今年、50歳になったので“引退”することにした。
なんの話かっていうと、近年、やれ「人生100年時代」だの「生涯現役」だのって言われてて、そんなの冗談じゃねえって話。なんでそんなに働かなきゃならないんだ、コノヤロー! 俺は50歳超えたら真面目に働くのはやめて、あとは勝手にやらせてもらうよ〜、っていう意思表示としての引退宣言。
まあ、確かに平均寿命は伸びてきてるし、本当に100年近く生きる人もザラにいるこのご時世、平均寿命からしたら50歳以降もまだまだ長そうではある。ただ! ドサクサに紛れて余計に働かせようとしてる魂胆が見え見えな感じがどうもいけすかない。
そもそも江戸時代あたりまでは、50歳ぐらいになったら子どもなり弟子なり後の代に任せて自らは“ご隠居”としてのんきにウロチョロしていた。それが明治・大正・昭和と時代はくだってきて、気付いたら定年は55歳になって60歳になって、最近は65歳ぐらいになってきて、気付いたら「人生100年」だの「生涯現役」だのって話になってきてる。ふざけんなー、誰がそんな口車に乗るか〜!
で、人を勝手に生涯現役にさせといて、年金の支給もどんどん遅くなってやれ65歳だの70歳だのになって来る感じ。そんなのを「へえ、そうですか。じゃあもう少し働きましょう」なんて言うこと聞いてたら年金支給は80歳からなんてことになりかねない。それどころか、今度は人生120年時代とか150年時代とか言い出すに違いない。……ふざけんなコラ〜!!!! いったいいつまで働かせるつもりなんだー!!! ってわけで、頭に来たので対抗策として早々に引退を宣言することにした。ざまあみろ、もうこれからは余生。さらに不真面目に生き始めちゃうよ〜。
50歳は老人だ!
さてみなさん、ここでよく考えてほしい。古来、50歳を超えたらなぜご隠居様になってたのかというと、それはそれで理由がある。そう、それなりに弱ってくるからだ。50を過ぎたあと何が起こるかというと、ギックリ腰もいよいよシャレにならなくなったり、老眼になってきたり、ビール飲みすぎたら痛風になるし、そもそも朝まで飲みまくったら死んじゃうし、無意味に早起きするようになったり、物忘れが多くなってきたり、肩が上がらなくなってきたり、謎の各種病気にかかったりしてどんどんガタが来て、トドメにハゲ、デブ、白髪と、踏んだり蹴ったりの目に遭い、三途の川へのカウントダウンが始まってくる。いくら平均寿命が延びようと、これは別に今も昔も何も変わらないのだ。
早い話、平均寿命が伸びるって言うことは、老後の期間がむやみに伸びるということ。間違っても長い間若者でいられるなんて都合のいい話ではなく、ロスタイムが異様に長くなるだけの話。死ぬ時が何歳だろうとそんなの知ったこっちゃなくて、“50歳からは老人”という、これだけはまず明確に押さえておきたい。なので、ドサクサに紛れて「60代は働き盛り」なんて往生際悪い言い草はとんでもない話で、本来なら60代なんて棺桶に半分足を突っ込んでる後期高齢者もいいとこなんだから本来は働く必要なんてない。さらに、これもありがちな「70代? まだまだお若い。人生これからですよ」なんて神をも恐れぬ挨拶なんてとんでもない話で、70オーバーなんてもう生きてる方が間違ってるぐらいの、老人どころか超人の域に達している(もう死んでいいという意味ではない)。つまり、老人(=50オーバー)や、本来なら死んでてもおかしくない超人(=70オーバー)が続々と生き延びてるのが高齢化社会という意味だ。仮に将来医学がさらに進歩して200歳ぐらいまで生きるようになろうもんなら、人生の若いうちは4分の1ぐらいで終わっちゃって、残りの150年が老人生活という悲惨な人生を送ることになる。ま、もちろんのんびりと150年生きられるような余裕のある社会であればそれで万々歳だけど、今の世の中、とてもそんなゆとりのある世の中ではない。そう、政府などが「人生100年」だの「生涯現役」なんて言葉を引っ張り出してくるのは、単に高齢化社会の面倒を見ることができなくなったのをチョロまかすことでしかないのだ。
べらんめえ、そうは問屋が卸さねえってことで、じゃあこっちは対抗して50になったら「老人宣言」をして、“ご隠居様”として好き勝手にのびのびやる方がいい。政府や財界の口車に乗せられて「50歳はまだ若い」なんて口が裂けても言ってはいけない。ということで、年寄り恒例の挨拶「まだまだお若い」とかそういうのももうやめて、50超えてからの挨拶は「もう先が見えてきましたね〜」とか「明日をも知れぬ日々ですねー」あたりにしよう。60代も後半になったら「今日も一段と死相が濃く出てますなあ」とか「おや、肩に死神が!」なんて挨拶にした方がいい。もちろん、これ本当に死んだ方がいいって意味じゃなくて、そう言いながらなんだか生き延びてる奴らがウヨウヨいる方がいいっていうこと。巷に開き直ったご隠居様があふれかえり、庶民の面倒を見るのを渋ってる政府やら自民党のやつらには「こいつらをこれ以上働かせるのは無理だ!」と思い知らせてやろう。
あ、そういえば、自分が出身の東京下町のジジイ・ババアたちなんて口の悪い奴らばっかりだから、仲良し老人同士が道でばったり会ったらいきなり「おう、このくたばりぞこない、まだ図々しく生きてやがったのかよ」「なんだと、テメエこそさっさと死ねこのやろう」とかお互いボロクソにいうのがお決まりの挨拶で、そのままニコニコ連れ立って飲みに行ったりしてた。子どもの頃は普通だと思ってたけど、今から思えば、未来を見越したいい挨拶だったのかもしれないな〜。ま、それはどうでもいいや。
ともかく、これであとは長生きなんてしようもんなら、もはや丸もうけみたいなもんなので、得した気分になっていい。なんなら70歳超えたらもう本来死んでてもおかしくない年齢ってことで、「死後の世界」ってことにして生活するのも楽しそうだ。街に買い物に行くときに幽霊の格好して、三角形の白い布を頭に巻いていってウロウロしても物騒でいいし、老人ホームの入口なんか三途の川にかかる橋渡って入るデザインにしたりもいいね。電動のシニアカーとか棺桶のデザインにしてもカッコいい。老人専用の銭湯でみんなで血の池地獄に入ったり。いや〜、楽しそうだな〜。さすがの政府も、そんな奴らにまだ働けとは口が裂けても言えないはずだ。
ともかく、50を超えたら老人。これはみんなで自覚していこう。実のところ、ここ数年、早く“老人”になりたくてウズウズしてて、ようやく老人の仲間入りできるのが超楽しみ! やったー、これで晴れて老人を名乗れる!!
老人の心得① 真面目に働かない
さあ、これで晴れて50歳以上は全員老人になったところで、老人はどうあるべきかをちょっと考えてみたい。ま、自分は今年でまだ老人一年生で右も左も分からないので、あまり偉そうなことを言えないのだが、新参者なりに老人になるにあたって心得を少し考えてみたい。
まず新老人を迎えて真っ先にやりたいのは真面目に働かないこと。50歳というとすでに20〜30年ぐらいはなんだかんだと熱心に働いてきたので、これはもう十分だ。かといって、別にパタっと仕事を辞めるつもりはない。そもそもロクに蓄えもない我々がパタっと仕事やめたら死んじゃうし。まあ、初めのうちは社会を回すための最低限の仕事ぐらいは適度にやりつつ、徐々にいい加減にやっていきたい。元々ナメていた世の中を、さらにナメ切っていきたい。
自分の例で言うと、老人を目前にした去年からは仕事の仕方を少し変えた。今までは定休日以外は毎日店に出てて、週6で1日10時間以上は働いてたのだが(自営業ってこれぐらいが普通)、老人を迎えるにあたって隔週で働くスタイルに変えた。週末は忙しいので必ず出るが、それ以外の平日は別の従業員とシフトをうまいこと組んで、1週間働いて翌週は休み、その翌週は働く、という隔週方式に。これ、月に2回ゴールデンウィークが来る感じなので普通に遠出して遊びに行くこともできる。その余波で、他のまだ老人じゃない従業員も給料変わらずこの隔週老人方式になったので、大喜びだ。これ、意外と生活に余裕ができていいのでオススメ。自営業の人って働きすぎなことが多いので、やってみてほしい。自分のことが色々できてめちゃくちゃいい。
そもそも全員が勤勉に働き続けてないと成り立たない世の中なんて、どうかしている。ふざけたやつやいい加減なやつがウロチョロしてられる社会の余裕が、いろんな文化や社会の中の遊びを生み出す。なので、気後れすることなくいい加減に生き始めてOKで、特に老人になったら躊躇なくどんどん遊びや自分のやりたいことをやる時間を増やしていってしまおう。老後に勤勉である必要はない。
「すでにカツカツなのに遊んでる暇なんかねえよ!」という人もいるかもしれないけど、大丈夫。遊びを増やせばその分友達や知り合いが増えるので、これがまたなんとかなってくる。逆に言うと、カツカツの状態で仕事しかしてなかったらそのまま仕事だけして死んじゃうことになるので危険。なおさら一刻も早くふざけた人生に足を踏み入れてほしい。それに、老後にもなってひたすら働き続けなきゃ死んじゃうような状態だとしたら、それは社会のシステムがおかしいんだから、そこは文句言っていい。
諸君、思い出すんだ! 子どものころに町で見かけた、いつも通学路の石に座って無駄に団子を食ってたジイさん、何も買わないのに商店街を2時間ぐらい物色しながら歩いてるバアさん、平日昼間からヨーヨーとか独楽回しとかのものすごい技術をチビッコたちに披露していたヒマ人の権化みたいな老人、公園で毎日6時間ぐらい将棋を打ってる老人の群れ! そう、彼らは社会の希望だ!!
老人の心得② 老人は下っ端のザコだった!
それともうひとつ。老人宣言するのはいいが、別に長老になって偉くなるわけではないってことも心得ておきたい。長く生きてると、ああだこうだと偉そうなこと言い出す奴が増えてくる。飲み屋やら職場、近所付き合い、あるいは親戚の年寄りやらでよく見かけると思うが、自分の先輩がもう死んでるのをいいことに、自分はなんでも知ってるかのように延々と講釈を垂れるやつらだ。昔は50代60代で老人はくたばっていったのでまだしも、今はみんな長生きするから、偉そうなこと言う人の数も増えまくって、これじゃ若い奴らたまったもんじゃない。今どき儒教じゃあるまいし先輩や年上が偉いなんてことはない。その証拠に今の自民党など政治家の老人たちを見てくれ。どいつもこいつもコッソリ裏金作りまくってたり謎のイカサマ宗教とつるんでたりと、さっさと牢屋にぶち込まれるべき最低のクズ人間たちでごった返してる。そう、老人だから偉いなんてとんだ作り話だ。
ということで、改めてよくよく考えて、我々老人のポジションを再定義してみよう。
まず、そもそも考えてみてほしい。人間の人生なんてマヌケな探検隊みたいなもんで、いろんなことを試行錯誤しながら失敗や成功を繰り返して徐々に手慣れていってなんとか生き延びる。で、人それぞれいろんな選択をして様々なコースを辿るので、年齢を重ねれば重ねるほど人によって千差万別の人生を歩んでるっていう状態になってくる。で、先を行く先輩たちはどんどん死んでいって、最後は自分の番になってあの世に行ってしまう。
そう、マヌケな探検隊。まずは基礎訓練を終えて、とあるコースの隊に入隊して山とか荒野に分け入っていく。で、だいぶ前に先陣切って進んでいた先発隊がどんどんワニに食われたり、大蛇に飲み込まれたりしてバッタバッタと倒れていき、気付いたらこっちが最前線になっちゃって「やべー! ワニ来た〜!!」と慌ててる感じが、社会でいう老人の位置。これ、どう考えても偉くない。むしろ後方から進んでくる後発隊(若い奴ら)の方が大局が見えてるからいろいろ判断できる。「あっちにはワニがいるぞ! 我々はあっちに行くのはやめだ!」って作戦も立てられる。最前線の老人隊はすでにタランチュラとかピラニアなんかとの格闘でテンヤワンヤなのに加えて、引き返す時間もないのでその場で善戦するしかない。それに散々山奥を探検してきたのに「そっちには何もない! やっぱり海に向かえ!」って言われて不慣れな船で乗り出したところで今更なんの役にも立たない。せめて手慣れた山に踏みとどまって最善の成果を上げる方がいい。そう、老人は偵察隊みたいなもんで、百戦錬磨の下っ端。なるほど、「こういう方向に進んだらこうなった!」というのを身をもって後発隊に知らせる役割だ。
ただもちろん、それでお役御免かといったらそんなこともなく、そこから海に向かう猛者やら、さらに山奥に分け入ってその道を極めるのもありだし、快適なベースキャンプの構築に乗り出すのもありだ。ある程度の任務は全うしたので、ここからは自由に動ける。それでとんでもない徳川埋蔵金みたいなのを見つけるかもしれないし、余計なことをしてパンドラの箱を開けてしまい、後発の本隊に「コラー、お前ら何やってんだー!」と怒られて速攻で箱を閉めて謝るのもまたありだ。
それを、偉そうに「いや、この道で合ってるはずだ! 他のルートは間違ってる。あっちには何もない!」と、知りもしないのに威張って命令したところでなんの意味もない。そう、我々はさっさと進みすぎて、すでに視野は狭くなっている。しかもすでに最前線のザコと化しているので、大局は後発組の判断に任せる方がいい。だってそもそも、我々自身、今は亡き先発組の壮大な失敗やら成功を参考にして方針を決めてきたからね〜。
現実社会で具体的に言っても、これから最前線の最ザコ組を担っていく老人は、順にバブル組、氷河期組、ゆとり組と続き、すべて経験バラバラの壮大な実験組。どのチームも特殊なコースなので世の中を俯瞰して判断なんかできるわけがない。自分の世代で言えばポストバブルの団塊ジュニア就職氷河期世代。この世代はこの世代で、見捨てられた貧乏くじ世代が逆に功を奏して、いろいろ編み出してきた独自のサバイバル術を持っているので、ここからはその術を駆使してワニやピラニアと渡り合えばいい話だ。
“人はだんだん偉くなっていく”という昔の意味不明の迷信はもうやめて、“だんだん最前線のザコになっていく”ってのを自覚しよう。そう、我々はザコなのだ! 最前線のザコで人喰いピラニアと勝負! いや〜、楽しくなって来た〜。
老人の心得③ 迷惑老人になる
10代20代のうちは鉄砲玉みたいなもので、死ぬほど怒られながら勝手なことやっても大丈夫だ。30代になると本領発揮できるようになるので自由自在に動き回り始められる。40代になると、これはいよいよ安定のバカ絶好調って感じで、方向性も決まってきてるのでドーンと構えてやりたいことやる感じ。ただ40代ぐらいの時に大変なのはなんだかんだ言って鉄砲玉たちの暴発や衝突などを「まあまあまあ」なんて面倒見たりすることがものすごく増えるようになること。
で、そこへきての老人宣言。50歳を超えると死が近づいてくるので、こりゃいよいよ人の面倒を見てる場合じゃない。せっかくのサドンデス方式のロスタイム、全開で好きなことをやって行くのがいい。しかも! 老人の強みは、若者の最大の弱点「将来への不安」がないこと。就職に響くこともなければ説教してくる年上の親戚もないし、すでに老人なので老後の心配もない。これは無敵だ〜、楽しそう〜。
と言うことで、「おじいちゃん、やめて!」とか「おばあちゃん、そんなことしてたら死んじゃうよ!」などと言われまくりながらも「うるさい!」と一喝して山とか砂漠とか樹海とかにテクテク歩いて行って止まらないぐらいの勢いは見せていきたい。
老人の心得④ 老人よ、徒党を組め!
ついでに言っておくと、いま50歳を迎えようとしている新老人や、これから順次老人へと上り詰めてくる老人予備軍(現40代)の世代に対しては、もはや誰も面倒を見てくれないはず。若年人口は減ってくる上に、日本経済は凋落の一途。若い世代が面倒を見てくれるというのはあり得ないし、日本経済の力で手厚く保護されることもありえない。そう、これから老人になる我々以降の世代は完全にほったらかされると思って間違いない。もし、自分で賄えるほどの財力があったり、快く面倒を見てくれる子どもや孫がいるならそれはラッキーだが、実際はそうでない人の方が多い。そうなってくると、これからは老人は老人で自力で生きていかなきゃならなくなる。大量に税金払ってきたのに、まったくひでえ話だ〜。ってことで、ある程度は取り返す権利はあるので、「少しは面倒見ろ!」と文句言った方がいい。瀕死の状態の日本経済vs開き直った老人の群れ、という差し違えの一騎討ちの始まりだ〜!
ただ、一騎討ち頼みではあまりにイチかバチかすぎる上に、瀕死のやつらに期待はできないので、こっちはこっちでなんとかする手立ても考えておきたい。
ひとまず、街へ出ることが重要だ。飲み屋でもいいし、風呂屋の脱衣場でもいいし、カフェ、喫茶店、食堂、ライブハウスでもギャラリーでも、いろんな自分の居心地のいいところをウロチョロしまくって「よう、最近どう?」なんて言い合えるような知り合いを大量に作っておけば、いろんな助け合いもできたりするので、ひとまずなんとかなるはずだ。困った時には徒党を組んで役所に押しかけることだってできる。これは強い。
それに、街で遊んでいると若い奴らから老人、超人に至るまでいろんな年齢層が混じりあうもので、実際のところは年齢もごちゃ混ぜになるのが普通の状態。その社会に身を置くことは重要だ。いろんな層の人がいればいるほど、そのコミュニティはできることが増えるので、無敵になってくる。
そして、我々新老人世代は、インターネットも携帯電話もなかった時代を知っているので、何かあったら「なんだなんだ」とむやみに家から出てきて集まるという習性がある。これはもう慣れたもんだ。駅前の伝言板にメモを残したり、喫茶店や食堂のオヤジに伝言たのんだりして、即座に集結だ! 困ったら徒党を組む。これだ!
50歳超の諸君は今すぐ引退宣言を!
ということで、みなさん。50歳を超えた段階ですぐに引退宣言をして、100歳まで働かせようと目論むやつらに引導を渡してやろう。冒頭でも書いたが、別に仕事辞めなくてもいいし、自分がやってることをやめる必要はない。「これからは自由にやらせてもらいますよ」という宣言で、よりいい加減にのびのびと自分のセンスで、好き勝手に活動し始めよう。特に、いま50歳を迎えようとしている世代は、第二次ベビーブームの団塊ジュニアと呼ばれる世代で、異常に人数が多い世代だ。そう、その我々が大挙して引退を宣言して、世間を震撼させるしかない。「やばい、まだまだ必死に働いてくれるはずのあいつらが、開き直ってのびのび生きはじめたら世の中どうなるんだ!!」と、ビビらせてしまおう!
ともかく、これから言うこと聞かない始末に悪いご隠居が一人でも増えることに期待! さあ、諸君、引退だ、引退だ! そして若手の諸君も、50歳引退を念頭においた人生設計をするしかない! さあ、2025年の年明けとともに一斉に引退宣言だ〜。新老人諸君の健闘を祈る!! 余生で会おう!