ジェノサイドが開始された10月7日から、丸一年経ちました。
この一年で、私たちは前例のない規模の破壊を目撃し、愛する者たちを失い、かつて美しい思い出に溢れていた私たちの人生は悪夢へと一転しました。
私たちはこの悲劇の中心を生きています。
この虐殺はすべてのものを標的とし、子どもであろうと大人であろうと区別せず、家であろうと学校であろうと病院であろうと市場であろうとすべてが標的です。
10月7日夜、観光客や若者でごった返す東京・渋谷の街に、痛切な言葉が響き渡った。
この日はパレスチナの武装組織・ハマスによるイスラエルへの攻撃から一年という日。ハマスの突然の蛮行に世界が言葉を失い、以降、イスラエル側はパレスチナに猛烈な報復攻撃を続けているのはご存知の通りだ。この一年間、ガザでの死者は4万人以上と言われている。その3割ほどが、子ども。
戦闘はレバノンにも拡大し、10月1日にはイランがイスラエルに約200発の弾道ミサイルを発射した。ヒズボラの最高指導者殺害への報復と見られている。
そんな中で迎えた節目の日に開催されたのが、「パレスチナの抵抗と連帯するデモ」。
開始時間少し前に渋谷ハチ公前に到着すると、すでに多くの人が集まっていた。日本人もいれば、外国人も多くいる。ヒジャブをかぶった女性や、パレスチナのスカーフ「ケフィエ」をまとった人もいる。辺りに飛び交う日本語や英語、アラビア語。そうして渋谷駅前に翻る、赤と緑と黒の旗、旗、旗。
午後7時過ぎ、ガザ出身の女性・ハニンさんが挨拶すると、その場にいる全員で死者に対する黙祷が捧げられる。
その後に読み上げられたのが、冒頭のメッセージだ。
書いたのは、今まさにガザにいる若者・サラマさん。
2008年からの度重なる攻撃を生き抜いてきた彼は、今回、「私にとってすべて」だったという母親を亡くした。そうして、この虐殺を止められない私たちに以下のように問いかけた。
私たちは世界に問いかけます。
どこにいますか?
これだけ毎日、ガザの人々が殺戮され続けている中、なぜ沈黙を貫いていられるのですか。
画面を通して私たちが愛する人たち、家、安心して過ごせる時間をなくしているのを見ていますよね?
私たちは一瞬にして、何年分もの生活と人生を失い、私たちが大切にしてきた思い出は、今、瓦礫の下に埋もれています。
学びの場は止まり、学校は閉鎖され、一世代分の子供たちから教育が奪われています。
病院は機能できず、電気は遮断され、水は汚染されているかそもそも手に入らない状態です。
私たちの生活はごくごく基本的な必需品に欠けていて、残っているものは終わりのない痛みだけです。
私たちはかつて、質素ではありましたが幸せな生活を送っていました。
今は、そのすべてが粉々になり、残っているのは癒えない傷ばかりです。
私、サラマはガザ北部に住むパレスチナの若者です。
他の若者と同じように、私には将来の、そして卒業後の人生に夢と希望がありました。
この虐殺は、私の夢を灰のように粉々にしました。
そうしてメッセージは、最愛の母を亡くした衝撃へと続く。
私はこのジェノサイドで母親を亡くしたことがいちばんの打撃でした。
私たちは転々と逃げ惑う中、病院を破壊され、物資のない状況下、彼女を救えませんでした。
私の目の前で彼女が苦しむのを見ながら何もできないことが耐えられないほどの痛みでした。
そして彼女は亡くなり、私の心には一生癒えない傷ができました。
でも母親だけではありません。私はもう6人の親友を亡くしています。
おじさんも、いとこも、もう一人のおじさんとその奥さんも。
この殺戮は私たちの人生を破壊し、私たちにとってもっとも大事なものを奪っています。
多くの命が奪われる中、ガザでは食料や燃料など、あらゆるものに窮乏している。そんな日常についても綴られる。
私たちには電気もなく、綺麗な水もなく、食料も足りていません。
私たちは動物の餌を砕いてそれを食べ、野草を見つけて食いつなぐことを強いられています。
生きることが耐えられない状況です。
恐怖が常に私たちを蝕んでいます。
毎日私は思います。今日が私の最後の1日になるのだろうか。
「1日でもいいので、怯えることなく、爆撃されることなく、死に囲まれることなく生きたいのです」
そんなささやかな願いが叶わない場所が今、地球上に存在するという事実に目の前が暗くなる。
しかし、そんな状況でも、ガザの人たちは助け合って生きているという。
こんな状況にもかかわらず、私たちは人間性を失っていません。
この一年で私たちは自分たちの家族だけをケアしてきたわけではありません。
私は貧困に陥った他の家族のために炊き出しをし、お金を集め、必要としている人たちを助けようとしてきました。
誰もがこの虐殺は一年も続くとは想像していませんでした。
しかし、今も私たちはなんとか生き抜こうとしています。
が、これから厳しい冬がやってくる。物資も燃料も何もかも足りない中で、「恐怖は増す一方」だという。寒さから守ってくれる屋根や服、テントさえもないからだ。
だけど、サラマさんは「良い明日があると信じている」と続けた。まるで自らに言い聞かせるかのように。
そうしてメッセージは、「僕、サラマはこの大きな監獄から出ることができません。しかし、僕の言葉と声が世界に届きますように」で締めくくられた。
いつも喧騒に満ちている渋谷が、サラマさんのメッセージが読み上げられる間だけ、静かになった気がした。その場にいる全員が、一言も聞き漏らすまいと身を乗り出していた。
そんなハチ公前にはたくさんのプラカードとともに、犠牲になった人たちの写真も置かれていた。
赤ちゃんの遺体の写真には花束とキャンドルが供えられ、何メートルにも及ぶ巻物のような長い紙は、人々のメッセージで埋め尽くされていた。
「だれも殺すな!」「STOP KILLING NO WAR」「加油(中国語で「頑張れ」の意味)」「もうやめて」「FREE PALESTINE」「虐殺をやめろ」
「あの日」から一年の日、世界各国で多く人たちがデモをし、「殺すな」の声を上げた。
それから4日後の10月11日には、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞した。
受賞の背景には、ウクライナや中東での戦闘が収束しない中、核の使用も辞さない姿勢を見せる世界の指導者たちの存在があるといわれている。
日本被団協の箕牧智之さんは記者会見やインタビューで、「ガザで子どもが血をいっぱい出して抱かれている。80年前の日本と同じだ」「ガザでの紛争で傷ついた子どもたちと、原爆孤児の姿が重なる」「ガザで傷つけられた子どもたちを一生懸命救っている人たちがノーベル平和賞の候補かなと思っておりました」と語った。
原爆投下から、79年。しかし、戦闘は続き、そして虐殺は今も続いている。
「どこにいますか?」「なぜ沈黙を貫いているのですか?」
サラマさんの言葉が、今も頭にこびりついて離れないでいる。