第342回:生きる戦後史(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

 今年、2025年は戦後80年という節目の年である……というような言葉が、新聞や雑誌などの特集記事の前振りによく使われている。そうかあ……80年かあ。
 ということで、今回はちょっと個人的なことを書かせてもらう。
 なぜ「戦後80年」に、そうかあ……と思ったか?
 ぼくは1945年(昭和20年)、つまり敗戦の年に生まれた。だから、80年はそっくりぼくの人生なのだった……。
 「ぼくは『生きる戦後史』なんだよ」と、ちょっとふざけて人に言うことがある。でも、ふざけた口調ではあるけれど、自分のこれまでを考えれば、まんざらおかしな言い方でもないような気がする。

 ぼくは秋田の片田舎で生まれた。のんびりした町で、戦争の匂いはあまり感じなかった。それでも近所のお宅などでは、戦死した若者たちがそれなりにいたようだった。幼いぼくは気づかなかったけれど。
 秋田は米どころだから、あまりひもじかった記憶はない。甘いものやお菓子類などはまったくなかったけれど、ともかく米だけは食べられた。
 秋田の土崎という港町に空襲があったとは聞いたけれど、数十キロも離れた場所。それにぼくが生まれたのは10月、戦争は終わっていた。
 ぼくは戦争を知らない。

 【降る雪や明治は遠くなりにけり】
 これは、中村草田男が昭和6年(1931年)に作った句だといわれている。つまり、明治が終わって19年後の作である。
 昭和が終わったのは昭和64年(1989年)1月7日だった。だから今年は昭和が終わって36年になる。
 今年、北国は大雪だ。ぼくのふるさとからも、もう雪下ろしをしたよ、という便りが届いている。
 【降る雪や昭和も遠くなりにけり】だよねえ…。

 ぼくの青春は、いまや遠くなってしまった昭和の真っ只中にあった。
 ぼくが生まれたのは、繰り返すが1945年(昭和20年)である。ということは、今年は昭和100年ということになる。ふむ、不思議な回り合わせである。
 多分、これから『昭和100年を読む』とか『戦後80年の軌跡』などといった本がたくさん出てくるだろうし、雑誌もそんな特集を組むに違いない。そしてテレビも「昭和歌謡」などで盛り上がり始めている。

 そういう特集などを見る機会が増えたからか、自分のこれまでを、最近はふと振り返ることが多い。まったく目まぐるしい時代を生きてきたものだ。
 小さな田舎町だったが、小学校はなんと2千人もの生徒数。ほぼ各学年8クラスほどで各学級は50人以上もの生徒数だった。その中では、昭和20年生まれは極端に少数。戦争にまたがった学年だから、いわゆる団塊の世代(ベビーブーム)の半分ほどの人数だったのだ。それでも凄かったなあ。

 少子化なんてどこの話? とにかく小中学校には生徒が溢れていたのだ。
 教師には兵隊帰りの人も多かった。だから悪ガキをぶん殴るなんてのは日常茶飯事。でも、戦争の悲惨を舐め尽くしてきただけに、戦争だけは絶対ダメだ! という気持ちはいつだって伝わって来ていた。

 田舎町、農家の子どもも多かった。だから「農繁期(農作業で忙しい時期)」になると、なんと「農繁期休み」というのがあったほど。子どもといえども、農家にとっては重要な労働力だったからだ。
 まだ大学進学率など10%にも満たない時代、多くの中学同級生が「金の卵」と呼ばれて、就職列車に揺られて東京へ向かった。いわゆる集団就職、『あゝ上野駅』(井沢八郎)の時代である。
 ♬くじけちゃならない人生が あの日 ここから始まった~♬

 閑話休題、菅義偉元首相が「集団就職で上京、印刷工場に勤めた」などと報じられたが、あれは真っ赤なウソだ。菅氏は秋田の県立湯沢高校卒であり、集団就職は中卒の子たちだったからだ。言うほうも言うほうだが、それをそのまま垂れ流すマスメディアには呆れたものだった。

 それはともかく、ぼくは上京してなんとか大学にもぐりこんだ。まったくの貧乏学生、何しろおんぼろアパート代が4500円(つまり、1畳あたり1000円が相場で、ぼくは4畳半に住んでいた)。それで仕送りが5000円。バイトなしでは飢え死にしちまう。大学へ行くよりもバイトに精出す毎日だった。
 ある新聞社で「子どもさん」と呼ばれる雑用係をしたこともあるが、日給600円。日給だよ、時給じゃないんだよ……そんな時代。

 「全共闘」の最盛期。ぼくの大学も凄まじいほどの闘争の渦の中だった。ぼくもときどきデモに行った。まあ、デモに出ない学生のほうが珍しかった時代であった。
 「就活」なんて言葉はなかった。バイト慣れしていたぼくは、“まあなんとかなるだろう派”だった。
 ある出版社の「2次募集」の新聞広告を見つけ、仲間と一緒に受験した。学生運動の余波で、正規の募集では予定人数の確保ができなかったからだと、後で聞いた。一応の内定をもらったのは、卒業間際の2月だった(苦笑)。

 ぼくが雑誌編集部に在籍中は、激しい事件や出来事の渦の中だった。
 三島由紀夫自決(これはぼくが会社に入った年)、スリーマイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故、フィリピン民衆革命、土井たか子社会党選挙で大勝「山が動いた」(おたかさんブーム)、ベルリンの壁崩壊、東西冷戦の終焉、ソ連邦解体、中国天安門事件、55年体制崩壊、自社さ連立政権で村山富市社会党委員長が首相就任、阪神・淡路大震災、オウム真理教事件、湾岸戦争、日本の自衛隊海外派遣、ニューヨーク世界貿易センタービル同時多発テロ事件、それに続くイラク戦争……。(注・順不同)

 その間、神武景気、高度成長期、「ジャパン・アズ・ナンバー1」、バブル経済とその破綻など、日本の経済社会も激しい荒波をくぐる時代だった。

 こんな時代。ぼくは最初、芸能雑誌編集部にいたが、やがて青年誌や週刊誌に移動。それらの編集部で直接取材や陣頭指揮にあたっていた。凄まじいほど忙しかったけれど、心が揺さぶられるような日々だった。
 この会社でのぼくの最後の仕事は新書創刊。そこでも様々な社会的問題に関連した新書を何冊か作った。

 思えば、なんという時代をぼくは生きてきたのだろう。しかも、それらの出来事が自分の仕事と結びついていた。
 そして、会社を辞めてしばらくして、あの東日本大震災が起きた。仙台の弟宅にもいささかの被害が出た。秋田の実家とも数日間連絡が取れずに焦った。
 そして、福島原発の爆発!

 ぼくの80年、楽しいことや嬉しいこと、そして辛いこともたくさんあったけれど、世の中のこんな出来事とも密接に結びついていたのだった。

 なんでこんな昔のことを書こうと思ったのだろう?
 「そろそろ店仕舞いだよ」と、どこかから声が聞こえたのかもしれない。
 ぼくは「生きる戦後史」を自称しているが、できるなら、タモリさんの言った「新しい戦前」を見ずに店仕舞いしたいものだ。

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鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)、最新刊に『私説 集英社放浪記』(河出書房新社)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。