日だったのだ。気の毒にこの雨の中では踊るのも大変だろうと思いながら、横目で見て通り過ぎた。目的地は、桜並木を外れた向こうにある板倉正雄さんの家だ。

板倉正雄さん

 板倉さんに初めて会ったのは3年前。NGO「FoE Japan」の「ふくしまミエルカプロジェクト」でのインタビューを見て、この人に会いたいと思って会いに行ったのだった。2017年4月1日に帰還困難区域を除いて避難指示が解除されると、商店や病院など町の機能は戻らないままなのに、避難先からいち早く帰還した人だ。その訳が、知りたかった。
 板倉さんは被災後、郡山市の「ビッグパレットふくしま」での避難所生活を経て、その裏手にできた仮設住宅に夫婦で入居した。2012年2月、散歩に出た妻が雪道で転んで骨折し家事ができなくなり、やがて歩行も困難になって車椅子生活となり、要介護4を認定された。併せて認知症も出ていた。住み慣れた家に戻るほうが良いと考えて、指示解除後すぐに帰還したわけだった。
 私は、その初めての訪問から後も何度か訪ねて、浪江町室原で生まれてからの来し方を聞かせてもらってきた。それについては『たぁくらたぁ』の55号~57号に「ふくしま 人のものがたり」として連載したので、そちらをお読みいただきたい。
 板倉さんの生き方に感銘を受けて、その後も機会があれば訪ねていた。妻はその後、デイサービスでは追いつかなくなり現在は介護施設に入所しているので、独居生活となっている板倉さんだった。
 この日は私たちの突然の訪問に破顔して、「昨日、娘からの電話で話をしただけで、その後誰とも話をしていなかった」と迎えてくれた。9月の誕生日で96歳になる板倉さんは、「歩く時は、足が歩くと思っているけれど、そうではないですね。脳が歩けと命じて、それを受けて足が動くから歩けるんです。でも、足も弱ってきているから立つ時にはこうやって」と言って、座椅子の手すりに両手をかけて腕力で体を持ち上げるようにして立って見せた。しばらく話した後でお土産に持参したパズルの本を差し上げると、「いつも、こういうのをやっているんですよ。頭の体操ですから」と喜んでくださった。
 玄関を出ると、雨は上がっていた。

とみおかアーカイブ・ミュージアム

 ここは2021年7月11日に開設された町営の施設で、1階が常設展示室とタウンギャラリー、2階が収蔵エリアになっている。受付で配布されるリーフレットの文言が、この施設を端的に表している。
 〈ふるさとを想い、まもり、つなげる、拠点施設です。
 みなさまへお伝えしたいのは、富岡町という「土地」と私どもが経験した10年間の出来事です。2011年3月11日までは、そこには「あたりまえの日常」があふれていました。しかし、東日本大震災の影響で生じた原発事故は、富岡町で暮らすという「あたりまえの日常」を、突然奪いました。3月12日、町民は、違う土地で暮らす覚悟ができないまま、ふるさとを離れました── 当館は、富岡町の「特徴」と、この地域で生じた自然災害・原発災害の「特徴」を展示しています〉
 と記されている。
 双葉町に在る「東日本大震災・原子力災害伝承館」は県営でここは町営と、どちらも行政が設置した公営の施設だが、リーフレットの文言からも分かるように、展示の姿勢が全く異なっている。被災前のこの町の暮らしを丁寧に伝えながら、原発災害の様子もしっかりと伝えているこのミュージアムの学芸員さんの姿勢を、好ましく感じる私だった。

廃炉資料館

 東京電力の施設で、見学は1時間と限定されていて、事前に入館時刻と人数を伝えて申し込む。瀟洒な外観はアインシュタイン、マリー・キュリー、エジソンの生家をモデルにしたという建物で、事故前は原発の有用性をアピールする「エネルギー館」だった。
 事故後に「原子力事故の記憶と記録を残し、二度とこのような事故を起こさないための反省と教訓を社内外に伝承することは、当社が果たすべき責任の一つです」として廃炉資料館になったのだが、見学時間が1時間と限定されて職員の説明を聞きながら館内を回るので、どこかをじっくり立ち止まって見たり、もう一度戻って見直したりということができない。流れ作業のように「見せられる」施設だ。
 私が初めてここを見学した時は実直そうな紳士然としたスーツ姿の年配の職員が「反省と教訓の上に立って云々」と深々と首を垂れて説明を始めたものだった。退職後の東電社員かなと思ったが、その言動に慇懃無礼さを感じた。その後、若い制服姿の職員に代わってからも同じように「反省と教訓の上に立って」という言葉を聞けば、マニュアル通りだなと感じた。だが今はもう、職員が自分の口からその言葉を発するのではなく、映像で流れるようになった。東電の姿勢は、世間を舐め切っているように思えてならない。

●楢葉町

宝鏡寺「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ 伝言館」

 この施設は、館長だった早川篤雄さんが2022年末に亡くなった後、原子力損害賠償群馬訴訟原告・ALPS処理汚染水放出差止訴訟原告事務局の丹治杉江さんが責任者となって、訪問者を受け入れている。
 東京電力福島第二原子力発電所建設計画が持ち上がった1970年代から、当時高校教師だった早川さんは教師仲間や住民たちと原発設置反対運動に取り組み、1975年には「福島第二原発設置許可処分取消」を求めて福島地裁に提訴した。この裁判は地裁、高裁で敗訴し、最高裁でも原告の上告棄却で敗訴したが、早川さんは、計画が持ち上がった時からの新聞記事・その他の資料を保存していた。
 2011年の原発事故の翌年2012年からは福島原発避難者訴訟の原告団長として闘ってきたが、事故から10年の2021年3月11日という節目の日に、この伝言館を開設した。館内には早川さんが保存してきたたくさんの資料が展示されている。丹治さんは群馬訴訟の原告として闘ってきた自身の信念に重ねて、早川さんの遺志を継ぐべく伝言館の灯を消すまいと頑張っている。
 その丹治さんから熱い言葉をたくさん聞いたツアー参加者は、「廃炉資料館でモヤモヤとした気持ち悪い思いを抱えていたけれど、ここにきてモヤモヤが取れてスッキリしました」と、感想を聞かせてくれた。

●いわき市古滝屋旅館

 伝言館を後にして一路、古滝屋へ向かった。館内に設置された「原子力災害考証館」の見学は明日に回して、まずは広々とした温泉で気持ちよく汗を流した。夕食は、旅館当主の里見喜生(よしお)さんも同席しての和やかな会食だった。

4月7日(3日目)

●いわき市

原子力災害考証館furusato

 朝食後に9階の考証館へ。
 古滝屋旅館当主の里見さんは3・11後、各地から集まるボランティアの受け入れや、自宅が被災して寝る場所を失った受験生への宿泊先提供など、自らもボランティアとして活動しながら原発事故に思いを馳せてきた。そして旅館の宴会場だった20畳の大広間を、原子力災害について私たち一人ひとりが考える場にすることを決めた。それが「原子力災害考証館furusato」だ。
 畳敷の広間の中央に、畳を外した一段低いコーナーを作り、そこには浜辺に打ち寄せられた流木と砂にまみれた小さなスニーカー、水色のランドセルが展示されている。津波で行方不明になった、大熊町の木村紀夫さんの次女、汐凪さんの遺品だ。正面の壁の大きな写真パネルには、ボランティアたちが汐凪さんの遺体を捜索している様子が写っている。
 右の壁面には写真家で「おれたちの伝承館」館長の中筋純さんが2013年と2020年に同じ場所を撮影した、浪江町の商店街だった通りの写真が上下2段で展示されている。2013年撮影の上段の写真では店の看板を掲げた商店が写っているが、2020年の下段の写真では歯が欠けたように店の姿がいくつも消えている。解体されたからだ。上段に写っている店の一軒は、歌人の三原由起子さんの実家だ。
 写真の下の棚に立て置かれた色紙には、「わが店に売られしおもちゃのショベルカー大きくなりてわが店壊す」と、由起子さんの歌が書かれていた。本が置かれたコーナーにある由起子さんの歌集『土地に呼ばれる』を開けば、「建物が壊されてゆく商店街なかったことにされているだけ」が心を打つ。
 「物」が語りかけ、「ことば」が見せる情景を前にしてこの13年に思いを馳せた。

ほよよん

 考証館の手前の部屋に、もう一つ新しい資料館ができていた。「子どもと原子力災害 保養資料室」としての「ほよよん」だ。原発事故以来実施されてきた保養活動に関する資料や調査・研究に関する資料が集められていた。
 原発事故の影響を受けた地域に暮らす人たちが、空気のきれいな地域に出かけて心身を癒すことで免疫力が上がることは実証されている。そうした保養活動への取り組みが全国で進められてきた。初めのうちは公的な支援も出ていたが、やがて行政は「保養」という言葉を使うことに難色を示すようになり、支援は打ち切られていった。今はNPO法人や民間のボランティアは、サポーターやカンパを集めながら保養の活動を続けている。
 「ほよよん」は受け入れ団体として保養に取り組んできた団体のネットワークが、活動を記録し記憶と経験を継承していくことを目的として、ここに設立したという。
 古滝屋館主の里見さんの姿勢から学ぶことが、私にはたくさんある。

●三春町

コミュタン福島

 いわき市から三春町への道は、雲一つないような青空だった。目的地に向かう道筋の右車窓から見る三春の滝桜は濃い紅色に枝垂れて、花開くのは今日か明日かというようだった。三春は、梅・桜・桃の花がいちどきに咲く地という事から名付けられたという説もある。柵で囲まれた公園の老木が「三春の滝桜」と呼ばれており、三春の桜は、個人宅の庭先の桜も道端に生えている桜も山の斜面の木も、どの桜の木もみんな枝垂れ桜なのだが、全てその老木からの子孫の木なのだという。道中で目にした枝垂れ桜は満開の木もたくさんあって、眼福を味わいながら、目的地に着いた。
 コミュタン福島は「福島のいまを知り、放射線について学び、未来を描く」ことを目的に福島県が設置した施設だ。そして、そうとはっきり謳ってはいないが、子どもたちを対象にしているように思える。
 館内は6つのエリアに分かれている。〈1.「福島の3.11から」復興へ向かうふくしまのあゆみを知ろう!2.「未来創造エリア」ふくしまの今を知り、ふくしまの未来をともに描こう! 3.「環境回復エリア」放射線や環境創造センターの研究について学ぼう! 4.「環境創造エリア」原子力に代わる新しいエネルギーや、自然環境について学ぼう! 5.「環境創造シアター」大迫力の映像と音響空間! 全球型ドームシアター  6.「触れる地球」宇宙から見たリアルタイムの地球の姿を体感〉とあり、5の全球型ドームシアター以外の各エリアは手で触れたり操作したり、ゲーム感覚で回れる。
 全球型ドームシアターは360度全方位の映像と音響で、浮遊感覚を味わいながらの映像鑑賞となる。国立科学博物館とここにしかない装置だそうだ。
 例えは悪いかもしれないが、ここは「学習型アミューズメントパーク」で、飽きさせずに夢中にさせる屋内遊技場という感じだ。原発事故が何をもたらしたかということや核の危険性やそれを扱う際の倫理観よりも、「放射能は自然界にも普通にあって、原発事故で放出された放射能は怖くはないよ」ということを伝える施設のように思える。
 私はここに来るといつも、各エリアを見学するよりも、来館した子どもたちが寄せた感想のメッセージカードを端からすべて読むようにしている。随時展示を変えているので、これを読むと、今この施設が伝えようとしていることが、子どもたちの言葉を通して感じられるからだ。どうやら今は放射能問題よりも、地球温暖化の問題に力を入れているように感じられた。
 ここは県内の子どもたちの課外学習のための施設となっており、駐車場に観光バスが何台も停車していることが多い。

三春町歴史民俗資料館・自由民権記念館

 歴史民俗資料館は文字通り、この地の産業や暮らしの歴史を民具や服飾品など具体的な物を展示して伝えている。養蚕で栄えた頃の民家や蚕・生糸の商いの様子や、山仕事をする人たちが使う鋸や木材搬出道具、農作業に使うさまざまな道具類、下駄や桶、石材などの各職人たちの使う道具、婚礼衣装や慶弔に使う水引細工などなど、どれもがいつ来ても見飽きず、いつまでも眺めていたいと思う私だ。
 そして併設された自由民権記念館がまた、いつ来ても心に深く沁みる。明治期に起こった自由民権運動は「西の高知、東の福島」と謳われたように、一方では福島から始まった。中心的役割を果たした河野広中の遺品や写真その他の展示資料から、幕藩体制が崩れていく頃からのこの国の歴史とそこで起こってきた自由民権運動を考え、現在の政治状況に思いが至るのだった。

 コミュタン福島でモヤモヤと不協和音を立てていた頭の中は、この三春町歴史民族資料館と自由民権記念館でモヤモヤを覆して、少し励ましと勇気を得たように思えた。帰路で見た「三春の滝桜」は往路で見た時よりも花が開いて、濃い紅色だった枝々の先には薄いピンクの花がチラホラと見えた。たった数時間の間に老木は咲き時を察知して、花開かせたのだろう。自然の力って、すごいなぁと思う。
 こうして第6回被災地ツアーを終えて郡山駅で解散した。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。