「今日の予定はなんだったかねぇ?」
私の予定を聞いているのではない。日に二度三度、多いときで四度五度とかかってくるAさんからの電話は、Aさんの予定を私に聞いているのだ。
「今日は朝のうちに訪問看護の人が来るはずだよ」
カレンダーを確認しながら私が答えると、「訪問介護? そんなん知らないよ」とAさんの声は警戒感をにじませて険しくなる。「爪を切ったり血圧測ったりしてくれる女の人がいるでしょう?」と答えると「ああ、あの人か」と安心したあとで、「その人は昨日来たはずだ」と尚もいぶかしげになるので、「昨日来た人はマッサージの人だったでしょ」と返すと、「ああ、そうか、マッサージの人か」と納得してくれる。
Aさんの中では訪問看護という単語は「爪のケアにくる人」と認識されており、日に日に歩行が困難になっている足の訪問リハビリの作業療法士は「マッサージの人」とインプットされている。ちなみにAさんが「ケースワーカー」という場合、それはケアマネさんを指している。福祉事務所のケースワーカーはAさんをよほど訪問していないのか、彼の中でケースワーカーはケアマネさん以外の誰でもない。
彼の認識できない言葉で話すと、彼は混乱して機嫌が悪くなり、それ以上の会話が続けられなくなるから注意が必要で、おそらくAさんの言葉の辞書を一番知っているのは、付き合いが15年を超えた私だけかもしれない。
Mさんと一家、奇跡のような関係性
付き合いの長い利用者さんたちが高齢化している。
最長老だったMさんは、あまりの健勝ぶりに110歳くらいまでは余裕でいけるだろうと周囲の誰もが疑わず、本人も「俺もそう思うんだよ」と、強いタバコの煙をフーと吐き出しながらうそぶいていたものだが、一昨年の冬、体調を崩して入院したと思ったら、あれよあれよという間に旅立ってしまった。彼を愛した人達に心の準備をする暇すら与えなかった。北関東出身なのに江戸っ子気質なMさんらしいせっかちさというか、潔さなのだが、実際はMさん自身、「なに、俺、死んじゃったの?」とビックリしているのではないか。
Mさんの日常を後年支えたのは、近所に住む一家だった。Mさんは長い海外生活で磨いたコミュニケーション能力なのか、生まれ持っての性格なのか、とにかく稀代の愛されキャラだった。闊達で聡明、ユーモアに溢れて若々しく、話題は豊富、歯に衣着せぬ割には紳士という矛盾した側面すら成立させる魅力的な老人だった。
一家はMさんとの交流を心から楽しみ、ほぼ家族の一員として共に過ごしてくれた。ずっと一人だったMさんは、海外から帰国後は血のつながっていない子や孫、ひ孫にまで囲まれて過ごしたのだった。私達が支援をする必要はなにもなかった。私達と出会ってから彼はしっかりと地域に根差し、寂しく過酷だった過去数十年を補うように豊かな日々を過ごした。
そんなMさんは例外中の例外で、みんながみんな自力で他者と良い関係を築いていけるわけではない。特に男性は孤独になりやすい。若く健康なうちは、それでも自分で動けるから生活支援は限定的で事足りるのだが、利用者の高齢化に伴い、先述したAさんのように生活の全般、それも日々のスケジュールから、その人の記憶すらこちらが丸抱えしなくてはならないケースも出始めており、支援者はどこまで対応できるのか、今後の課題になっている。
奔走する限られたスタッフ達
つくろい東京ファンドは「住まいは人権」や「ハウジングファースト」を旗印に生活困窮者支援をする団体で、様々な困難や課題を抱えて家を失った人たちの一人ひとりのペースに合わせて伴走し、制度につなげ、一緒にアパートを探し、家具を選び、新生活へと送り出す。部屋への入居がゴールだと思ったら大間違いで、その後も数えきれないほどのお手伝いが続く。騒音トラブル、ゴミ出しの問題、部屋の掃除、アディクション、滞納、警察絡み、裁判、病院同行、お悩み相談、失踪、エトセトラエトセトラで、挙げればキリがないが、地域生活を支えるということはそういうことだ。しかし、スタッフの数は限られている。極めて限定されたスタッフが数えきれないほどの利用者さんの生活を、まるで絶対に取り落とせないジャグリングでもするみたいにして支えている。
最近では、高齢者が4度目になる失踪をした。寒さが最も厳しいこの時期にどうしていなくなってしまうのか。これまではアテもなく探し歩いた果てに、なんとか見つけ出してシェルターに連れ戻ったが、今回はどうしても捜索の時間が割けない。過去にいたことのあるエリアで活動する支援団体に協力を仰いでいるが、この寒空、どこにいるのだろう。そしてどうして失踪するのだろう。なんど繰り返されても、その理由は分からないままだ。
付き合いの長い利用者さんは高齢化するが、当たり前だが私達も一緒に歳を取っている。40歳で活動に参加した私は、気が付きゃなんと56歳である。老眼を極め、首と肩は常に岩石のよう。元々弱かった左ヒザもきしみ始め、60になったら人工関節を入れることを心の保険にしているほどだ。お米の寄付を1階から事務所のある3階まで何往復か運んでいると、途中で何かの回路が切れたみたいに意識が朦朧として、そんな時はもしかして死ぬんじゃないかと怯える。もう無理が利かない。
マンモの最中に鬼電すな!
アパート入居後の方々の生活サポートを継続するとはいえ、一人で丸抱えしたら誰のためにもならないことぐらい熟知しているので、使える制度は満遍なく使う。高齢者には介護保険のサービスを駆使し、歩行困難になったら訪問医療や訪問看護。ケアマネさんは利用者のQOL向上のためにあらゆる可能性を模索し、試してくれるし、ヘルパーさんも気難しい利用者さんとも根気強く付き合い、ニーズを満たそうとしてくれている。
ただ、サービスを受け入れてくれる人達ばかりではない。極端に人見知りだったり、気難しかったりすると、どうしても関係性ができている私達への依存は集中してしまう。たとえ複数のサービスを受け入れてくれて、毎日誰かが入るようにしても、それでもどこまで彼らの単身生活を支えることができるだろうと、時々心が折れそうになる。
日々の電話には機嫌よく応対するようにしているものの、大事な会議中に鬼のようにかかってくる電話にはイラっとするし、どうしても出られない時だってあるのになかなか分かってはもらえない。
先日、10年ぶりくらいに市の乳がん検診を受けていた。若い頃から乳房の石灰化が指摘される私にとって(おそらくすべての女性にとって)マンモグラフィーは拷問である。しごくように胸を引っ張られ、挟まれ、これ以上ないほどにつぶされて「ウガガガガ!!」と声にならない声を上げたところに、「顎を引いてください!」と冷徹な検査技師の指示が飛ぶ。歯を食いしばって苦悶の表情で顔をのけぞらせたその刹那、電話の着信音が鳴ったものだから参った。電話は鳴り続け、一度切れてまた鳴る、が繰り返された。胸を挟まれている私は動けない。サイレントモードにしなかった自分を呪いたい気持ちになった。
人数増えたら対応できないけど……
高齢になって、それまでできていたことが一つひとつできなくなっていく。覚えていた単語や言葉は、灼熱のコンクリートで水滴が蒸発するように消えていく。言葉が出ないもどかしさ、自力で外出するたびに自分がどこにいるか分からなくなる怖さ。日常的な体の不調、足腰の衰え。それは、私自身いつか経験するかもしれない老いだ。それでも一人暮らしを続けたい、そんな希望を実現するために介護保険のサービスが存在する(いまのところは)。ただ、介護サービスの枠には収まり切れないことも多々あるのが現実で、その部分を私達が担っている。
仕事が山積みになる中で泣きごとも言いたくなるが、原稿の〆切を諦めて連れ出した床屋で、じいさんが漂流者みたいになっていた髪を散髪され、ヒゲを当たってもらって気持ちよさそうに目をつぶる姿を見ると、まぁいいかと思えるのだ。どこまでできるか、いつまでできるか分からないが(既に限界越えてる気もする)、生活支援担当の同僚やカフェのスタッフ、地域の医療、介護スタッフたちに助けてもらいながら。