第88回:トークの会「福島の声を聞こう!」vol.46報告(前編)「『科学的知見』は、本当に子どもを守るためのものなのでしょうか」(渡辺一枝)

 2012年3月から続けてきた「トークの会 福島の声を聞こう!」、6月23日に開催した会で46回目になりました。
 今回のゲストスピーカーは、福島県いわき市の千葉由美さんです。由美さんのお話、その活動の中身と共に活動のあり方もとても示唆に富み、身を乗り出して聴き入りました。
 由美さんは、A4用紙30枚の裏表に印刷された資料を参加者に配布し、その資料の画像をパワーポイントでスクリーンに映しながら話してくれました。「この社会は子どもたちを守れるか 原発事故から13年~忘却の先にある未来~」と題したお話の内容を、2回に分けてご報告します。

千葉由美さんプロフィール●福島県いわき市在住。「いわきの初期被曝を追及するママの会」代表。会には2つのプロジェクト「TEAMママベク子どもの環境守り隊」「ママcaféかもみーる」があり、子どもの環境の放射線量・土壌汚染の調査、子どもを守る体制づくり、支えあうコミュニティづくりを続けている。また、「はっぴーあいらんど☆ネットワーク」のスタッフとしての様々な取り組み、YouTubeでの情報発信も行なっている。

原発事故当時の状況

 福島第一原発事故が起こったのをきっかけに「この社会は子どもを守れるか」ということを思い、母親の会を立ち上げた。
 私の住むいわき市は原発のある相双地区の南に位置している。福島県は広く、一口で言い表すのは難しいが、いわき市は海沿いに在る。事故当時の記録を見ると、3月15日のいわき市合同庁舎駐車場での空間線量の測定値が約24マイクロシーベルト/時だった。 
 原発事故当時、一番下の子どもは小学3年生で、これから4年生になるところだった。事故の後、避難する市民が多くいたが、私は実家が福島市で、いわき市よりも若干原発から離れているので、実家に身を寄せた。しかし福島市の方が放射線量がずっと高かったということが後からわかった。目には見えない放射能汚染は、自分で確かめてみないとわからないのだと思った。
 まだ実家に身を寄せていた3月の末に、担任教師からの電話で「例年通り4月6日に始業式をするので登校させるように」と伝えられた。それを聞いて信じられぬ思いだった。まさか例年通りに子どもたちを学校に行かせる判断をするなどとは思わなかった。そこが大きな分かれ道だった。
 担任に、例年通りの始業式は無しにするよう職員会議で話してほしいと伝えると、「個人的には同意見だが学校・教育委員会の判断となると個人の意見は通らないから、できれば保護者に声をあげてもらいたい」と答えた。しかし、「わかりました、では私と同じように思っている人と繋げてほしい」と返すと、「守秘義務があるからそれは伝えられない」と言われた。
 私は夫が転勤族だったのでいわき市に住んでまだ3年という時期で、地域の母親とのつながりがあまりなく、面識のある親御さんは数人しかいなかった。その人たちに電話をかけまくって「どう思いますか? 行かせますか?」と聞くと、行かせないと答えた人は居なかった。
 私は登校させることはできないと思ったので、いわき市の自宅には戻ったが、子どもを学校には行かせないという判断をした。クラスの中で1人だけ避難した子がいたが、その他の子どもはみんな、普段通り登校したことが後からわかった。その時の、砂漠の真ん中に立たされたみたいな血の気の引くような孤独感は、今でも覚えている。その判断が子どもを一人ぼっちにさせてしまった、いろいろな点で「人と違う」ということで子どもを苦しめることになってしまったという思いが今もある。
 同時に、この社会は「子どもの命や健康よりも経済を優先させるのだ」と思い、その中で自分に何ができるかを考えた。私のように考える人は同じ学校にはいないかもしれないが、いわき市の中を探せばいるかもしれない、エリアを超えて母親同士のネットワークを立ち上げようと思い至った。それで、自宅を開放してお茶会や食事会を週に1回やりながら、ネットワークを作っていったのが活動の始まりだ。

「お上に物申す」ということ

 そこから2年がかりで「いわきの初期被曝を追及するママの会」を立ち上げた。会のネーミングは、半減期が8日と短い放射性ヨウ素による初期被曝の問題が見えなくされてしまっていることからだ。事故後しばらく経ってからのいわき市の空間線量(セシウム線量)は県内でも低めだったので、市民は「助かったね」と思ってしまっていた。しかし、事故後の3月末に行われていた、いわき市、川俣町、飯舘村の子ども1080名の甲状腺モニタリング調査では、事故当時の放射性ヨウ素による初期被曝の最高値が出たのはいわき市の子どもだった。しかし、そのことは一般的には知られていない。それを知らしめるためにも会の名は、敢えて少し強いものにした。
 2013年2月27日に、いわき市に対し初期被曝への対応についての申し入れを行った。子どもたちを事故前と同様の生活に戻そうとする教育・保育現場の動きがあり、私たちが声をあげなければ子どもたちが追加被曝をさせられるばかりの状況になっており、その中でやむを得ずに起こした行動だった。
 原発は経済活動なので、職業的なことや人間関係などで何かしらのしがらみがある人が多く、反対の声を上げるのは非常に難しい。特に父親たちは職業的・社会的な立場から反対を口にすることができないという状況があり、反対の声は水面下に沈んでいた。だから、社会的に何の立場も持たない私たち母親がやるしかなかったのだが、初期被曝の事実はショッキングな問題として取り上げられ、アクションも大注目された。
 記者会見も開いた。右も左も分からない状態だったが、メディアにも「こういうことをするので取材に来てください」と伝え、新聞テレビにも大きく取り上げられた。この時に、私たちの社会が抱えている問題が浮き彫りになったと思う。都会では何か問題があれば市民が声をあげるのが当たり前でも、田舎ではそれは特別なことで、「特殊な市民がやっている」という偏見が強い。家庭ごとの、また家庭内にも存在する価値観の違いも浮き彫りになった。男尊女卑の強い東北で女性が「お上に物申す」ことが、いかに難しいかということでもある。

言うべきを言うには、「大竹しのぶの雰囲気」で

 原発事故後、学校や地域で週に何回も、ほとんどが御用学者と言われる専門家たちによる講演会やシンポジウムが開かれていた。その中で最も多く言われていたのは、チェルノブイリでは母親たちが神経質になった為に子どもたちにストレスを与え、それが子どもの心身に影響したということ。今後私たちは、そのような「神経質になった母親」の扱いを受けるのだなと思った。
 だから申し入れの時には、すごく念入りに決まりごとを設けて臨んだ。例えば「泣かない。怒らない。早口にならない。優しく穏やかに、雰囲気は大竹しのぶのような感じで」など。そうすることで、「母親は感情で物を言う生き物だ」というレッテルを剥がそうという意図もあった。
 この時は既に放射線量の測定活動を始めていたので、ただ意見を言うのではなくて、いろいろな場所での測定の結果をデータを示して話した。「この内容については違う場で改めて協議しましょう」というように、次の場を持てるようになったことが大きな実りだった。メディアのみなさんも、冷静に淡々と話す私たちの味方になってくれたのは、とても大事なことだったと思っている。

「こんにちは。ママベクです」

 「いわきの初期被曝を追及するママの会」には測定プロジェクトとカフェプロジェクトの2つのプロジェクトがあり、測定プロジェクトは「TEAMママベク子どもの環境守り隊」の名で活動している。ママベクには独自のモニタリング体制があって国や行政とは違うやり方だったので、最初、市の教育委員会に「学校などで放射線量を測定させてほしい」と言ったときには困惑したようだ。まずはいわき市の放射能低減アドバイザーとの面談をして欲しいという「壁」が設けられた。そのアドバイザーという人は、原子力の専門家で、すでに引退しているというお爺さんだったが、「あなたたちバカなことをしなさんなよ。土など測れば2000や3000ベクレルは当たり前にあります」みたいなことを言った。私たちにしてみれば逆に「何を言ってるのか」としか思えず、その時のメンバーの顔つきはもう、頬がピクピクして爆発寸前だった。
 だがそこは堪えて、見事その難関を突破して、いわき市の許可を得ることができた。学校・教育現場や保育園・幼稚園など子どもたちの過ごす現場に堂々と「ママベクです」と言って入り、測定ができるようになったのだ。そこで放射線量と土壌汚染について、子どもの行動を想定した母親の目線でモニタリング調査していった。
 最初はどの学校でも、校長先生をはじめ先生方は「どんな猛女たちが入ってくるか」とすごく警戒されていたが、私たちは物腰やわらかに「こんにちは」と行くので、「校長室でお茶でもどうぞ」という感じで受け入れられた。お茶を飲みながら話すと校長先生にもそれぞれの価値観があり、現場の対応も校長先生の考え方次第で、本当にいろいろだということもわかった。中には原発に対する怒りを爆発させる校長先生もいたり、逆に私たちを快く思っていない雰囲気を感じたりしたこともあった。そうした個人による受け止め方の違いが、教育現場にそのまま表れることについては、どうなのかとも思った。

土壌汚染調査が大事

 測定を重ねるほどに、国や行政のモニタリングの方法や基準の設け方が、子どもを被曝から守るためのものではないことを感じた。
 国や行政のモニタリングは校庭の四隅と真ん中の空間線量を、小学生なら地上50cm、中学生なら1m(臓器の高さ)で測定する。国は0.23マイクロシーベルト/時以上を除染基準とするから、それより低ければ問題なしで、なんの対策もしない。しかも除染事業は5年のみで、その後は「環境はもう元に戻った」ということで予算も無くなってしまった。また、土壌汚染の除染基準は無い。
 そんな基準に従っていては子どもを守れないので、私たちは敷地を隈なく歩いて、歩いたところの線量がマップ上に落とし込まれるホットスポットファインダーという測定機器を使い、行政と同じ地上50cm、1mの空間線量だけでなく地表も測定した。ママベク独自の基準として0.15マイクロシーベルト/時を設け、ホットスポットとして報告、土も採って土壌汚染濃度も測るという独自スタイルで調査していった。
 一番問題なのは国も行政も、土の汚染を確かめないで空間線量だけでしか見ていないことだ。チェルノブイリでは土の汚染も測っていたが福島では測らないことに国が決めてしまったので、チェルノブイリと比較することもできないし、国際的な基準で福島のデータが活きない。わざとそのようにしたのだと思うが、国は確かめないということに徹していた。

放置されていた汚染土袋

 私たちは、空間線量も測るが土も測るというやり方で測定した報告をさせてもらってきた。現場は見れば見るほど本当に深刻で、一番びっくりしたのは除染後の子どもたちの環境だ。
 2011年から国による除染事業が始まり、いわき市のある学校でも表土除去が行われた。除去した土はフレコンバッグに詰めて、運び出すまでの間、敷地内で埋設保管をしていた。でも、実はそれ以前に、国の除染を待っていられなかった保護者や先生が除染のために表土を剥ぐ作業をしていた。剥いだ土はビニール製の土囊袋に詰めたが、これは国の除染ではないので埋設されず、敷地の隅に置かれてあった。やがて、袋が劣化して穴が開き、中の土がこぼれて落ちて、そこに子どもの手の痕がついていた。つまり子どもたちがここで遊び、汚染土に触っていたことがわかったのだ。
 しかし、行政のモニタリングでは委託業者が校庭の四隅と真ん中の空間線量を測るだけなので、こういう事実を教育委員会は知らない。私たちは、放置された土囊袋と汚染堆積物について報告書にまとめて撤去を求めた。私たちが詳しく確かめなければ、放置されたままになっていただろう。
 現場の先生たちも何も思わなかったのかと、教育現場の麻痺状態もすごくショックだった。子どもたちは無邪気で、私たちが訪れると休み時間に「見て! 虫捕まえたんだよ」とか「こんな綺麗な石があったよ」などと見せてくれるので余計に胸が痛んだ。できることはどんどん現場の写真を撮り、証拠として資料にまとめて、「すぐに撤去してください」と求めることだけだった。

未来の人のための視点を

 別の学校では、校舎と体育館の渡り廊下脇の空き地に、根っこがついたままの木がいっぱい重ねて置かれてあった。私たちの感覚も研ぎ澄まされてきていたのか、それが不自然で怪しく思えた。そこで木の根っこに付いた土を集めて測ったら、1kgあたり13万ベクレルもあった。原発事故がなければ1kgあたり5ベクレルくらいだと言われている。報告すると、いわき市の除染対策課もびっくりしたようで、木は敷地内に埋設され、その後に貯蔵施設に運び出された。これも私たちが確かめなければわからないままだった。
 いわき市には当時、小学校・中学校・保育所・幼稚園を合わせると200ヶ所くらいあり、私たちは何年もかけて全てを1巡、2巡、3巡した。何回も現場に行くと、前回のデータと比較して前にあったものがどうなったか確かめることができる。
 これもまた別の学校の話だが、2016年にプール専用附属室の裏側に土囊袋があるのを発見して、行政に「撤去してください」と報告してあった。しかし4年後の2020年に行ってみたら撤去されずに、すっかり茂った草木に隠れてそこにあった。空間線量を計測すると1mの高さで0.14マイクロシーベルト/時、地表で0.25マイクロシーベルト/時。土壌測定値はセシウム134・137が63920.00ベクレル/kg、ストロンチウム90は5.42ベクレル/kgあった。
 この土囊袋は先にも述べた学校と同じように、原発事故後、国の除染を待ちきれず保護者や教師らが除去した校庭の表土を詰めたものだった。長い間敷地内に置いたままになっていたので、土囊袋は劣化し汚染土は自然に馴染んでしまっている。教育現場は異動もあるので事情は誰も把握しておらず、私たちにしかわからない状況だった。この時は中の土を測ったら63000ベクレルもあったので、ちょうど立ち上がったばかりだったいわき放射能市民測定室「たらちね」さんのラボでさらに詳しくストロンチウムの量を測ってもらったら、前述の数値だった。しかし、それを報告しても、国も市も規制の対象にしているのはセシウムだけで、その他の核種には対応ができないという。教育委員会では「これは過去のアメリカなど各国の核実験時の汚染だと思う」と言ったが、でもその時のデータはないので、わからないとしか言いようがない。
 行政は次の年も、また次の年も例年通りのことをするだけで、新たなことはまずやろうとしない。だから汚染による被曝を防ぐには、私たちが市民としてやるべきことを提案して、それを認めてやっていってもらうしかない。行政は面倒なことはなるべくやりたくないので、本当に深刻なことだ。
 最後に述べたケースの学校の土囊袋は、私たちの指摘を受けて埋設保管されたが、将来的にこういう汚染がここに埋設されているという記録が残るのか質問したら、残らないと言われて頭が真っ白になった。それで早急に要望書を作り、記録を残すように求めた。私たちの間に、未来の人のことも考えなければいけないという視点が生まれた時だった。
 私たちは公園の測定もしているが、いわき市南部のある公園では、お母さんたちがおしゃべりをしながら子どもたちを遊ばせていて、すごく平和な光景だった。でも、公園敷地を隈なく見ていたら、劣化した土囊袋があった。これは、そういう目を持った者が見なければ見つけられない。劣化しているので、一見しては土囊袋だとはわからない。公園の管理者の方も、存在を忘れていたということだった。至急、除染課に報告をして、地下水などへの影響がないように調査を行った後で敷地内に埋設し管理することになった。
 いわき市は広いので、北の方の原発に近い地域の市民と、南の茨城県寄りの市民とでは放射能汚染に関する危機意識には結構な差がある。いわき市による最初のモニタリング事業や除染事業では、航空機モニタリングの結果によって除染するかしないかのエリア分けをしており、除染エリアのほとんどは北部だった。しかし、私たちがいわき市内の教育現場を網羅して測定し、南部の方でもホットスポットが見つかったという報告をしたことによって、いわき市も向き合わざるを得ず、新たな事業が立ち上がったこともある。
 13年も経つと人の記憶も薄れてくるので、データや記録をどのようにしっかり残すかということも課題になっていて、焦りも感じている。公園の例は報告後、比較的すぐに対応してもらったが、対応してもらった例は報告した内の何百分の一くらいしかない。「ホットスポットがある」と報告しても、何の対応もないところがほとんどだ。

子どもを守らない科学的知見

 また別の公園では、知り合いの若いママからの依頼で測り始めた。彼女の子どもが通う幼稚園のお散歩コースになっている公園だが、子どもはそこで松ぼっくりやどんぐりを拾ってくるので、汚染が気になるから確かめて欲しいとのことだった。測ってみたら公園の四隅は全てホットスポットだったので、結果をデータにまとめて市に何度も報告をしているのだが、いまだに無対策だ。
 私たちが報告をすると市の除染対策課は、福島市に在る環境省の出先機関の「環境再生プラザ」にモニタリング調査を依頼する。環境再生プラザが測定したときも、私たちの報告と同様の汚染が見つかったのだが、「年間被曝量の計算式に当て嵌めれば、子どもたちはずっとそこに居るわけではないから、問題は無い」という報告書が届いた。
 こうしたとき、行政の回答はいつも「科学的知見において問題はない」だが、果たしてこの「科学的知見」は子どもを守るためのものなのだろうか。いわき市の担当者には「国は加害者側だから向き合いたくないのでしょうが、私たちは地元の同じ被災者として、子どもたちを守るために、みなさんにできることをしてほしいと求めているんです」と伝えた。除染もできない、何も対応できないというなら、せめて、そこには汚染があることを広く伝えて欲しいということも訴え、汚染場所がある学校などで告知するための看板を試作して提出するなどもした。市の担当者は「わかりました」と言って看板を作るための予算を確保したが、学校現場からは設置したいという手は上がらなかった。
 予算も資材もあるのに各学校が看板を立てたがらなかったのは、「今まで何をしていたのか」と責められるだろうし、周囲に田畑があれば風評被害をもたらすという理由からだった。つまり大人の都合で、汚染があることを伝える責務があるのにやらないまま、子どもたちの安全は放置された。教育委員会の担当者が「やっと手があがりました」と、自ら学校まで看板を立てに行ったケースがあったが、汚染されている場所を塞いだロープに「立入禁止」の文字とマークの札が1枚かかっただけで、そこには「放射能」の文字はなかった。これが、「せいぜいできたこと」の一つだった。

いわき食品放射能計測所「いのり」

 ママの会を立ち上げた時から続けているもう一つのプロジェクトは、小さなお茶会「ママcaféかもみーる」で、常磐教会を会場にして続けてきた。そこにはいわき食品放射能計測所 「いのり」が併設されてあった。2020年に「いのり」の計測員が辞めることになり、ママベクに計測が依頼されるようになった。そこから「いのり」の計測員としての活動も始まった。
 原発事故後は全国に計測所があったが、危機意識が低下してきたことから閉じていく計測所も増えてきていた。そんな中、「いのり」は不安を抱える市民たちが持ち込んでくる土や食品、家庭菜園で採れた野菜などを測っていて機材も整っていた。さらに、持ち込みを待つのではなく、自分たちが採取して来た土を測るというママベクの活動との連携で、測定所はフル稼働となった。

最も重要な活動は行政協議

 私たちの活動は、いわき市の教育委員会、学校支援課・除染対策課・原子力対策課・こどもみらい課・公園緑地課などとの行政協議に最も重きを置いている。協議にはそれぞれの課から数名ずつ担当者が参加して、こちらからはいわき市議会の市民派会派議員も参加。私たちはそれまでに測定した結果をデータにまとめて資料として示す。協議の結果、私たちの要望や提案をどれだけ受け入れてもらえるかが腕の見せ所と言えるだろうか。
 最初の申し入れの時もそうだったが、自分たちが言いたいことを主張するだけではなく、印象づくりがとても大事だと思う。強い言葉や責める言葉を使ってしまうとうまくいかないので、低姿勢に徹して穏やかな口調でのやりとりを心がけている。すごく歯痒いのだが、子どもを人質に取られているようなものだと思う。行政を敵に回すような態度に出てしまうと、測定を継続できなくなってしまうので、イライラすることもあるが穏やかに、丁寧にやっている。
 数年前に、ある課の新任課長が就任挨拶を兼ねて参加してくれた時には「ママベクさんと良好な関係を築いて協力体制でやっていきたいので、お願いします」と挨拶をもらってびっくりすると同時に、ようやくここまでになれたかという思いもした。また、担当課に「ママベクの千葉です」と言って電話すると「あ、こんにちは。〇〇さ~ん、千葉さんからお電話」などと取り次いでくれて、恐れられてはいないなということがわかる。
 残念なのは出てくる担当者がみな男性で、女性がいないことだ。しかし、彼らの多くは子どもの父親でもあるのだし、私たちの言いたいことが伝わらないわけはないとも思っている。汚染についてのデータを渡した後に「どうですか」と聞くと、「いやぁ、知らなかったです。ここ、子どもを連れて遊びに行っていました」などの答えが返り、行政では土の汚染を測っていないから、私たちの測定が役に立っているとも思う。

地方自治のあり方を問う

 私たちも最初の頃は行政に何を求めれば良いのかが分からず手探りで、とにかく気がついたことを言うばかりだったが、だんだんにポイントも絞られてきて何が問題点なのか、求めるべきことは何かがわかってきた。
 最大の問題点は、繰り返しになるが土壌汚染の除染基準を国が設けていないし、測定もしていないということだ。これは本当に罪深いことで、原発事故による汚染の実態が記録に残らないということになる。しかも、国は測定せず実害を確かめてもいないのに、「除染をしたから環境は元通り、さぁ復興再生だ」といってボタンを勝手に押している。
 このままいけば、たとえば健康被害が出ても、被害はなかったことにされてしまう。この時にこれくらいの汚染があったという根拠を示せなければダメなのだ。だから私たちはいわき市に、汚染の実態について国に示して、対応や改善策を求めて欲しいと要望を続けてきた。担当者は「国に求めて参ります」と答えるが、これまでどのように求めてきたか文書で教えて欲しいと言うと、求めてはいなかったことがわかった。
 そんなこともあって、いわき市の担当者たちには「国に対して予算要望だけではなく、私たちの環境や権利が奪われたということも訴えてほしい。『環境は元に戻った』と言われて悔しくないのですか。訴えるためには測定データが必要なので、私たちの作成した報告書については、公文書の保存期間の5年を適用せず永久保存を」と強く求めるようになった。この時は焦りもあって、口調は穏やかではあったが結構ゴリゴリと詰め寄った。

(第89回につづく)

*記事を読んで「いいな」と思ったら、ぜひカンパをお願いします!

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。