6月19日~21日の3日間、福島県南相馬市から避難して滋賀県大津市で暮らす青田惠子さんをお誘いして、被災地ツアーとほぼ同じコースを巡りました。
惠子さんの布絵に惹かれて、「青田惠子 布絵展」を催したのは2022年の秋でした。いつも「トークの会 福島の声を聞こう!」を開いているセッションハウス・ギャラリーを会場に、オープニング前日には42回目となる「トークの会 福島の声を聞こう!」で、惠子さんにお話しいただきました。
ギャラリーでの六十数点の布絵の設置は、「おれたちの伝承館(おれ伝)」館長の中筋純さんにお願いをしました。この時純さんもその布絵の力に魅せられて、惠子さんに翌年7月に開館予定だった「おれ伝」に出展をお願いしたのです。
その惠子さんとの旅についてお伝えします。
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◎惠子さんと一緒に小高に行きたい
惠子さんを避難先の大津にお訪ねしたのは、2022年春だった。お連れ合いの勝彦さんと共に迎えてくださり、被災前の暮らしや福島第二原発訴訟のことなど聞かせてくださった。惠子さんは、布絵とそこに添えた言葉は、汚染されたふるさとを憂い、国や東電を告発するものだが、ふるさとに残っている人たちから見れば身勝手なことと思われているのではないかと案じていた。惠子さんが最初に作った冊子『小さな窓辺から』には、こんな短歌が載っていた。
「いつの日に帰って来るのと添え書きの賀状を見つめ穏(おだ)しく黙す」
その後私は、惠子さんの故郷である南相馬市の小高に行く時には、惠子さんの詩と布絵の載った冊子を携えて友人や知人に渡し、惠子さんの思いを伝えもした。誰もがそれぞれの判断での行動だから身勝手などとは思わないと言った。
また、「おれ伝」が開館してからのことだが、惠子さんの布絵を見た小高の人が、「これは俺の気持ちだ!」と言ったことを、純さんから聞いてもいた。惠子さんに「おれ伝」を観て欲しかった。惠子さん自身の作品と他のアーティストの作品が響き合って、この不条理を指弾し原発のない世界を、と訴えていることを汲み取って欲しかった。
それで、惠子さんを誘った。「一緒に小高に行きませんか。おれ伝に展示されたご自身の作品に、会いに行きませんか」と手紙を書いた。携帯もガラケー、パソコンもファックスも持たず使わずの惠子さんには、手紙か電話で連絡を取る。手紙には「この手紙が届いた頃に電話をします」と書いた。
そろそろ電話をしても良い頃かと逡巡していた数日後のこと、朝7時過ぎにスマホの着信音が鳴った。朝にかかってくる電話はいつも、ドキッとする。発信者は惠子さんだった。惠子さんからの電話だとわかると、もうそれだけで要件は諾の返事と知れた。断りは、電話では伝え難いと思うからだ。
案の定、気持ちに負担が大き過ぎて一人では行けないが、私が一緒なら行きたいとの返事だった。それからも何度か手紙と電話でのやり取りを重ねて、6月19日~21日の2泊3日でスケジュールを立てた。惠子さんからは、友人を2人誘いたいと言われ同行4人で、いつもどおり今野寿美雄さんに運転をお願いした。
6月19日
まずは津島へ
東京駅東北新幹線ホームで惠子さんとその友人のHさんと待ち合わせて、やまびこ号で福島駅へ。ここから今野さんの車で小高へ向かう。惠子さんのもう一人の友人Aさんは、住んでいる長野の駒ヶ根から車でいわき市を経て夜に南相馬市の双葉屋旅館で合流という手筈にしていた。
惠子さんもHさんも裁判支援で今野さんとは顔見知り、互いに「久しぶり」の挨拶を交わして出発。まず目指すのは浪江町津島。国道114号線を行く。
大いなる不条理
緑深い山にミズキの白い花、栗の穂花が咲く。路肩には鮮やかなピンク色のムシトリナデシコや、黄色い花びらの中心部はえんじ色のジャノメソウが咲いている。津島訴訟原告副団長の石井ひろみさんの家の前を過ぎる。今野さんが「僕が子どもの頃は津島にも、ここに映画館があったんですよ」と示したのは、ひろみさんの家の道路の向かい側のあたりだった。
その先、ひろみさんの家の隣(と言っても隣接しているのではないが)が菅野みずえさんの家。通り門はすっかり藤蔓に覆われて、その奥に在る家屋はすっかり隠されてしまっている。「この通り門は解体されることになっています」と言いながら今野さんは先に立って、その奥へ行く。「木や草に触らないで下さいね」と言いながら、ポケットから鍵を出して母屋の玄関の戸を開けた。みずえさんは原発被害の実態を見学者に知ってほしくて、自宅を公開して今野さんに鍵を預けているのだ。
上り口にはスリッパのそばに「中に入ったらすぐに、玄関の戸を閉めてください」と書いた紙が置いてあった。風と共に運び込まれる汚染物を、できる限り防ぐための注意書きだ。スリッパに履き替えて部屋に上がると、そこに置かれた空気清浄機が緑のランプをつけて稼働していた。
みずえさんのこの家は元の家を手直ししたものだが、それは馬屋と繋がっていた古い竈のある台所を潰して、床と渡り廊下、縁側を取り外して耐震強化し、台所を作り直しただけで、それ以外は嘉永時代に建てられたと言われている昔ながらの家屋のままだ。
大きなテーブルがある居間の向こうの台所は、流しも調理台も使いやすそうな工夫がされていて、これからの生活を思い描いての設計だったことが窺えた。
隣の部屋との境の戸を開けると、目に飛び込んでくるのは太い梁の上の神棚だ。この神棚は2階から拝するようになっていた。みずえさんに聞くと、1階で養蚕をしていたためだそうだ。耐震のために1階を嵩上げしたため神棚は以前よりは低くなったという。
神棚の部屋の隣はいろいろ物が置かれていたが、そこはこれからちゃんと直して、息子が結婚して住めるように造っていく筈だったが、叶わずに終わってしまった。
嘉永時代から繋がるこの家を、リフォームに当たってくれた大工さんが「この家がこれからまだ100年は持つように」と丁寧に直してくれたことを思うと、更地にするのは申し訳なくこの家を残すと決めたと、以前みずえさんは言っていた。
だが、この家で生活することは叶わない。ここは特定復興再生拠点区域内だから、国は住むことを禁じてはいない。しかし原発事故で一番の問題は被曝問題だと誰よりも深く考えるみずえさんは、この家を借りて住みたいという声があったのも断った。
以前にみずえさんが言ったことがある。「地域の人に大切に育ててもらうはずだった息子の子は、津島の家を知らぬまま、地域の宝と大事にされて育つことを知らぬまま、街の子として育つ。それが何より悔しい」と。
玄関で靴に履き替え外に出て、今野さんが鍵を閉めた。私たちは誰もが無口だった。言葉が出せなかった
赤宇木への道で家屋を見かけたHさんが、「(あの家には人は)住んでいないのですか?」と問うたのに答えて今野さん、「廃屋です」。辿っているのは帰還困難区域の周辺だと承知してはいても、今もそこに暮らしがあるかのように家屋がそのまま形状を保っているのを見て、Hさんは思わず問うてしまったのだろう。
原発事故によって、私たちはとてつもない不条理を見せつけられている。生活するには危険な地域は暮らしの痕跡がそのままにして置かれ、それは野生動物に荒らされ、また、繁茂する植物によって崩れ朽ちていくことはあっても、人の手で消されることはない。一方、国がもう大丈夫だからから戻ってくるようにと喧伝した地域も、実は今まだ危険であることを知っている住民は戻らずに家屋解体をした。住めない地域に家屋が残り、住めるとされた地域の家屋は消えた。
すべて国策
今回は帰還困難区域内の住宅には入らず、特定復興再生拠点区域内の何カ所かを訪ねた。いつもの被災地ツアーでは、時間的に無理があって寄れずに過ぎる開拓記念碑にも行った。
津島は縄文時代から人の暮らしがあった地域だ。自然が豊かで狩猟・採集で生きていくことが可能な地だった。だから1000年以上前から先祖代々がここに生きたという住民も少なからず居る。その一方では、戦後開拓で380戸余りが入植したという。
この記念碑は、そのことを記念してつくられたものだ。「津島開拓記念碑」として御影石だろうか、大きな石に「昭和20年8月大東亜戦争の終結により」に始まる碑文が刻まれ、その石碑の下にはもう一つ黒曜石の「開拓記念碑建立者名簿」の石碑があった。
石碑を前にした惠子さんが、「すべて国策」と、つぶやくように声にした。そう、この開拓事業も国策だった。1945年11月、政府は「緊急開拓事業実施要領」として敗戦後の食糧増産、復員軍人・海外からの引揚者・戦災者らの就労確保のため5年間で100万戸を帰農させ155万町歩の開墾と10万町歩の干拓、米に換算して1,600万石という計画を挙げた。
そうして津島は、先祖代々ここに住み着いていた人たちと戦後入植した人たちが共に、祭りや地域のさまざまな作業にあたり「ふるさと」を築いてきた。そうした暮らしの営みも地域の歴史や文化もすべてを原発事故が奪ったが、その原発事業もまた国策だった。
開拓記念碑のすぐ近くに建立された立派な石碑には「今野美寿翁頌徳碑」と、津島村初代村長を顕彰する文字が刻まれていた。現在の行政区は浪江町津島地区だが、1956年に旧浪江町、大堀村、苅野村と合併して新制の浪江町となった。石碑からはそんな歴史も窺えた。木立の葉の茂みから鶯の声が響いていた。
特定復興再生拠点区域・町営住宅
特定復興再生拠点区域は津島地区のわずか1.6パーセントだが、区域内は除染されている。そこには役場機能の津島支所があり、福島再生賃貸住宅と称する町営の賃貸住宅が10戸建てられ、帰還を希望する住民と新規に移転して来る移転者を受け入れている。現在2戸に帰還者が、7戸に移転者が入居している。
私はこの住宅ができて、「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」(津島訴訟。津島地区の住民らが東京電力と国に地区の原状回復などを求めた訴訟)原告である国分晶子さんと石井絹江さんが入居してから、何度かこの地域を訪れ二人の家の前を通っていた。最初に通った時には、晶子さんの家の玄関前には鉢植え用のポットと移植ゴテが、絹江さんの玄関前には鉢植えのベゴニアが置いてあった。私が「お二人は今、家にいるかしら」と言うと今野さんは、「いや、居れば車がある筈だから、今日は居ないでしょう。二人とも避難先の家とここと、その日の予定によって行ったり来たりしているんですよ。晶子さんは役場職員の長男が津島支所勤務になったから、ここに入ることにしたみたい」と言った。
今回は晶子さんの家の前に車があり在宅している様子だったので、ドアホーンを鳴らした。晶子さんが答える声がしたので今野さんがドアを開けて「話を聞かせて」と言って私たちは中に入り、それぞれ挨拶をした。私は津島訴訟の支援で何度か晶子さんにお会いしているし、裁判傍聴では晶子さんの意見陳述も聴いていた。だが、個人的に言葉を交わすのは、この日が初めてだった。
晶子さんは初対面の惠子さんとHさんが居るので、ここに至るまでをかいつまんで話してくれた。晶子さんは津島出身で、結婚後は津島で国分商店という食品店を営んでいたが、婚家を離れた後、3・11の2年前からは仙台に住んでいた。震災後はさらに神奈川県、そして東京都の三宅島と移り住み、三宅島では介護の仕事に就いた。定年で働けなくなった時に福島県に戻り、相馬市に住んでいたが、浪江町職員である長男から津島に戻らないかと声をかけられ、避難指示解除になった2023年4月からこの住宅に入居した。
話をしながらふと、晶子さんは「暑いですね。いつもはこの西側の窓は絶対に開けないのだけれど、風が通るようにちょっと開けますけどいいですか?」と言い、窓を開けた。玄関口の方へ風が通り抜け、涼しくなった。
普段西側の窓を開けない理由は、そちらは未除染のエリアが広がっているからだ。道路はずっとつながっており、除染されたエリアと未除染エリアの境には壁も印もない。風はいつも風向を定めて吹くわけではない。でも、住宅内には洗濯物を戸外に干している家もあった。
晶子さんも絹江さんも特定復興再生拠点区域は除染されていても、それは津島のほんのわずかな地域にすぎないということをよく承知している。だから晶子さんは、花を植えたりと地区内の整備を心がけて働く日はここで寝泊まりするが、避難先である相馬の介護施設での仕事もあるからそちらで寝食する日も多い。絹江さんは避難先や他の何ヶ所かに畑を借りていて作物を作っているから、常時この家で寝泊まりするわけでなく避難先で過ごすことが多い。
つまり、二人とも、ここは暮らしの根っこではあるが、生活の拠点にしてはいない。だがこの住宅には、子どもがいる家族や、ここに生活拠点を置こうと移住してきた人たちも住んでいる。そうした人たちが「普通」に暮らしているのに驚くが、晶子さんは「いろいろな事情があってのことだろうけど」と言う。それを聞きながら、子どもがいたら私ならここには来ないだろうと思った。
東京・有楽町の交通会館の中に移住相談センターがあり、移住希望者に移住先の紹介をしているが、特定復興再生拠点区域への移住は引っ越し費用の支援や子どもの学費免除などのサポートがあり、その他にも特典があるらしい。だが、汚染の問題などは説明されることはないという。良いことばかりを聞かされて深刻な問題は隠される。酷い話だ。
繋がりを結び直せる場を
晶子さんの家を辞してから、松本屋旅館の前を過ぎる。津島訴訟原告団長の今野秀則さんの家だ。街道筋にある旅館は、かつては旅人や行商人に眠りの場を提供し、地域の人たちの宴会の場にもなっただろう。
被災後はお彼岸やお盆の墓参りに親族が集うばかりだが、ここが特定復興再生拠点区域内となった時に秀則さんは、この家を残すか解体するかで、きょうだいとその子どもたちにも意見を求めた。誰もが「残したい」と言った。墓参りの時にここで会えるのに、ここがなくなったらきょうだいであっても、なかなか会えずに過ぎてしまうと言い、もしも秀則さんが亡き後に解体せざるを得なくなったら、その時に残っている親族で責任を持つとも言ってくれたそうだ。
松本屋旅館の前を過ぎる時に、車を運転してくれている今野寿美雄さんは、「津島のシンボルとして残すんですよ」と言った。原発事故による避難で、住民同士がきょうだいであってもバラバラになってしまった状況下で、シンボルとしての存在は大きな意味があると、私は思う。
そしてまた、「顔を合わせて元気でいることを確かめ合う場」は、とても大事だと思う。晶子さんは、裁判について「バラバラになった人を繋いでいるのが裁判だ。目的が一つで繋がり、集まる」と言っていた。私は裁判の傍聴に行くといつも、原告団の皆さんがとても生き生きと楽しげな様子を見ていた。裁判を闘うのは気が重い事柄だと思うが、塞ぎ込んでいる姿は見たことがない。
バラバラになったコミュニティが再度つながり直す場を持つこと、とても大事なことだと思う。東京駅から福島までの新幹線の中で、惠子さんがふと漏らした言葉が脳裏に浮かぶ。「自然災害での避難と違って、原発避難は一方通行だから」。
請戸川水力発電所
114号線を進み熊ノ森山入り口を過ぎるが、やはり津島訴訟の原告である関場健治さんの家へ行く橋はもうすっかり青草に覆われてしまっていて、道も、その先の健治さんの家も全く見えない。草にのみ込まれてしまったようだ。
大柿ダムを過ぎると今野さんはハンドルを、つと左に切った。あれ? と思ったら「今日は特別に、一枝さんにも初めての場所を見せます」と言い、渓谷沿いの道を進んだ。目の前の森がひらけて空が広がり、セメント張りの斜面の壁が現れた。請戸川水力発電所で、ロックフィルダムだという。今年の5月21日に竣工したばかりだそうだ。
大柿ダムは農業用ダムなのだが、農業用ダムの施設内に作られた水力発電所は、相双地区では初めてだそうだ。「アクアコネクトなみえ」(本社は横浜市)が、既存の水利施設を利用して水車を回して発電する施設だ。1400kW、一般家庭1700世帯相当分の発電を想定し、すでに発電を始めているという。だがダムが満水状態でないと機能しないということも耳にした。天候によっては渇水状態の時もあるだろうが、果たしてこの水力発電所は安定した電力供給ができるのだろうか。
今野さんも報道を見て初めて知ったと言い、「上の道(114号線)を通るたびにいつも工事車両が行き来して、下で道路工事でもしてるのかと思ってたら、これを作ってたんですね」と言った。地元の人も知らない間に、浪江はどんどん姿を変えている。
114号線に戻る渓谷沿いには、ガマズミが咲いていた。
おれたちの伝承館へ
惠子さんのもう一人の友人Aさんとは、6時に双葉屋旅館で落ち合うことになっている。途中、「希望の牧場」の前を通ったが今回は寄らずに、草を食む牛たちを車窓から見て通り過ぎた。「おれたちの伝承館」に着いた時には、6時を回っていた。惠子さんがAさんに電話を入れると、なんとAさんは今「希望の牧場」に居るというので、では「おれ伝」に来てくれるよう伝えた。
程なくAさんばかりか「希望の牧場」の吉沢さんも一緒に現れた。久しぶりに会う吉沢さんは元気そうで、でもいつものように立て板に水を流すような勢いの口調ではなく静かな話し振りだった。
皆それぞれに館内の作品に向き合い鑑賞し、そしてまたそれぞれに思いを胸にしまったまま1時間ほど過ごした。いつの間にか吉沢さんは帰ってしまったのか、姿は消えていた。
「私の体は福島の土で出来ている。心は福島の風と森の匂いで出来ている」。展示されている惠子さんの布絵に、そんな言葉が添えられていた。私は、やっぱり惠子さんのこの布絵がここに展示されて良かったと、改めて強く思うのだった。惠子さんは今回刷り上がったばかりの3作目の冊子『風にとむらはれて』を持ってきてくださった。そこには、こんな詩が載っていた。
ミミズが土から這い出てきたよ
踏みつぶすかい
ミミズは土を耕してくれたんだよ
役割があったんだよ
人間はミミズに感謝しなくちゃ
感謝の気持ちは
人間をおおよそ幸せにしてくれるから
おおよそ
人間が幸せになることを考えていけば
おおよその物事が解決していくんだよ
身勝手に思えるかい
そうじゃないよ
例えば黒い雨裁判
線引きをして一定の人だけ認定する
雨に当たったすべての人を認定する
どちらが幸せな人間を沢山作れるだろうか
おおよそ幸せにするには
すべての人を認定した方がよい
戦争で人間はおおよそ幸せになれない
けど ウラン弾をたくさん作って撃ち込んで
大儲けしたヒトは
おおよそ幸せと思ったかもしれない
でも そういうヒトは
すでに人間じゃない
ミミズは そう呟いて
涙を流しながら
土を耕していたよ
(2021年8月6日 ヒロシマ原爆忌)
惠子さんの根っこ
「おれ伝」を出て双葉屋旅館に荷を置いて、今野さんの車で惠子さん、Hさん、Aさん、私で、惠子さんのご実家に行った。歩けば15分か20分ほどの距離で、線路の反対側だったが小高駅にほど近いところに惠子さんの実家は在った。94歳になるお母さんと弟さん夫婦が住んでいる木立の中の瀟洒な住まいだった。ここは20キロ圏内なので一旦はお母さんたちも避難していたが、その間に地震で損壊した家をバリアフリーに建て直し、避難指示解除された時に戻ってきたという。
「ただいま」と帰る惠子さんと共に私たちもお邪魔すると、お母さん、弟さん夫婦の皆さんで迎えてくださった。通されたリビングルームにはグランドピアノがあった。テーブルを囲んで座った私の向かい側のソファには、お母さんと惠子さんが並んで座った。その2人の顔が、全く「瓜二つ」と形容できるほどよく似ていて、お二人を目の前にしている私は、なんだか幸せな心地だった。
惠子さんの両親は先生だったというし、弟さんも既に定年で退職しているが高校の先生だったそうだ。義妹さんは元NHKのうたのおねえさんだったが、今も声楽家として活躍しており、明日もリサイタルがあるのだという。それでピアノがあるのだった。義妹さんはお料理も得意らしく手作りのケーキやお菓子を次々と出してくださり、夕食前というのに、美味しくいただきながら、しばしの歓談の時を過ごした。帰りしなに惠子さんから、お母さん手作りの端切れの小物入れ袋、手編みの鍋敷をそれぞれ頂いた。明朝は弟さんが惠子さんを双葉屋旅館まで送ってくれることになり、私たちはお暇をした。惠子さんは、今夜はお母さんと枕を並べて眠ると言った。
被災前には惠子さんは、今のような形で布絵を作ることはなかったし詩を書くこともなかったという。おつれあいの勝彦さんの弁によると「あの大震災が起こるまではごく普通の専業主婦でした。和裁・洋裁が好きで自分の服は殆ど自分で作っていました。そして震災の2、3年前から裁ち屑や端切れを使って、暑中見舞いや年賀状用に布絵を作っていましたが、私から見てもそれほど感心する出来ではなかったし、ましてや詩を書く姿等は見たこともありませんでした。しかるに、こちら琵琶湖畔に避難してからは捨てる古着や裁ち屑を使って、古里を壊され帰れないことへの心の鬱屈をぶつけるかの様に布絵を作り始めました」という。
理不尽なこと、不条理に対しての激しい憤りが、破壊的な怒りではなく布絵・詩作という形で発露したのだろうか。ご実家を訪ねお母さんに会って、惠子さんのこの才能の根っこは幼い日からのこの家族での暮らしにあったのだと、私は思った。
避難先の大津市の家に惠子さんを訪ねた時のことだ。「これは母が取っておいてくれた、私が小学1年の時の絵日記です」と、その絵日記を見せていただいた。小学1年生の絵と思えぬほどの観察力で細かいことまで描かれた絵、しっかりした文章。惠子さんの才能はこの時期から既に花開いていたと思えたが、同時に、1年生の娘の絵日記をこうして大事に保存していたお母さんの感覚の確かさをその時にも思った。そして今日もまた、同じことを思ったのだった。
6月20日
朝散歩
私は双葉屋旅館へ泊まった翌朝はいつも、同慶寺まで朝散歩をする。歩き方が早く、いつも朝の6つの鐘が響く前に寺に着いて帰路についてしまうので、この日は5時半過ぎにゆっくり出かけた。小高川の川岸の土手には、ノカンゾウ、ヤブカンゾウ、アザミ、ムラサキツユクサなどが繁茂した青草に見え隠れしていた。帰りに摘んで戻ろうと目星をつけて歩いた。同慶寺に着いて、藤島昌治さんのお墓にお参り。これが目的での朝散歩なのだ。
お参りを済ませ鐘楼の方へ向かった時に、鐘の音が響いてきた。駐車場には住職の徳雲さんの車は無かったから、坊守さんが撞いておられるのだろう。2つ目が鳴りはじめたときに鐘楼に出て、坊守さんと挨拶を交わした。坊守さんから「鐘を撞きませんか」と声をかけられ「はい、撞かせてください」と答えた。坊守さんは3つ目を撞きながら「よかった。私は出かける用事があるので、お願いしますね」と言い、4つ目は私が撞くのを見守って、「あと5つ撞いてください。お願いしますね」と言い、自宅へ戻って行かれた。
ゴーンと響く鐘を撞いて、なんだか晴々とした気分になって帰り道を辿った。行きに目星をつけていた花を手折り、花束を握って双葉屋旅館に戻った。小さな瓶に挿して食堂のテーブルに飾った。朝食を済ませ、惠子さんも到着して、今日の予定地へ出発した。
鈴木安蔵生誕之地
鈴木安蔵(1904~1983)は憲法学者で、戦後は高野岩三郎らと憲法研究会を結成して「憲法草案要綱」を作った。この要綱は、冒頭に「日本国の統治権は日本国民より発す」と国民主権をうたい、天皇を主権者とした明治憲法を否定することから始まる。また「国民は民主主義並びに平和思想に基づく人格完成社会道徳確立諸民族との協同に努むるの義務を有す」ともある。鈴木らのこの要綱は後の日本国憲法の基礎となったGHQの草案に影響を与えた。だから鈴木安蔵は、日本国憲法の間接的起草者とも言えよう。
その鈴木安蔵の生誕地が双葉屋旅館のすぐ近くにあることは知っていて、そこを通るたびに「ここが」と意識していた。以前はなんの看板もなく、知っている人が知っているだけの場所だったが、3年前に道路に面した側の建物の一部が解体撤去されて奥の旧宅部分が残され、更地になったところに「憲法学者 鈴木安蔵生誕の地」の標柱が建てられ、説明看板も設置された。
今建っている住宅は安蔵の義兄の鈴木武之介が大正後期に建てたとされるもので、安蔵もここで起居していた。武之介が勤めた林商会は薬品や酒などの商品を扱っていた。武之介は薬剤師の免許を取得して薬局の部門を譲られ、以後代々小高で林薬局の看板を掲げてきた。2011年被災前までは母屋に隣接して増設した店舗で武之介の子息・鈴木新樹氏が林薬局を営んでいたが、原発事故で避難指示区域となったため新樹氏も横浜市に避難した。
新樹氏が住居を解体する意向と聞いて、鈴木家とはかねてから旧知の間柄だった地元の漁師の志賀勝明さんは、歴史的業績を残した憲法学者が暮らした家を、なんとか残して欲しいと考えた。そして新樹氏と何度かのやりとりの末に鈴木家家族の理解を得て、取り壊しは店舗部分だけとして、由緒ある木造部分の母屋は残されることとなった。
志賀さんは自身が所属する「はらまち九条の会」に働きかけて運動を続け、また憲法学者らの保存を求める声もあり、2018年11月にこの旧家は国登録の有形文化財に指定された。それに力を得た志賀さんは友人知人にも呼びかけて、2020年に「鈴木安蔵を讃える会」を設立した。こうして木造平屋建ての鈴木安蔵ゆかりの家は志賀さんらの尽力で維持管理され、関係資料の保存と活用にも取り組まれている。
この日は、讃える会の事務方を務めているすぎた和人さんに建物の中の案内をお願いした。
玄関の鬼瓦には鈴木家の家紋の梅鉢が見られ、趣向を凝らして建てられたのだなと思った。玄関を入って正面の居間には神棚や仏壇があり、安蔵が連座していた俳句会「渋茶会」での短冊が壁に貼ってあった。奥の6畳間には丸窓があって、ここが書斎だったようだ。座敷の欄間の彫刻も見事で、置かれた家具や調度品も、時を経ていても大切に使われていたことが窺えた。そしてアップライトピアノがあることには驚いた。趣深く綺麗な状態の家屋だが、維持管理のために「讃える会」が最初に入った時は、シロアリ被害やカビなどがあって、シロアリの駆除と床下、床の修理、畳の新調などに、多額の費用がかかったという。
安蔵の功績は地元の子どもたちにもあまり知られていないので、「讃える会」ではその生涯を伝える催しや、さまざまなイベントなどを企画し、会場として建物を活用している。これまでに立正大学名誉教授の金子勝氏の講演、クリエイターでもあるすぎた和人さんの写真展やワークショップなどが開かれた。
この日の見学後に私も「鈴木安蔵を讃える会」に入会した。
1、名前、住所、電話番号を明記し、郵送・ファックス・メール、いずれかで申し込み
(郵送・ファックスは会長宛)
〒979-2533 福島県相馬市坪田字八幡前21 志賀勝明
Tel・fax:0244-26-4645 携帯:090-9530-5524
Eメール(事務局 山崎健一宛):yamazakiken@gmail.com
2、会費の納入
年会費:2000円
振込先:あぶくま信用金庫小高支店 口座番号:0292418
口座名義:鈴木安蔵を讃える会 代表者志賀勝明
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浦尻貝塚
浦尻貝塚は、南相馬市にある縄文時代の遺跡の一つだ。以前、南相馬の仮設住宅に通っていた時期には、自宅が浦尻だった人たちから話を聞くことも多く、また浦尻にも何度も行ったのに貝塚を訪ねたことはなかった。「浦尻に行った」と言っても、ごく限られた地域にしか行っていなかったということだろう。だから、福島に通い始めて14年目にして初めての浦尻貝塚見学だった。
貝塚は太平洋を見はるかす高台だった。眼下の平地は被災前には家や田畑が広がっていたのだろうが、津波を受けてか、あるいはその後に解体されてか、一軒の家が残るだけ。高台に登ると小さな建物があり、そこは貝塚観察館だった。土の斜面が展示され、その法面に貝殻や魚類の骨、木の実などが半ば埋まった様子が見て取れる。壁際のガラスケースの中には出土した貝殻や骨などが、名前と共に展示されてあった。
観察館を見学後に外に出るとそこが「縄文の丘公園」で、5700年前の縄文前期から2800年前の縄文晩期までの遺跡だった。旧い村(前期の集落)跡と新しい村(晩期の集落)とは少し離れており、旧い村が丘陵の高い側に在った。どちらもレプリカの建造物など置かれておらず、ただ緑の草原で、裸足で歩きたいような雰囲気だった。その緑の草地に住居や墓、木の実などの貯蔵穴があるのだった。胡桃の大木が作った木陰に風が渡っていった。
目を閉じて、縄文の人々が生きていた頃に思いを馳せた。採取で生きるために石器は作って持つが、武器はなく平和な暮らしだったのだろうなぁと想像する。彼らの生きた時代にも、津波は起きたことだろう。ここは高台だから波に襲われることはなかっただろうが、その時彼らは、どんな思いで海を眺めたのだろう。あるいは波が引いた後の浜辺で、打ち上げられた魚を食べることもあったのだろうか。縄文時代に生きたかったと思う。
その先へ
浦尻貝塚からガラリと変わって、福島イノベーション・コースト構想の各施設を見て、請戸小学校校庭の「帰れないカエル」とドローン自律制御型格納庫、F-REI(福島国際研究教育機構)建設用地、メガソーラー施設などを車中から走り見た。さらに、解体ラッシュの始まっている双葉町を抜け、大野駅前に建設中の大野病院を見て過ぎる。帰還する人はごく僅かしかおらず、未だ放射線量が安全とは言い難い病院に、わざわざ診察を受けにくる人がいるだろうかという今野さんの説明に、惠子さんもHさん、Aさんもため息が出るばかり。
夜ノ森の桜並木を通って板倉正雄さんを訪ねたが、生憎なことにお留守だった。私は用意して持って行ったパズルの本や新聞切り抜きを入れた紙袋にメモ書きして、郵便受けに入れた。後になってからだが、惠子さん、Hさん、Aさん、3人ともが、板倉さんに会えなかったのがとても残念だったと言った。留守宅ではあったけれど、扉の閉じた家のようすを庭先から見て、板倉さんのお人柄を思い浮かべたのだという。家の佇まいにも、住む人の人柄が現れるということなのだろう。
宝鏡寺「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ伝言館」
宝鏡寺のご住職だった故・早川篤雄さんと、惠子さんのお連れ合いの勝彦さんはかつて、福島第二原発差し止め訴訟を共に闘ってきた仲間だ。その頃は二人とも勤め先は別だったが高校の教師だった。今回のツアーに勝彦さんもお誘いしたが、残念ながら体調が芳しくないとのことで、叶わなかった。
この日は事務局長の丹治杉江さんが先約があるために4時半には退出の予定と聞いていたが、私たちが着いたのが4時。丹治さんは、ここを開館させた早川さんの意思をなんとしても伝えようと、あのよく通る声で壁のパネルを示しながら説明してくれた。3人は説明も聞きたいが館内の展示物も全て見たいようで、少し戸惑いながら展示物を見ていった。
大急ぎの伝言館見学だったが、私たちは丹治さんと共に館を出て、丹治さんは丹治さんの用事がある方へ、私たちはこの日の宿、いわき市の古滝屋へ向かった。
古滝屋 里見喜生さん
宿に着いたのは6時前だったので、食事の前に9階の「原子力災害考証館」「子どもと原子力災害 保養資料室《ほよよん》」を見学した。この日は2階のレストランが団体客でいっぱいだったので、古滝屋当主の里見喜生さんにおすすめの町中華の店へ連れて行っていただいた。同じ町内のことでもあるし、里見さんは店主と知り合いのようだった。
2人掛け、4人掛けのテーブルは先客がいて8人掛けの大テーブルにも、男性が一人いてチャーハンを食べていた。私たちは6人。大テーブルの男性は「移りますよ」と言ってテーブルの端の席に移った。里見さんも今野さんも、「いや、いや一緒にやりましょう」と男性に声をかけた。そしてビールを勧めたが「いや、僕車なんで」と、男性はビールは断ったが、「じゃぁ餃子を一緒に食べましょう」と里見さんは言いながらメニューから餃子の他にも何品かを注文した。
惠子さんも他の2人も、里見さんのそのさりげない心配り、店にも先客にも配慮した注文の仕方に感心することしきりだった。また今野さんも如才なく座を和ませる人だから、先客の男性も私たちもすっかり馴染んで、なんだかとても快い夕餉の時を過ごした。
6月21日
町中華で夕食を食べた翌朝、出発前のひと時をまた、私たちはロビーで里見さんと歓談した。惠子さんが持参した中からたった1冊だけ残っていた3作目の冊子『風にとむらはれて』を、里見さんに差し上げた。里見さんは礼を言ってページを繰って中を読み、即座に書棚に表紙が見えるように飾った。
それから私と惠子さん、Hさんは湯本駅まで今野さんに送ってもらい、常磐線で帰った。Aさんは自家用車を置いてきた双葉屋まで今野さんの車で一緒に戻り、もう一度じっくりと「おれ伝」を観て、駒ヶ根の自宅に戻って行った。
帰る日の朝、里見さんが3作目の冊子を書棚に飾ったことに惠子さんはとても感激していたけれど、これには後日談がある。
惠子さんが帰宅してから何日後かのこと。見知らぬ人から、『風にとむらはれて』注文の電話があったそうだ。まだ発刊したばかりで宣伝もしていないので不思議に思った惠子さんが、「どこでお知りになったのですか」と尋ねたら、「古滝屋さんに泊まった時に本棚にあったのを見て、手元に欲しくなりました」と答えが返ったという。
惠子さんからこの知らせを聞いて、私もとても嬉しかった。
旅の終わりに
惠子さんと一緒に行きたかった小高の旅だった。考えさせられることは多々あった。
私はなぜか「小高」という地に、心惹かれている。2011年夏に南相馬に通い出し、原町、鹿島、小高の市内の3地区を何度も行き来しながら、小高には特に親しみを感じてきた。2011年は小高はまだ避難指示地区に指定されていて入ることができなかったが、2012年4月16日に指示解除になって日中だけ入れるようになった。初めて入った小高は、地震と津波の被害がそのまんま残っていた。痛ましい思いでその光景を見ながらも、でもそれらから被災前の姿を思い浮かべることができた。たとえば倒壊した瓦屋根の立派な建物を見れば、その建物がそこに建っていた時の姿を想像できた。土台しか残っていない住居跡を見れば、そこに家屋があったことは知れた。道路とスレスレの浅い海面を見れば、そこが干拓地で田んぼだったと理解できた。
そのうちに津波と地震による損壊は徐々に片づけられ修復され、復興の様子を見ることになった。他の地域で感じるような、「復興とは名ばかりの経済優先の再開発」とは異なる小高の復興を感じていた。
今回一緒に小高を巡っていた時に惠子さんが、ポツリと言った言葉が、私を捉えている。「なんだかあちこちに、見えない墓標が立っている」と。
私の見方は甘いなぁと、感じた。生き生きとした息吹溢れる小高には、まだまだ戻っていないということだろう。たぶん惠子さんは通りを行き交う人の姿を思い浮かべ、その話し声を耳に蘇らせたのではないだろうか。私には、それらを想像することができなかった。でも私は、これからも小高を見ていきたいと思っている。