第87回:2024年5月、再びの被災地ツアー報告「自分の終わり方をどうするかを、いつも考えます」(渡辺一枝)

 4月5日~7日に今年の春のツアーに行ってきましたが、その後に「私たちも行きたいので是非」とお声がかかり、5月24日~26日でまた被災地ツアーに行ってきました。当初は4人で計画していましたが、出発1週間前にキャンセルが一人出て参加者は3人になりました。行けなくなった方は2ヶ月ほど前に職場でコロナに感染し、治ったのだけれどまだ体調が不安定ということで、残念ながらキャンセルされたのです。コロナ、まだまだ侮れないです。
 前回とほぼ同じコースで回ったので、訪問先は名称のみにしてそこでの報告は省きます。前回と異なることのみ、記します。

5月24日

*浪江町津島 特定復興再生拠点区域を経て帰還困難区域赤宇木の個人宅
*双葉町産業交流館屋上から中間貯蔵施設を目視
*東日本大震災・原子力災害伝承館
 ・福島ロボット・ドローンテストフィールド、浪江滑走路
 ・水素エネルギー研究フィールド・水素充填技術研究センター
 ・福島高度集成材製造センター(FLAM)
 ・アンモニア製造プラント
 ・シャインコースト復興牧場
 ・F-REI(福島国際研究教育機構)
*請戸小学校(帰れないカエル、ドローンの自律制御型格納庫)
おれたちの伝承館

 浪江町から南相馬市への移動中、野馬追祭の旗がはためくのを車窓から見て、今まで7月開催だったのが、今年から5月に変更になったことを思い出す。翌日が野馬追の初日だった。参加者の皆さんに明日の予定を変更して午前中は野馬追見物に、と提案すると、みなさん快諾された。そして宿泊予約していた双葉屋旅館に荷を解いた。

5月25日

*小高神社

 相馬野馬追は旧相馬中村藩領(現在の行政区で相馬市・南相馬市の2市、浪江町・双葉町・大熊町の3町と葛尾村の1村)に伝わる、当地で開催するようになってから700年以上の歴史を持つ(野馬追自体は1000年以上の歴史)伝統文化行事だ。
 相馬家の祖である平小次郎将門が軍事力として馬の活用を考え、下総国小金原(現在の千葉県松戸・流山付近)に放牧した野生馬を敵に見たてて、関八州の兵を集めて馬を捕える軍事訓練をしたのが野馬追の始まりと言われる。その後、相馬氏が陸奥国行方(なめかた)郡に移り住んだことで、この行事は相馬野馬追として連綿と伝え続けられてきた。藩の各郷ごとに騎馬隊が編成されて、藩内の三妙見神社にそれぞれ所属する。宇多郷、北郷は相馬中村神社に、中ノ郷は相馬太田神社、小高郷、標葉(しねは)郷は相馬小高神社に所属する。

 野馬追の騎馬武者行列が双葉屋旅館前を通るのは朝9時45分頃と聞いたので、その前にまずは出陣式が行われる小高神社へ行った。3日間にわたって行われる野馬追は、各郷の騎馬隊がそれぞれ所属する神社に参拝して祝杯をあげて出陣式を行い、御神輿を守護しながら本陣である雲雀ケ原祭場へ繰り出す「お繰り出し」から始まるからだ。
 小高神社に行くと、既に裃(かみしも)にたっつけ袴、陣羽織の上に甲冑を着けた武者や、裃に平袴で侍大将など役付きの武者に仕える若者、馬をならすためにTシャツにパンツ姿で馬に乗ってそこらを歩いている人、またたくさんの見物人たちで境内は賑やかに落ち着かない雰囲気だった。私たちは出陣式の終わるのを待たずに、双葉屋に戻った。終わりまで見てしまうと騎馬隊が出発した後をついて行かなければならなくなる。追い越して先に行くわけにはいかないのだ。
 私は2012年、被災翌年の野馬追を見物したことがある。その時は、中ノ郷の村上和雄さんと息子の光一さん父子が早朝の日の出頃に出陣の支度にかかる場面からはじめ、3日間の野馬追の全てを見ることができた。
 祭礼の初日、中ノ郷の陣屋に甲冑姿の村上さん父子が乗馬で到着してからのことだ。陣屋となった広場では、幔幕を背にして郷大将が腰掛けていた。光一さんは乗馬したまま大将の前に進み出て「中ノ郷組頭村上光一、副大将の村上和雄の供をして、ただいま参上仕りました」と口上を述べた。その様に私は「わぁ、すごい! まるで時代劇そのもののよう」と驚いた。
 また、2日目の「お行列」の日のことだ。沿道の家の2階から行列を見下ろす人を見つけた騎馬武者が「無礼者! 控えおろう!」と叫びながら馬を早駆けさせてきた。また行列の前方で誰かが道を横切ろうとした時にも、騎馬武者は鞭を振り翳して「無礼者! なおれ、なおれ!」と馬を走らせてきたのだった。今回、行列を追い越して先に行くわけにいかないのは、この祭礼行事にはそのように行列を見下ろしたり横切ったり追い越したりしてはいけないというルールがあるからだった。
 さて、双葉屋旅館に戻ると女将の友子さんや近所の人たちが、もう歩道上に出ていた。双葉屋旅館の前には、座って見物できるようにいくつかベンチが用意された。私の隣には高齢の女性が腰掛けたが、その人も娘さん(と思われる女性)と2人で昨晩の泊まり客だった。娘さんが「ちょっと見てくるわね」と辺りを散策しに行った時、向こうから来た女性が私の隣の高齢の女性に駆け寄って「あらぁ、○○さん帰ってたの」と言うと、2人は手を取りあい浮き立ったように話し始めた。どうやら高齢の女性は被災後に都内の娘の住居に避難しているらしく、昨日から娘に伴われていっときの帰郷らしい。懐かしげに、そして離れて過ごしていた日々や近所にいた人たちのあれやこれやを、休む間もなく2人は語り続けていた。聞くともなしに耳に入る会話に、あの日から13年余りの日々を思った。
 その間に友子さんが出してきたプラスチックの大きな箱を綺麗に洗い、水を溜めて路肩に置いた。馬たちのための水がめだ。それから友子さんは小銭の入った箱を持ち出してきて「御信心ね。あとで箱を持った人が回ってくるからそこに入れて」と言って、私たちは友子さんの箱からコインを何枚か手に取った。その頃には左右の歩道には見物の人たちが大勢並んで、今か今かという感じで騎馬隊の行列がやってくるのを待っていた。
 やがて向こうから行列がやってきた。法螺貝の音が響き、甲冑姿の武者の十数騎が過ぎると旗竿を掲げた奴が行き、白装束で神輿を担ぐ者たちが続く。槍持ちや弓持ちの従者も続く。太鼓や長持を持つ白装束の者もいる。その間にもまた数騎ずつ武者が行く。間に「御信心」と書いた小箱を持った白装束の女性が沿道の見物人たちに箱を差し出し、私たちは手にした小銭をその箱に入れた。時折は馬が、用意した水がめに鼻面を入れて水を飲むが、水を飲ませようとした武者が水がめの方へ歩を進めさせても拒んで先を行く馬もいる。
 小高郷と標葉郷の56騎の隊列がやってきた。騎乗の武者には子どもの姿も多く、誇らしげで愛らしかった。今年の野馬追は全部で400騎が出陣したそうだ。行列は私たちの目の前を過ぎた後、小高駅前でくるりと向きを変えて引き返し本陣の雲雀ケ原の方へと去っていった。
 ほんの短い時間だけだったが、野馬追祭のお繰り出しの見物ができた。2日目の勇壮な甲冑競馬・神旗争奪戦や3日目の神事、野馬懸を見られないのは残念だが、被災地ツアーの番外編として、連綿と続いてきた行事にひととき触れることができた。その地に刻まれる暮らしの営みや文化の伝承など考えることは多々あって、これもまた得難い体験だったと思う。

*富岡町の板倉正雄さん
 双葉屋旅館を出た後、常磐線の双葉・大野駅舎、大熊町役場と周辺をめぐった後、富岡町に入って夜ノ森の桜並木を通り、板倉正雄さんの家を訪ねた。
 4月のツアーでも訪ねたが、今回もまたパズルやクイズの本などを持参しての再訪だった。足腰は弱ってきていてもかくしゃくとした応対が嬉しく、同行のみなさんに私が知っている板倉さんの半生を、つい熱く語ってしまった。板倉さんはにこやかに笑みながら自分のことが語られるのを聞いておられたが、やっぱり今日も、「私は自分の終わり方をどうするかを、いつも考えます。この家をどうするか、いずれ私もいなくなりますし、でももし私が女房より先に行ってしまったら、と考えてしまいます」というのだった。
 原発事故がなければ、後のことはそれなりに残された人たちに託せたことだろう。だが、事故は起きてしまった。除染されたとはいえ、不動産の処理については難しい問題があるだろうと思う。

*廃炉資料館
*宝鏡寺「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ伝言館」

*古滝屋(原子力災害考証館)
 25日の行程を終えて、宿泊地のいわき市・古滝屋着。温泉で汗を流し、考証館見学の後での夕食は宿の主人里見喜生さんと共に館内の「つだや」で。
 小高の双葉屋旅館と、ここ古滝屋は、人と人を繋ぐ場でもあると私は思っている。双葉屋女将の友子さんの、また古滝屋の里見さんの人柄に惹かれての宿泊客も少なくない。すると友子さんも里見さんも、そんな客同士を引き合わせたりするのだ。私自身がそうして知り合った人と友達になってもいる。
 この日もつだやでの食事時、里見さんがお声かけして共にテーブルを囲んだ人がいた。大阪から来た関西大学社会学部准教授の古川さんで、話しているうちになんとツアー参加の泰子さんと互いの学生時代に極々近くに住み、行動範囲がほぼ同じであったことが分かり、互いに店の名前を言い合ったりして話が盛り上がった。また那覇から来た対馬丸記念館事務局の中川さんはツアー参加のみどりさんと全くの同姓同名であることが判明。ここでも話が盛り上がった。そんなふうに賑やかに和気藹々と食事が進んでいた時に、やって来たのが木村紀夫さんだった。
 木村さんは大熊町で「大熊未来塾」を立ち上げて、3・11を語り継ぐ活動に積極的に取り組んでいて、広島や水俣、沖縄など各地の伝承活動関係者たちと互いに交流を深めてきている。今回は対馬丸記念館の中川さんが、考証館の見学に際して木村さんの説明を希望されたことからの木村さん登場だった。そうとは知らなかった私は木村さんを見て席を立って声をかけた。木村さんも驚いた風に「一枝さん」と言い、2ヶ月前の長野でのイベント(ギャラリー「マゼコゼ」での「渡辺一枝とたぁくらたぁな仲間たち展」)で一緒だった時のことを労いあった。
 食事もあらかた済んでいた時だったので、木村さんが対馬丸記念館の中川さんを誘って考証館の方へ案内した。木村さんの説明を聞きたいとツアー参加者の泰子さんと直子さんも一緒に席を立って行った。
 しばらくして戻ってきた木村さんは「じゃぁ、僕は失礼します」と避難先の家へ帰って行き、中川さんも部屋に戻って行った。泰子さんは「ここで木村さんにお会いできて良かった! 秋のツアーで、木村さんにご案内をお願いしました」と言った。泰子さんは自身が代表を務めている雑誌『we』で、秋に二十数名での被災地ツアーを企画しているので、そのことを言っているのだ。多人数なのでバスでの移動になる。木村さんと一緒なら、大熊町の帰還困難区域の木村さん宅跡地にも入れる。あわせて中間貯蔵施設も見て回れるから、願ってもないことだったろう。本当にここで木村さんに会えたことが幸いだったと思う。

5月26日

*コミュタン福島
*三春町歴史民俗資料館・自由民権記念館

 2泊3日の福島被災地ツアーを終えて、昼食は三春そうめんと三春名物ほうろく焼きを美味しくいただき、予定では郡山で解散のはずだった。だが広島から参加したみどりさんは福島市に戻って椏久里珈琲店の美由紀さんに会う約束があると言う。泰子さんも直子さんも、そして私も、久しぶりに美由紀さんに会いたいし椏久里のコーヒーが飲みたい。それならみんなで椏久里に行こうということになって、福島に戻った。

*椏久里珈琲店
 椏久里を訪ねるのも、本当に久しぶり。第55回で書いたように、ここには私は不思議な縁があって、秀耕さん・美由紀さん夫婦には格別の親しみを感じている。
 この日、久しぶりに訪ねたら2人ともお元気そうで、嬉しいことだった。美味しいコーヒーを堪能して、泰子さん・直子さんと一緒に福島駅から帰京したのだった。

 ツアーに参加された皆さんは、公的な施設ではどこも「ひと」を感じることができずゾワゾワと気持ちが逆撫でされるような心地だったが、その後で民間の施設に行くとホッとできたと感想を述べていた。そして、文字や映像での情報だけではなく実際に訪ねたことで、福島の抱える問題がより深く理解できたということだった。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。