第91回:大鹿村へ──ウーテさんとの出会い(渡辺一枝)

大鹿村へ行ってきた

 長野県の下伊那郡にある大鹿村へ行ってきた。村に住む友人スマ子さんに呼ばれてのことだった。
 スマ子さんからの招きは、彼女が主催している「森のこかげでどんじゃらホイっ!」祭りで、私に「戦争」の話をして欲しいということだった。祭りは数年前から続けているが、今回はコロナ禍を挟んで久しぶりの開催だそうだ。若者たちが集い、歌い踊って楽しむだけではなく、大事なことを考えるきっかけを作りたくて始めた祭りなのだという。これまでにリニアや原発、ヘイトなどについて問題提起してきたそうだ。断る理由など、私には無い。むしろ、喜んでいきたい誘いだった。
 大鹿村へは数年前にも、やはり村の住人M氏に乞われて行ったことがあった。そのときは村内で建設工事が進むリニアに反対している仲間たちにチベットの話をして欲しいとの要請だったが、「大鹿村へ」という思いがけない話に、心弾んだ。
 というのは、ファンだった俳優の原田芳雄さんが主役を務めた映画『大鹿村騒動記』が心に残っていたからだ。その映画で知った、古くから村に伝わる地芝居の「大鹿歌舞伎」にも興味があった。リニア反対の人たちになぜチベットの話を? と、その唐突さに訝りながらも、チベットについて話せることにもまた心弾んで出かけた。
 そのときは、リニア反対の集まりならと、チベットでの鉄道工事の話をした。工事中のこと、敷設後の自然環境や暮らしの変化などについて話した。翌日は、M氏に工事箇所を案内してもらい、リニアに反対する意思を一層強くして、東京へ戻った。
 そして今回、スマ子さんから誘われた2度目の大鹿村行き、リニアの工事がその後どのようになっているのかを確かめたくもあった。

渓谷沿いの道

 祭りの会場はキャンプ場なので寝袋を持参するようにと、スマ子さんには言われていた。持っていなければスマ子さんが貸してくれると言う。私の寝袋は冬のモンゴルやチベット行で使ってきたもので、真夏の日本では、いくらか標高が高い場所とはいえ不適だと思えたのでスマ子さんに伝えると、管理棟の畳の部屋には布団もあると言う。それなら袋状のシーツを持参するので、管理棟で布団に寝たいと伝えた。
 「9:05新宿発、12:49松川着の高速バスに乗車して欲しい。松川に迎えが行くから」とも言われていて、バスタ新宿からバスに乗った。満席だった。夏休み中の土曜日で中央高速道は大渋滞。途中休憩場所の双葉サービスエリアに着いた時には、時間は既に12時を回っていた。運転手さんに松川到着は何時頃になるか問うと、2時間ほど遅れての到着と言われ、スマ子さんにその旨連絡した。
 運転手さんの言葉通り2時間遅れで着いた松川には旧知のミドリさんの笑顔があった。彼女も大鹿村の住人だ。
 ミドリさんの運転で渓谷沿いの道を行くが、数年前にM氏に案内されて辿った時よりも状況は進んでいて、河原に土砂が積み上げられた箇所が増えていたし、リニアのためのトンネル掘削が始まっていた。また村への主要路は少し道幅を広げられた部分もあり、崖に沿った道を行かずに済むようなトンネルもできていた。ミドリさんは、「通りやすくもなったけれど、それは工事が休みの土日だけで、工事の日はしょっちゅう大型ダンプが通るから、却って大変」と言った。それを聞いて私は、福島と同じだなと思った。道幅拡幅もトンネルも住民の便を考えての事ではなく、工事車両のためだったらしい。もちろん結果的には、後になれば住民にとって便利にはなるのだが。
 なかなかキャンプ場に着かず、ミドリさんも「キャンプ場がどこにあるか知らないのよね。この道で良いと思うんだけれど」などと心細いことを言う。2時間ほど走った時に矢印とともに「どんじゃらホイっ! 会場」と書いた看板を見て胸を撫で下ろした。ここまでの間に私たちは、こんな山の中に来る人はいるのだろうか、車がないと参加できないねなどと話しながら来たのだが、広い駐車場は満杯だった。県外ナンバーの車も少なくなかった。そこに居たスタッフに、もう少し先の受付の辺りにも駐車スペースがあることを聞いて、そのまま上に進んだ。受付に着いた時には、時刻は4時数分前だった。

「どんじゃらホイっ!」祭りの会場は

 会場の「大鹿キャンプ場ストリーム深ヶ沢」は、青木川上流の標高1000mの森の中だった。私はスマ子さんに挨拶し、スタッフに紹介された。管理棟の部屋に荷物を置いた後、ちょうど受付にやってきた女性にも引き合わせてもらった。ウーテさんというドイツ人で、明日、講演をする人だと言う。ウーテさんの家はこのキャンプ場のすぐ上にあるそうだ。水墨画を描く人だそうで、この管理棟にも彼女の水墨画が飾られてあった。ウーテさんと短く自己紹介の挨拶を交わしてから私は、出番の7時までは自由に過ごした。
 ここに着くまでにミドリさんとは、こんな山奥に来る人がいるかと案じていたのだが、森の中は大賑わいだった。そこここにテント出店があり、焼きそばやコーヒー、カレー、地ビールなどの飲食店も多数出店しており、カレー店だけでも複数店あった。白地のお面に自由に色付けしたり絵を描いたりできる店、古着のリサイクルショップ、手作りのアクセサリーや陶器や木彫品、整体やカッピングの店、ほかにも多彩にあった。道筋にある出店の奥の方には、参加者たちのテントが思い思いに立てられていた。
 木立が途切れた少し広い場所に、川原を背にして大きなティピーテントが立っていた。テントの前には音響設備が設えてあり、そこがメインの舞台だった。舞台の前の木陰には椅子や布製のベンチが置いてある。20人ばかりの人が舞台を向いて座り、若い女性がギターを鳴らしながら歌う自作の歌に耳傾けていた。空いたベンチに私も腰掛け、聴き入った。
 何曲か歌った中で「お母さん」というタイトルの歌が素直に心に響いた。ある日学校から帰ったら、家に見知らぬ女性がいて、母親の長い髪をカットしていた。大好きなお母さんの大好きな長い髪を見知らぬ女性が切っているのを見てショックを受けた彼女の心境を唄っていた。お母さんがあの長い髪を切るなんて、私は聞いていなかった、大好きなお母さんを知らない人が触っていることが嫌だった、私の知らないお母さんみたいで嫌だったと、幼かった日の出来事と、その時の自分の気持ちを歌っていた。ほかにも何曲か歌う間に、客席からは指笛や掛け声が掛かっていた。
 舞台を離れて会場を散策して歩いた。若者や子どものいる家族連れが思い思いに過ごし、子どもらは上半身裸で森の中を駆け回っていた。広い森の中で出会う人は誰もが楽しげで幸せそうな様子で、なんだか60年代のヒッピー集団の中に紛れ込んだ気分で、私自身も心弾んだ。ヒッピーに憧れながらヒッピーになれなかった若い日を思い出し、あの頃の自分を抱きしめてやりたい私だった。なぜもっと、自分を自由にしてやれなかったんだろうと、苦く思い出す。
 プログラムは音楽やダンスが主だったけれど落語もあった。それまでの舞台は大地の上だったのだが、落語の時間になると少し低い台が組まれて赤い毛氈が敷かれ、紫の座布団がその上に置かれた。語る落語家は師匠について学んだことのあるという若い女性で、夏だからと「牡丹灯籠」を演じた。名前は失念したが、枕から入っての話もとても上手で、会場は大受けだった。投げ銭箱には観客からのお捻りが、間をおかず入れられた。

管理棟の畳の部屋で

 プログラムが進んで7時になった。綺麗な夕焼けが広がっていた。私はティピーテントの舞台ではなく、管理棟の畳の部屋の広間で話した。10代後半から70代まで三十数名が集まってくれた。車座のように座った中で私は、「満州・チベット・福島」と、自分の足で歩いてきた地で、見てきたこと聞いてきたことを話し始めた。
 話し出して間もなく、ウーテさんが部屋の扉を開けて顔を出すと同時にスマ子さんに向かって言った。「今ここに来る時に、子どもらが(おもちゃの)銃で撃ち合って遊んでいるのを見た。平和を願う祭りだと聞いていたのに、あれを見たら私には、明日ここで話をすることができない」と。
 座は一瞬緊張感に包まれた。言葉を遺して部屋を出て去っていくウーテさんを見送りながら、スマ子さんは動揺した顔を隠せず「どうしよう」と呟いた。私はウーテさんとふと目を合わせた時に会釈をして、そのあとはまた私自身の話を続けた。
 私が生まれた満州は、植民地を偽装国家に仕立てた日本の傀儡国家だった。それは、成長過程で歴史を学び、大人になってから実際に“満州“を訪ね、歩いて、今そこに生きる人たちからあの時代のことを聞く中で、頭の知識ではなく腑に染みる実感として思うようになったことだ。
 そして、満州に通い始めた頃と同時に通い出したチベットで、自然やそこに生きる人たちの暮らしに強く惹かれながら、彼らが置かれている政治的状況に思いが及ぶと、かつて日本が中国やアジアの国々に対してやってきたことと同じ仕打ちを、中国政府はチベットやウイグルなど少数民族に対して行なっているのだと強く感じてきた。チベットに通えば通うほど、その大地や自然に、またそこに生きる人たちになお一層惹かれ、同時に彼らが置かれている状況に胸が痛み、そうした状況を生み出している政治状況に強い憤りを覚えていった。
 そして今通い続けている福島。「復興」を掲げた福島イノベーション・コーストについて、また帰還困難区域という「帰れない地域」の中に、特定復興再生拠点区域と銘打たれ、飛地のようにポツンと作られた「帰れる場所」のことを、私は話した。
 放射能に汚染された故郷に、自宅に、今も戻れずに国内避難民となった人たちが数万人いる福島。復興と称して多額の国費(税金)を注ぎ込んで造られるハコモノは、経済を優先したものばかり。被災者、避難者の支援には結びつかないばかりか、彼らは切り捨てられていくばかりだ。
 特定復興再生拠点区域内は除染して、住民が帰れるようにするという。だがその周辺は未除染で、除染した地区内に病院や商店、学校など生活に必要な施設は無い。帰還者が少ないからと、国は移住者を募集している。移住者は引っ越し費用や移住先の家賃など手厚い支援を受けるが、住居のすぐ外側には放射線量が高く危険な場所があることは伝えられないまま。かつて人々が「満州開拓」と送り出されたように、今は「復興開拓」として移住者が集められている。
 そもそもが、原発は建設計画時点からして、経済的に貧困で過疎な地域を狙って「絶対安全」の虚言のもとで造られてきた。ここには植民地思想と同じ目線があると、私には思えてならない。
 今まさに戦争状態にあるウクライナやガザの問題も同様に、強者による植民地主義が根にあることを話した。そして私自身の中に、植民地主義に繋がるような差別思想がないだろうかと、いつも自分に問うていることを話して終えた。
 参加者からは様々に反応が返った。祖父母や親族が満州開拓移民だった人や、チベットに関心がある若い女性、福島は「復興した」と思っていた人や、家畜牛を飼育する若い農業者などから感想や質問・意見をもらった。
 会が終わってからスマ子さんと、先のウーテさんの発言について話し合った。スマ子さんは後でウーテさんと話し合うつもりだと言い、私は明日予定されているウーテさんの講演は内容を変更し、スマ子さんがさっきのウーテさんの言葉を伝え、それについてみんなで考える会にすることを提案した。 
 メイン舞台のティピーテント前の広場では、盆踊りが始まっていた。やがて和太鼓ではなくアフリカの太鼓のリズムになり、焚き火を囲んでいた大勢は、今度は盆踊りではなくそのリズムに乗って思い思いに踊り、手拍子を叩いた。
 広場のすぐ上手の山中にウーテさんの家がある。太鼓の音は彼女の耳にも響くだろう。どんな思いで彼女は聞いているだろうかと思った。
 広場から抜けて部屋に戻る時に見上げると、満天の星。手が届きそうなほどに近く煌めく星、星。こんな星空を見るのは何年ぶりだろう! チベットを、モンゴルを懐かしく思い出した。

「たかがオモチャ、たかが遊び」でなく

 翌朝、顔を合わせたスマ子さんは、さっきウーテさんに会いに行ってきたところだと言い、お互いに嫌な感情は持たずに話し合えたと言った。
 私は、この日は帰りに飯田市の櫻井こうさんに会いにいく予定だったので、昼頃にまたミドリさんに飯田市まで送ってもらうことになっていた。それまでテントの出店でコーヒーを飲んでゆっくり過ごしているとスマ子さんがやってきた。
 ウーテさんが話す予定だったプログラムの時間、昨夜の出来事をスマ子さんが話し、すると会場の何人もから快い反応が返ってきたと言う。そして、「子どもの遊びを禁じることには反対だが、でも『たかがオモチャ』とか『たかが遊び』で済ませることなく、遊びの内容について考えよう」とか、「自分の体験や生活環境からだけではなく相手の立場ならどう考えるかという視点を持つことが大事ではないか」など意見がいくつも出て、何か結論づけるのではなく、これからも互いに考えていこうということで話し合いを終えたと教えてくれた。話し終えると、また忙しそうに彼女は舞台の方へ戻って行った。
 その後、そろそろお昼近く、帰り支度をしていた時にスマ子さんが、「ウーテさんが一枝さんと話がしたいからここに来るって言っているから、帰らないで待っていて」と言いに来て、私は待った。

ウーテさん

 やがてウーテさんがやってきた。顔を合わせてすぐに私は、お礼を言った。「ウーテさん、昨夜はありがとうございました。大切なことに私たちは気付かせてもらいました」。ウーテさんは、「日本人の生活や習慣など私も知っているし、神経質かもしれませんが昨日は辛かった」と笑みながら答えた。そして私に「なぜあなたはチベットに行くのですか」と問うた。
 私は、自分が満州で生まれたこと、帰国後に大人たちの会話の中で「チベット」という言葉を聞いてその地に強く憧れを持ったこと、そしてチベットに通い続ける中でますますそこに惹かれながら、かつて日本が中国にしたことを今、中国がチベットにしていると感じていることなどを話した。私の話を頷いて、そして時には涙ぐんで聴きながら「ありがとう。ありがとう。あなたに会えて良かった」と言ったウーテさん。互いに手を取り合って「私こそ、ウーテさんに会えて嬉しかったです。また来ます。ゆっくりお話ししたいです」と言って、別れ難く別れた。
 そのとき聞いたところによれば、ウーテさんは第二次大戦中の1942年生まれ。19歳の誕生日を迎えた1961年8月13日に、西ベルリンの駅で東ベルリンに行く電車を待っていたのだが、電車に乗ることは叶わなかった。ちょうどこの日に、ベルリン市内に鉄条網の「壁」が作られ、東西の行き来はできなくなったのだという。
 後日知った話では、ウーテさんの家があった西ベルリンは、周りを東ドイツに囲まれた中にある西ドイツの飛び地、陸の孤島のような町だった。当時、毎日2000人以上が東ドイツから西ベルリンへ流出していたため、東ドイツは通行遮断のために、突如西ベルリン周囲を鉄条網で囲ったのだった。鉄条網はのちにコンクリートの壁になった。
 一方、父が持っていたドイツ語の本で日本の伝統文化や風景を見て日本に憧れたウーテさんは、日本学が学べるテュービンゲン大学に進学し、水墨画に魅了された。
 43歳の時に来日し浜松市に移住した。夫は浜松の大学で講師として働き、彼女は水墨画に没頭する生活だったが58歳で離婚。63歳の時に訪ねた大鹿村の深ヶ沢集落で作陶家の長崎富士哉さんの工房を見つけて、何度も足を運ぶようになった。長崎さんは備前焼の作陶家だったがとても優しい性格で、どんな命をも大事にする人だった。そんな長崎さんに惹かれて66歳で再婚し、15年間生活を共にした。1年前に亡くなった長崎さんは道でミミズ一匹でも見つけると、それを助ける人だったという。
 ウーテさんは今、築100年以上の古民家に一人で暮らすが、山奥なのでガス・水道は通っておらず、テレビもない。黒い固定電話があるのみだ。そこで7匹の猫と一緒に暮らし、猫部屋もある。敷地内の畑でトマトなど野菜を栽培し、台所のかまどで、羽釜を使って米を炊く。生活用水は山から引き、河原で拾う流木を集めて燃料にする。車があるから必要なものがあれば街に買い物に行くこともあるが、ほぼ自給自足生活だ。
 私が森のキャンプ場で初めて彼女に会った時、スマ子さんが彼女に「排水管は直った?」と聞いていた。ウーテさんは、「まだ直らない。水を止めることはできたけれど、管を繋ぐ材料がなくて、古いものだから手持ちの材料では合わなくて、管そのものを変えなきゃならないみたい」と答えていた。業者に頼まず自力で直そうとするウーテさんに、スマ子さんはつくづく感心していた。
 大鹿村で得難い友人を得た思いを抱いて、私はキャンプ場を後にした。ウーテさんが投げかけてくれたのは、「私が気付かずにいる私の中の問題」を考えさせる大事なきっかけだったと思う。

櫻井こうさん

 ミドリさんに飯田市のアートハウスまで送ってもらった。ここは櫻井京子さんが経営するギャラリー併設のカフェで、昼ご飯がまだだったので、京子さんにオムライスを作ってもらった。京子さんのオムライスはとびっきり美味しいオムライスなのだ。しばらく京子さんと話した後で、おかあさんのこうさんに会いにご自宅を訪ねた。
 1924年生まれのこうさんは20歳の時に結婚、同時に夫と共に吉林省水曲柳に満蒙開拓団として渡満した。現地で終戦を迎え、翌年帰国している。
 一昨年の秋に、私が編集委員を務める雑誌『たぁくらたぁ』57号の特集「非戦・不戦・反戦」で作家の澤地久枝さんとこうさんの対談を企画し、アートハウスでその対談を収録した。そして昨年5月に同じく『たぁくらたぁ』の主催で、お2人に私も加わって若者たちを対象に「1945年──14歳と20歳の証言+0歳」と題する講演会を飯田市で催した(この様子は『たぁくらたぁ』60号の特集「満州での戦争体験を継承する」に掲載)。
 開会前には「何を話せばいいだかなぁ。何も話せんだに」と言って思案顔のこうさんだったが、終わった時には「あれも話せば良かった、あれを話すのを忘れたに」と笑顔で言ったのだ。それで、私は「今日話し忘れたことを、またぜひ聞かせてください。またお訪ねします」と言ったのだった。その後なかなか訪ねることができずにいた。スマ子さんから大鹿村への誘いがあった時、即座に受けたのは終わったらこうさんに会いに行こうと思ったことも理由の一つだった。
 100歳になったこうさんは自室からゆっくりだがしっかりした足取りで出てこられた。嬉しく再会の挨拶を交わした後で「こうさん、お話聞かせていただきたくてきたけれど、ごめんなさい。今日は30分しか居られません」とお断りした。本当はゆっくりと話を聞かせてもらいたいのに、ここに着くのが予定より2時間以上遅れてしまい、帰りのバスの時間もあった。バスの時間を変更しようとバス会社に電話したのだが、変更できなかったのだ。京子さんもこうさんも、「泊まっていけるかと思ったのに」と言う。今度きっと泊まりがけでお邪魔しますと言い、それでもわずかな間だったがこうさんの話をお聞きすることはできた。
 「何も忘れちまってなぁ。話せることはないでなぁ」と言うこうさんに、「満州から引き揚げてここに帰ってきてから、最初に畑で作ったのは何ですか? カボチャだったかしら?」と尋ねると「そう、そう。カボチャね。そこの土手んとこへずうっと蔓が這ってな、一番初めになったカボチャは、うんとうまいんだけんど、尻尾の方に行くほど不味くなってな。初めのはうまいのになぁ、何でだかなぁ」と答えたこうさんに、「ほら大丈夫、思い出しますよ。今度泊まりがけできますから、お話聞かせてくださいね」と言って、お暇をした。

 帰りのバスも、やはり渋滞にかかって2時間以上遅れて、新宿に着いたのは10時少し前だった。こうして1泊2日の大鹿村訪問は終わった。短くも実り多い旅だった。

*記事を読んで「いいな」と思ったら、ぜひカンパをお願いします!

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。