米大統領選「選挙人制度」の怪?
太平洋を挟んでこっちでもあっちでも、選挙選挙選挙とうるさい今日この頃。だから、少しはぼくも考えてみる。
アメリカの大統領選挙で、ぼくがいつも不思議に思うのは「選挙人制度」というやつだ。各州にそれぞれ人口に比例した選挙人が割り当てられていて、1票でも多い候補者がその州の選挙人を“総取り”できるという方式。つまり、全米で得票数で勝った候補者ではなく、各州の選挙人の獲得数で当落が決まってしまう、という制度である。
で、妙な結果が出てしまうこともある。
たとえば2000年、ゴア氏(民主党)を破ったジョージ・ブッシュ氏(息子、共和党)のケース。さらに2016年、ヒラリー・クリントン氏(民主党)がトランプ氏(共和党)に敗れたときも同じ。ゴア氏は全米規模の一般投票ではブッシュ氏よりも多い票を獲得、ヒラリー氏もトランプ氏には圧倒的な差で勝っていた。
全米で獲得票数の多い方が負けてしまったのだから、おかしな話である。ある意味、民主主義に反する結果といえる。さすがに、この制度に対する疑問がアメリカでも高まってきているようだ。
毎日新聞(10月11日付)が次のような解説記事を載せていた。
米大統領選 強まる改革論
接戦州偏重 民意8割「無視」(略)多くの州では民主、共和両党の優劣が明確で、投票前から勝敗が見えているのが実態だ。主要候補が現地入りするのも勝敗を左右する接戦州に偏り、国民の8割は「無視」されている。こうした中、「接戦州の1票が他の州よりも重みを持つ」という現状を改革する運動が着実に成果を上げつつある。
「最も多くの票を得た人が大統領になるべきだと判断した」。東部メーン州のミルズ知事(民主党)は今年4月、全米の一般投票(有権者の投票)の結果に基づいて大統領選の当選者を決めるとする州間協定への参加を認めると発表した。協定に参加するのはこれで首都ワシントンと17州になった。(略)
協定は、参加州の選挙人の合計が過半数の「270人」に達すれば発効するが、メーン州の参加によって「209人」まで到達。あと数州が参加すれば、発効するところまで来た。(略)
州間協定を求める運動は、2000年大統領選をきっかけに始まった。共和党のブッシュ(子)氏は一般投票で民主党のゴア氏に負けたが、選挙人の獲得数で上回って当選した。同様の事例はそれまでに3例あったが、20世紀以降では初めて。16年大統領選でも共和党のトランプ氏が、一般投票で敗れたのに当選した。(略)
この記事は長文なので全文引用はできないが、要するに、全国で得票数が上回っても、接戦州と呼ばれる7州(アリゾナ、ジョージア、ミシガン、ネバダ、ノースカロライナ、ペンシルベニア、ウィスコンシンの各州)での結果に左右されるというわけだ。1票でも多い候補が「選挙人を総取り」するのだから、おかしなことになる。
ある州で2人の候補者が49%対51%の得票率でも、51%の候補がすべての選挙人を独占する。もし10人の選挙人がいる州なら、最低限6人と4人に選挙人の数を分けるべきではないか。そうでなければ民主主義に反するのではないか、という疑問が出てくるのも当然だろう。
勝っても負ける? 不思議な制度
アメリカは正式には、USA=ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ(UNITED STATES OF AMERICA)である。つまり各州(ステート)の集合体国家なのだ。したがって漢字では「合衆国」ではなく「合州国」が表記としては正しいという人(本多勝一氏)もいる。
州の集合体国家なのだから、国家よりも州の意思が上にくる、と考えるアメリカ人も多い。だから、州を代表する「選挙人制度」は、アメリカ建国以来の制度として揺るがせにはできないというわけだ。
だが、この建国以来の大統領選の制度が古くなってきているために、こんな歪んだ結果になることもある。それを改革しようという機運が高まっているわけだ。
ところが、ことはそう簡単ではない。この接戦7州というのは、共和党が伝統的に強い州だ。つまり、共和党支持者たちは、そんなことを認めることはできない。制度を変えれば共和党に不利になるからだ。
ちなみに2016年の大統領選の一般得票数と選挙人獲得数は以下だ。
ヒラリー氏=約6524万票(選挙人=232人)
トランプ氏=約6268万票(選挙人=306人)
見て分かる通り、ヒラリー・クリントン氏は一般投票では250万票以上も上回っていながら、獲得選挙人数では敗れてしまったのだ。州ごとに割り振られた選挙人をどれだけ獲得できるかが勝敗の分かれ目。したがって、もう勝敗の決しているようなところへは遊説にも赴かず、テレビCMにカネを投入することも少ない。
それが「8割の国民は無視される」という意味なのだ。今回のトランプVS.ハリスでも事情は同じだ。大統領選挙制度改革論が大きくなるのも当然だろう。
完全比例代表制の危険性
選挙制度の問題は、世界中に存在する。たとえばイスラエル。
イスラエルの国会議員選挙は「完全比例代表制」である。各政党は票の獲得数に応じて議席を割り振られる。それは否応なく「小党分立」を意味する。小規模の政党であっても、一定程度の票を獲得すれば議席を与えられるからだ。
その時の国際情勢に応じて過激な主張をぶち上げれば、それなりの議席獲得が可能となる。このためイスラエルの政界は常に群雄割拠状態。平時ではそれでもなんとか機能するが、危険も伴う。現在は、異常なほどの極右がそれなりの議席を持っている。単独過半数を占めるような政党はなかなか現れない。
先週のこのコラムで書いたように、ベングビール国家治安相やスモトリッチ財務相らの極右党派の協力を得られなければ、ネタニヤフ首相は政権維持ができない。したがって、彼らの極右路線に引きずられることになる。パレスチナ人の“民族浄化”まで主張する極右の狂気じみた主張に、ネタニヤフも同調していかざるを得ない。それがネタニヤフの政権維持の手法なのだから。
この選挙制度こそが終わらない「イスラエル戦争」の裏の側面である。
完全比例代表制が、有権者のあらゆる意思を汲み取ることができるという意味では直接民主制に近いともいえるけれど、こんなひどい状況を作り出すこともあるのだ。選挙制度は一筋縄ではいかない。
継ぎ足し増築改築で、ボロボロの選挙制度
日本はどうなのか。
1990年代、バブルに浮かれたニッポン国は、まさに金権腐敗政治の真っ只中にあった。リクルート事件や佐川急便事件などで、金権腐敗政治はピークに達した。当然、国民の批判は激しかった。それを受けて成立したのが反自民の細川護熙連立政権で、そこで出てきたのが「政権交代」を可能にするともてはやされた「選挙制度改革」である。かくして、公職選挙法が改正された。この旗を振った政治家のひとりが、小沢一郎氏だった。
1994年、公職選挙法が改正され、いわゆる「政治改革」が始まった。これが「小選挙区比例代表並立制」という仕組みである。
衆議院選の基本は、各選挙区は定数1。つまり、それまでの中選挙区を細分化して、各選挙区では1人しか当選者が出ないようにした。だがここに、単純な比例並立制ならともかく、比例復活、つまり小選挙区で敗北しても比例で当選も可能、などという妙な仕組みを入れたのだからおかしなことになった。
選挙区で落選しても当選する……。んなバカな、である。
今回の自民党で騒ぎのタネになっているのが、この比例重複立候補を認めるか否かだ。選挙区では勝てそうもないが、なんとか比例重複で救われてきた「裏金議員」たちの処遇をどうするか。
こんな騒ぎは、このあやふやな制度が生み出したものだ。きれいさっぱり、重複立候補制度を廃止してしまえば問題解決のはずだが、当落線上ギリギリの候補者たちは、それを認めるわけにはいかない。
これだけでも“わけ分からん”のだが、参議院に至っては、輪をかけてわけ分からんのである。なにしろ、比例区では個人名でも政党名でもどっちでもいい…なんて制度まで導入しちゃったから、いまだに投票所で戸惑う有権者も多い。
つまり「鈴木○○」(✕✕党所属)の場合、鈴木○○と書けば、それも✕✕党票になる、ということ。衆議院と参議院では、投票の仕方が違うのである。
分かりますか、これ?
選挙制度という家屋に、小屋をつけ足し母屋を修復し台所を拡げ2階に部屋を増築しさらには3階に子ども部屋まで作っちゃった……というつぎはぎだらけの家にしてしまったために、住んでいる人たちもどこに何があるか分からなくなっちゃった。そんな感じなのが日本の選挙制度である。
ぼくは前に何度か書いたけれど、当初からこの「小選挙区制(1区1人制)」には反対だった。あの1990年代の政治改革の熱狂に煽られて、ほとんどのマスメディアも多くの識者も学者さえも「政権交代可能な選挙制度改革」に万歳の手を挙げたときでも、ぼくはどうもしっくりこなかった。簡単にいえば、圧倒的な「死に票」が生まれる制度だと分かっていたからだ。
例えば、ある選挙区に3人の有力な立候補者が出たとする。するとリクツ上は、総投票数の33.4%の得票でも当選可能という場合も出てくる。つまり、66.6%は「死に票」となる。まあ、これは極端な例だけれど、一般的には、得票率40%前後で当選している候補者が多いのは事実だ。
要するに、60%前後は「死に票」となっている。その結果、30~40%程度の得票率でも、70%もの議席数を獲得する政党が出現する。
詳しくは書かないけれど、最近の自民党の圧倒的多数を占める議席数は、決して得票率に適うものにはなっていないのだ。
1990年代、ぼくはある週刊誌の編集部に在籍していた。この雑誌でも「政治改革」についてはそれなりにページを割いていた。
ぼくは、何度か「反対論」を書くために、石川真澄さんという朝日新聞記者に教えを請うた。大学の教壇にも立っていた学者肌のジャーナリストだった。
この方は、小選挙区制万歳の圧倒的な論調の中で、ほとんどただひとり「小選挙区制反対」の論陣を張った。確か、小金井市にお住まいだったと記憶するが、お宅までぼくは押しかけて教えを請うたのだった。
「死に票」については、石川さんのおっしゃったとおりになった。その弊害が、いまや明らかになっている。今回の総選挙でも如実に表れるだろう。
ぼくは早急に「現在の選挙制度の改革」をしなければならないと考えている。どうせ議員たちに任せても、自分らの有利な仕組みしか考えないだろう。だから「選挙改革市民委員会」のような組織を作って議論をしてほしい。それこそが、政治を根本から立て直す、有効な手段だと思うのだ。