劇場公開中のブータン映画『お坊さまと鉄砲』(2023年、パオ・チョニン・ドルジ監督、ブータン・フランス・アメリカ・台湾)に、とても印象深い場面があった。
銃のコレクターであるアメリカ人が、骨董的価値を持つレアな銃を手に入れるため、はるばるブータンへやってくる。持ち主のブータン人のおじいさんに買い値を提案すると、「それは高すぎる」と逆に値切られてポカンとする。そこでもっと低い値段を提示すると、「それなら私も気が楽だ」とおじいさんも合意して、交渉が成立する。
こんな場面もあった。
同じアメリカ人が、紆余曲折あって、今度は仏教の若いお坊さんから銃を買おうとする。そして銀行から下ろしたばかりの札束を提示し、「これでぜひ買いたい」と懇願する。しかしお坊さんは札束を見て「こんなにお金をもらっても使い道がない」と一蹴する。アメリカ人は「この金があれば、最新型の銃が10丁は買えるぞ」と食い下がる。しかしお坊さんが高僧から調達を命じられたのは、2丁の銃だけだ。お坊さんは「10丁もいらない。2丁だけあれば十分だ」と申し出を断る。
米国であろうと、日本であろうと、こんな展開は起きえない。私たちが暮らす社会の価値観では、使い道があるかどうかとは関係なく、売り物の対価としてもらえるお金は多い方が良いに決まっているし、銃も2丁よりは10丁の方が良いからだ。
しかし、これらの場面から察するに、ブータンでは全く違う価値観が息づいているようである。それは一言で言うと、仏教的な価値観だ。
ブッダは私たちの苦しみの原因のひとつとして「渇望」を挙げ、貪欲を戒めた。なぜなら欲には際限がない。欲しいものが手に入っても満足することなく、もっと欲しくなるのが人間だ。そして自らの渇望に支配され、不幸になっていくのである。
それは世界のお金持ちや権力者を見ていれば、かなりわかりやすい。
イーロン・マスクなど、すでに一生かかっても使いきれないほどの富を得ているだろうに、それでもまだ稼ごうと、24時間、身を粉にして働き、トランプにまで取り入っている。いったいどれだけお金があれば満足するのだろうか。
トランプはトランプで、世界で最も強大な権力を4年間手にしただけでは飽き足らず、嘘や謀略や扇動を用いてまで、その権力にしがみつこうとした。そしてとてつもない苦労をして幾多の訴訟と泥沼の選挙戦をくぐりぬけ、権力の座に返り咲こうとしている。だが、いつもしかめ面をしていて、あんまり幸せそうには見えない。というより、自らの欲望の奴隷になっているとしか、僕には思えない。
スリランカ初期仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラ著『欲ばらないこと』(サンガ新書)によると、欲から解放されるには、「少欲知足」が大切だという。すなわち、欲を少なくして足るを知ることだ。そしてそのためには、「必要不可欠なもの」と「欲しいもの」を区別することが有用だという。
たとえば、「寒さを凌ぐためのコートが欲しい」。これは「必要不可欠なもの」である。
一方、「バーバリーのこのコートが欲しい」。これは「欲しいもの」だ。
生きるために必要不可欠なものは、実は案外限られている。コートは一着か二着あれば十分で、二十着も三十着も持つ必要はない。
一方、欲しいものには際限がない。欲しいとなれば、百着だろうが、二百着だろうが、欲しくなる。そして欲望を満たすために、大変な苦労をすることになる。にもかかわらず、その欲望は決して満たされることはない。
スマナサーラ長老いわく、自らの中に「欲しい」という感情が湧いたとき、それが「必要不可欠なもの」なのか「欲しいもの」なのかを点検することが大切だという。そして、「欲しいもの」はなるべくカットするのだ。
「たとえば、高価なカバンを見て『ああ、欲しいなあ。格好いいなあ』と欲が出ても、『結婚式に出る予定もないし、ほとんど会社に行くばかりだし、それ以外はほとんど家にいるだけだし、このカバンを持っていくところがないわ。買っても使わないならいらないわね』というようなやり方です。(略)そのように工夫してでも、欲しいものは削除するように努めるのです」(『欲ばらないこと』)
『お坊さまと鉄砲』に出てきたおじいさんやお坊さんは、まさにこの原理で動いていたように思う。
なお、この映画は、民主主義や暴力について考える上でも、とても面白い作品だった。
ぜひご覧になることをお勧めする。