第142回:「決められる政治」より「決められない政治」(想田和弘)

 デモクラシーの難点は、民主的な手続きと決定によって、デモクラシーを終わらせることも可能だということである。

 先日の大統領選挙で、米国の主権者はその総体として、デモクラシーの廃止につながりかねぬ重大な決定をしてしまった。

 ドナルド・トランプの再選である。

 彼は大統領になったら政敵を訴追し投獄するとほのめかし、就任初日は独裁者になると公言している。

 選挙で負けても結果を受け入れず、選挙結果に従おうとする自らの副大統領を攻撃し、議会へ突入する暴徒を止めなかった過去もある。

 一期目には、度重なる攻撃を受けてもなんとか持ちこたえた米国の民主制度だが、完全に「トランプ党」になってしまった共和党や、トランプに指名された判事が3人もいる最高裁の布陣を考えると、今度はどうなるかわからない。

 民主主義の老舗でありお手本であると言われてきた米国のデモクラシーは、存続の危機を迎えている。

 一方、日本の衆議院選挙では、ついに与党の自民・公明が過半数割れを起こす結果となった。

 僕は第二次安倍政権以後の日本の政治状況を「熱狂なきファシズム」と呼んできた。シラけたムードのなか、人々が無関心で気づかぬうちに、じわじわ、こそこそ、低温火傷のように進む全体主義である。

 その進行は、最近まで着実に進んでいるように見受けられたが、今度の選挙で、全体主義に対する懸念というよりは裏金事件に対する不満によって、とりあえず待ったがかけられたと言えるかもしれない。

 興味深いのは、50議席も議席を増やした立憲民主党が、比例票は7万票しか増やせていないということだ。主権者は積極的に立憲を支持したわけではなく、自公政権を拒絶し、変化を求めただけなのだということが推測される。

 今年行われたフランスやイギリスの選挙の状況も考え合わせると、世界は軒並み右傾化しているわけではなく、やはり現在の政治に不満で、変化を求めているだけなのだとも解釈できる。

 問題は、米国ではバイデン政権やハリス副大統領への批判と不満の受け皿が、トランプだったということだ。極端に聞こえるかもしれないが、下手をすると、今後は選挙が行われなくなるような事態もありうる。もしそうなってしまったら、トランプ政権に不満が募って変化を求めても、今度は革命をするしか手立てがなくなる。

 いずれにせよ、はっきりとした多数派が形成されなかった日本の国政は、これからぐっちゃぐちゃのカオスになるのだろう。

 しかし、自公政権がやりたい放題して愚策を誰にも止められなかったこの12年間よりは、ぐちゃぐちゃで何も進まない方が、ずっとマシだと僕は思っている。ダメなことを独裁的に「決められる政治」より「決められない政治」の方が、ずっとよいのである。

 日本の主権者としては、そのことを肝に銘じておきたいものだ。

 スリランカ初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老によると、僧の集団(サンガ)で何かを決めるときには、全会一致が必要なのだという。反対する人が一人でもいたら、決めてはいけない。そういうシステムなのだそうだ。

 僕はそれを聞いたときに、本来、デモクラシーとはそうあるべきなのではないかと思った。賛成51vs反対49でも何か重大なことを決定してしまうと、49の人間は不満や怒り、恨みを抱くことになる。共同体は分断されてしまう。

 思えば、世の中がこれほどまでに分断されてしまったのは、そういうことを繰り返してきた、当然の結果なのではないか。

 そんな気もしている。

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想田和弘
想田和弘(そうだ かずひろ):映画作家。1970年、栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒業。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒業。BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。最新作『五香宮の猫』(2024年)まで11本の長編ドキュメンタリー作品を発表、国内外の映画賞を多数受賞してきた。2021年、27年間住んだ米国ニューヨークから岡山県瀬戸内市牛窓へ移住。『観察する男』(ミシマ社)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)など著書も多数。