自民党、オウンゴールの山
「うーむ……」と、選挙結果を伝える新聞を見ながら、ぼくは腕組みしてちょっとばかり首をかしげている。
自民党公明党、そして維新の退潮は、ぼくだってかなり嬉しい。言ってはいけない言葉だろうけれど、「ざまあみろ」という気分である。
これまでどれほどいい加減なことをしてきたか、「少しは反省しろ、バーロー」である。
でもね、この自公惨敗というのは、決して野党サイドの勝利じゃない。自民党のオウンゴール、それも何度も重ねたオウンゴールのせいなのだから、哀れな結末。
まず、統一教会から始まって、裏金問題、自民党総裁選の田舎芝居、さらに総裁になった石破氏が「野党と国会でじっくり論戦して、私の政策を国民に問うてから解散する」と言いながら、首相になるや否や前言撤回ですぐさま解散というウソつきぶり。公認問題でのアタフタぶり。そして極めつけは、「しんぶん赤旗」のスクープによる、非公認候補への2千万円の支給。重ねたウソとヘリクツにもならない弁解の数々。
まさに、オウンゴールの山を築いたのが自民党である。
これだけ相手に点数を献上すれば、どうやったって勝つのは不可能だった。「ベンチがアホやから勝てるわけがない」と言ったのは、元阪神タイガースの江本投手だったが、自民党には誰か、少しはものの分かった参謀はいなかったのかなあ?
どす黒い感想
それはそれとして……と新聞紙面を眺めながら、ぼくはどうも黒い気分が湧いてきて仕方がないのだ。
まず、最初の〈黒い感想〉。
参政党と日本保守党がともに3議席を獲得したということ。この両党とも、ぼくはいわゆる「極右政党」だと思っている。
例えば参政党は、今でも選択的夫婦別姓制度やLGBT法などには断固反対の立場をとる。自民党内でだってすでに少数派になりつつある主張を依然として捨てない。その他にも「創憲」という名の改憲派であり、外国人排斥、医療費削減、歴史認識や神話教育推進など、どうも怪しい。
日本保守党も、その主張は参政党にかなり近い。ヨーロッパ極右やトランプ氏の主張などに極めて親和的な感じだ。
こういう主張を持った政党が、国政の場に出てきたということは、日本の中にもジワジワと極右的雰囲気が生まれてきているということだろう。自民党総裁選で、高市早苗氏が危うく総裁になりかけたということも、その証左だ。
それってあなたの感想ですよね? とひろゆき氏なら言うかもしれないが、はい、そうです、ぼくの感想ですが何か?
極右に近いと見ていた維新が議席を減らしたのはめでたいが、代わりにこんな政党が日の目を見たのでは、めでたさも中くらいなり総選挙……である。
究極のディストピア?
そして、実はもっと大きな懸念は国民民主党の“大躍進”だ。なにしろ7→28議席という、まさに4倍増。こうなれば、玉木雄一郎代表の国会内における発言力は、かなりの重みを増してくる。
その玉木氏の考え方には、かなり新自由主義的なにおいが漂う。
ことに、彼の社会保障制度に関する発言は、そうとうに恐ろしい。ネットでもずいぶん論議の的になっていたけれど、「尊厳死」に関する言及は、ぼくのような高齢者には、胸元に突き付けられた鋭い凶器のようにさえ思える。
玉木氏は選挙前の10月12日、東京で開かれた日本記者クラブ主催の各党党首討論会において、以下のような発言をしていた。
社会保障の保険料を下げるためには、我々は高齢者医療、とくに終末期医療の見直しというところまで踏み込みました。「尊厳死」の法制化も含めて考えたい。こういうことも含めて医療給付を抑え、若い人たちの社会保険料を抑えることが、消費の活性化と次なる好循環である賃金の上昇を生み出すと思っています。
むろん、この発言はネット上で炎上した。
どう考えても、「死を目前にした高齢者(回復不能の難病者なども含むだろう)には、もう治療の必要はない。尊厳死という形での臨終を迎えさせるべきだ」というような主張としか受け取れない。
「まるで姥捨山の思想だ」と“冷酷無比な政治家”という批判が玉木氏に殺到したのは当然だった。あの成田悠輔とかいう半可通学者の「高齢者は集団自決を」発言とよく似ている。さすがに選挙前のこと、玉木氏は慌てて弁解した。
つまり、「尊厳死の法制化というのは、医療費削減のためにやるのではなく、あくまで『死の自己決定権』を個人が選べるようにする、という意味なのです」との釈明に追われたのだが、どう考えてもこれは後づけの弁解でしかない。
玉木氏は明らかに「社会保障の保険料の軽減」という文脈の中で、この「尊厳死」に触れているのであり、それとは関係ないといかに言い募っても、綸言汗の如し、一旦口にしてしまった言葉は取り消せない。
弁解するなら「あれは私の考えの至らなさでした。前言を撤回してお詫びいたします」と、正式に誤りを認めて謝罪すべきだったろう。だが、取り繕うばかりで謝罪しないのは、結局、その考えを今も持ち続けているということだ。
もし国民民主党が自民党に接近し、「政策ごとに協議する」との言葉通り、両党の右派部分が馴れあって「尊厳死法制化」などということになったら、それこそ「尊厳死施設建設」などという死の準備が始まるかもしれない。
究極のディストピア(暗黒世界)である。
ぼくが“黒い気分”になるのも分かってもらえるだろう。なにしろ、ぼくは多分、その対象者にされかねない年齢なのだから。
陰で糸引く者は
選挙の翌日、10月28日、国民民主党代表は連合を訪ね、芳野友子会長に選挙結果を報告。間を置かずして、野田立憲民主党もまた連合を訪問して芳野会長と面談した。
なんだかなあ……。
芳野会長は「立憲民主党と国民民主党が、これから連携して政策協議をしていくように」と求めたという。当然のことながら、共産党やれいわ新選組との連携などは全面否定したに違いない。
要するに、連合芳野会長は政界の保守的再編を要請したと見るのが正解だ。
賃上げと雇用環境の維持、いわゆる労使協調路線の再確認。もっと端的にいえば、財界と労働組合の仲良し関係の再確認といったところだろう。さらにもっとつけ加えれば、闘う労組の排除かもしれない。
電機連合などの影響下にあって、原発推進に前向き(らしい)芳野会長は、その方向に従順な玉木氏と考え方は共通。とすれば、やがて立憲も引きずられかねない。
そして究極は「改憲」だ。
国民民主党はかねてから「緊急事態条項の創設」を主張している。その筋に沿った「改憲」は国民民主党の既定路線だ。
連合芳野会長の仲立ちによって、立憲と国民は、ジワジワとその線の結びつきを強めるかもしれない。そうなれば、立憲内部のリベラル派(護憲派)などのパージ(追放)も起こりかねない。つまり、立憲の分裂というより、リベラル派を放擲した上での、立憲と国民の合同という「政界再編」だって見えてくる。日本政治全体の保守への純化である。それは、野田佳彦氏の「中道保守路線」という主張にも合致する。
だがその前に、国民民主党と自民党との「部分協調」から始まって、いずれ連立にまで進むかもしれない。ぼくの目には、玉木代表は国民民主党を「いかに高く売りつけるか」を考えている政界の商売人のように見えて仕方がないのだ。
れいわが9人の議員を誕生させた。共産党は2名の議席減、社民党は沖縄での1議席を死守するのがやっとだった。
これもまた、政界再編のひとつの流れだろう。
自民公明の大敗北、維新の退潮。
それ自体は、いいことだと思うけれど、ぼくはどうにもすっきりしない。
何か苦いものを飲み込んだ後の口の中に残った違和感、それがなぜか消えない。