第128回:石破総理への手紙~沖縄戦に斃れた若い兵士の遺骨(三上智恵)

石破総理大臣へ

先日4月13日のことです
沖縄本島南部糸満市の束辺名(つかへな)の丘の斜面から
二十歳くらいの日本兵のフルボディの遺骨が出ました
頭骨がほんの数センチ、地表に出ているのを
遺骨収集ボランティアの「ガマフヤー」のメンバーが見つけました
とても浅いところ、腐葉土の下十数センチです
こんな、手でかき分けても見つかるような
そんなところにまだまだ、探しに来てくれるのを
今か今かと80年待っている遺骨があるんです

石破さん
石破さんはずっと日本の防衛を大事に考え
自衛隊の誇りと処遇についても
過去の戦争で戦った兵士の気持ちも
戦後の総理の中で最も理解されている
そのために動く力のある方だと思います
戦後80年の節目です
こうして全身で発見された、沖縄戦に斃れた若い兵士に
手を合わせにきてくださいませんか?
おそらく顔面が彼の致命傷で、爆破によって
陥没するほどの怪我を負って亡くなったようです
上顎が砕かれて
口の奥に直径5センチくらいの石が残っていました
見つめている方向と顎の位置はズレてしまい
どのような衝撃が加わったのか
「ガマフヤー」の具志堅隆松さんが
歯医者さんの使う繊細な道具で丁寧に泥を払い
彼の最後の状況を解明しようと這いつくばって
必死に取り組んでくれています

石破さん
先の対戦で命を落とした将兵230万人
そのうち一人でも、亡くなったその場所の姿で
対面されたこと、ありますか?
沖縄にいると、まだそういう機会があるんですよ
未回収のご遺骨はおよそ3000体と言われています
でもそれに対して、国のために戦ったはずなのに
国というのはなんと冷たいことをするのか
なぜ見つけにきてもくれないのか
手を合わせてももらえないのか
埋まっている兵士の気持ちになると、やるせなくなるのです
今からでも遅くはありません
戦後80年の大きな節目に束辺名の丘に来て
若い兵士に会ってください、手を合わせてください
摩文仁の全戦没者追悼式に来てくださるのなら
そこから車で10分です、是非足を運んでください

全身全て揃った遺骨を掘り出すのは
具志堅さんの中でも15年ぶりという
なかなかないケースだそうです
具志堅さんは6月17日上京し、遺骨が残る南部の土砂を
埋め立てに使うのはやめると明言してから追悼式に来てほしい、と
石破総理にお願いをしにいくそうです
回答をいただくまで、23日の慰霊の日まで
ハンストをするつもりかもしれません

先日石破さんは国会で
山口の長生炭鉱の海底に眠る遺骨の発掘に対しても
「尊いことです」
「危険な作業と知りながら、民間でどうぞ、政府は知りませんとは言えない」と
踏み込んで発言してくださいましたね
戦争の犠牲者に対して真心で向き合う姿勢を総理大臣が示したこと
近年無かったと思うので胸が熱くなりました
硫黄島にも行かれたこと、印象に残っています
イデオロギーではなく、人道的な観点で行動する石破さんが
南部の激戦地に来てくれるのを、生者も、死者も待っています

私は、昨日3時間近くこの若い兵士と向き合って過ごしました
最初、正直に言えば怖かったけれども
具志堅さんが丁寧に接する様子を見て
陸軍であるとか、応戦したであろう痕跡とか
彼の情報を紐解いて説明してもらううちに徐々に
彼の人生に興味を持ち、怖さは和らいでいき
どうにかして、なんとか手掛かりを探して
彼を生まれたところに返してあげたいと思いました

彼が前途洋々たる二十歳くらいの青年だったこと
もっと親近感を持って考えたいので
名無しの権兵衛のままではかわいそうだから
束辺名の丘で眠っていたから
つかくん、と心の中で勝手に名付けました

つかくんはきっと、戦争の非情さを伝えるために
令和7年の今、こうして全身で姿を現してくれたんだね
ようやく暗い土の中から解放されたのに
こんな風に言うと荷が重くなると思うけど
大事な役割をもっている気がしています
つかくんの思い、口惜しさ、絶望を想像します
多くの人にもそれを知って欲しい
80年もの間ここに眠っていて
今、具志堅さん手によって救い上げられたこの奇跡を
戦争のない世界にするために最大限に生かしていきたい
平和な世界を掴むために頑張る人たちに、伝えるね
私にも伝えることを頑張らせてね!と手を合わせました

だから石破総理
どうか沖縄戦から80年のこの節目に
今までどの総理大臣もやらなかったこと
沖縄の野に眠る兵士に手を合わせる姿を
私たちに見せてください
よろしくお願いします!

 この「石破総理への手紙」を自分のFacebookにアップしたところ、数日でアクセスが30万人に達した。もちろん自分史上過去最高だ。ちなみに、私のタイムラインにマガジン9を更新しました、というお知らせをしても、閲覧数は数千いけば良いほうだ。下手すると「いいね」の数も50人いかないときもある。それが、今回は「いいね」などリアクション数が4月末で1800、シェア数が1900。シェアがリアクションの数を上回ったのも初めてのことだった。

 それは、簡単にいいね、などはできないけど拡散のお手伝いはしたい、総理に届け、ということだと理解した。4月に新たに見つかった兵士の遺骨が、こんなに関心を集めるなんて想像もしていなかった。これまでも、基地やミサイル配備など国防の問題のときには反応は比較的鈍く、一方で沖縄戦の悲劇に対しては反応が良いという傾向があったが、それにしてもこの数はちょっとびっくりだ。

 沖縄本島南部の土砂については、以前からこの連載でも何度かお伝えしてきた。まだ遺骨収集も終わってはいない激戦地の土を大量に抉り、基地の埋立資材に使うのはやめて欲しいと、具志堅隆松さんはこの数年、訴え続けている。その背景にあるもの。こうして沖縄県民、日本軍兵士、米軍兵士、そのほかあらゆる戦没者の遺骨とずっと向き合ってきた具志堅さんだからこそ、これは絶対に譲れない話なのだ。今回の動画を見ていただければ、よくわかってもらえると思う。

 ……と、お勧めしている動画についてなのだが、最初にお断りをしておくが、骸骨とかミイラとか、そういうものに弱いタイプの方にはお勧めできない。なにを隠そう私こそその典型で骨に強い恐怖感がある。ドクロのデザインされた服なんてもってのほか、スペアリブを食べている人を見るだけで気分が悪くなるほど苦手なのだ。だから地元沖縄ではこれまでも具志堅隆松さんと遺骨収集のニュース特集やドキュメンタリーは数えきれないほど放送されてきたが、私は決して取材することができないテーマだと遠くから眺めていた。ところがこの3年、具志堅さんとは一緒にノーモア沖縄戦・命どぅ宝の会をやってきたことでご縁も深まり、今回、二度と沖縄を戦場にさせないと頑張っている人に記録してほしいと声をかけていただいた。私としては、これはもう逃げてはいけない状況だと覚悟し、決心をして同行させていただいた。

 覚悟の上とはいえ、現場の状況はなかなかのインパクトだった。しかし逃げて帰ろうにも、この山道を戻れる自信もない。強烈な画像は数日たっても脳内でリフレインする。ずっと眠れなくなるのはつらいから、恥ずかしながら、できるだけお顔を見ないようにしたり、カメラマンの後ろから彼の背中で隠してもらいながらやり過ごしたり、動揺が伝わらないように必死に努力をした。でも「手紙」にも書いたように、具志堅さんが次々と彼の骨からわかる情報を話してくださるので、少しずつだが親近感がわいてきた。そのうち肩から下は、見つめていられるようにはなった。

 具志堅さんは、取材に来る記者さんたちにこう言いたい、と話す。たまにはカメラを置いて手伝わないか、撮っているばかりじゃなくてちゃんと向き合ってと。これは暗に私たちに対して仰っているんだなとわかっていても、まず無理、と前半は思っていた。けれど後半は、ひざから下の骨なら、刷毛があれば手伝える、手伝いたい、と思うようになった。結局言い出せなかったけれども、ほんの少し成長したと思って撮影は終わった。

 問題は編集だった。家で一人でこの映像を見ることができない。例えば顔のアップが100カットあるとしたら、普通は見比べてどれを使うか決めるのだが、もう、どれが歯の形がわかりやすいとか、そういうセレクトが耐え難くて大変だった。あえてモニターを極小にして何とか編集を終えた、私史上一番苦しい16分の作品になった。こんなへなちょこな私だから、苦手な人に見てくれとは到底言えないのだ。だけれども、具志堅さんが、どんなに深い思いで戦争犠牲者に対峙しているか、その一端でも、見ると見ないとは大違いなので、もしもチャレンジしてくださるのであれば、携帯電話の小さな画面で、視線を外しながらでもいいから、なんとか見て欲しい。

 「あなたのこの最後の姿。苦しみ、口惜しさ、絶望を一人でも多くの人に伝えます」

 具志堅さんは作業をしながら何度もそういう言葉を口にした。伝える。私もその仕事をしている。これを見れば一目瞭然、理屈抜きに戦争は駄目だとわかる。しかし、戦争の被害、こんなに悲惨なんだと伝えたら、戦争はいけない、だから自衛が必要なんだ。相手に攻め込まれないために核共有が必要だ、というロジックに転換されてしまうことが増えた。ウクライナのようになりたくないから強い武器を持ち、強い国と組むべきだと。沖縄戦は悲惨だったという話を伝えても、今度は負けないように強くなればいいと話を転換されてしまったら元も子もない、そうならない伝え方が必要だと、私は具志堅さんに言ってみた。そして一生懸命伝えているけど、そこにジレンマを感じると私が愚痴めいたことをあれこれ言っていると、具志堅さんは少し怒って

 「僕はあきらめない!」「伝える!」

 ときっぱり言った。戦没者の前でそんな弱音を吐くな! と言いたかったのだと思う。そのとおりだ。反省。具志堅さんがどんなに自分を奮い立たせてご遺骨に向き合っているか、怒られてより理解できた一幕だった。

 それでも私は終始へなちょこキャラで通した。
 「あのー、馬鹿な質問ですけど、具志堅さんは怖くはないんですか?」

 具志堅さんは一瞬あきれたような顔をしてため息をついてから言った。
 「僕は、遺骨は全然怖くない、なんていう人は信用しません!!」

 今さら具志堅さんにこんな質問をする間抜けもいないだろうが、私はちょっとほっとした。具志堅さんも最初は怖かったのだ。今も、死者に対する畏敬、畏れ、胸の痛みや動揺はあるのだ。それでも40年以上、がっぷり四つに遺骨収集に向き合ってきたその心性に、私はまだまだ近づけない。でも、具志堅さんの心の柔らかい部分を少しだけ垣間見せてもらった気がした。

 作業はまだ3、4日かかるという。現場を離れる前に具志堅さんは丁寧につかくんの全身を覆っていく。体には具志堅さんが持ってきた青いレインコートの上下をかぶせた。その青いレインコートは、何年か前の雨の中の座り込みの時にもずっとつけていたし、見覚えのあるものだった。それを雨露をしのぐためにかけてあげていたので、やさしいなあと思って私はこう言った。

 「それは今日から彼のものになるんですね」

 「いや、またつけるよ!(着るよ)」

 え? えーっと。これから少なくとも数週間、全部掘り出すまではここでつかくんの上に置かれて野ざらしになって、この現場が終わったらまたそれを着用するのですね。なるほど。私はうなってしまった。いくら物を大事にする人といえども、それができる人はどのくらいいるだろうか。もう尊敬する以外にない。つかくんは、80年待ったのは長かったけれども、掬い上げてくれる人がこの具志堅さんで本当によかったね、と心底思った。

 ご遺骨に恵まれているも恵まれてないもない、のだが、肩のほうを掘り出しながら、ほとんどの関節が皆しっかりつながっている状態であることから、もしかしたらつかくんは、激戦が続く中でも戦友の手で簡単に埋葬されてここにいるのではないかと具志堅さんは言う。腐葉土の下、10~20センチほど掘り込まれているように見える。だから緩い斜面なのに骨がバラバラにならなかったのでは。

 戦友に埋葬されたのであれば、鉄帽がないのも、小銃が近くにないのも説明がつく。元護郷隊の少年兵の証言でも、弾をよけながら戦友を埋葬したので深くは掘れず、膠着した膝が出ている場合もあった、と話していた。もしもそうであれば、最後に仲間に簡易的にでも葬られて手を合わせてもらった可能性がある。そう考えると、どこか救われる思いがした。近くには、米軍の薬莢と、彼が使ったと思われる日本軍の薬莢が見つかっている。撃って、撃たれて応戦する中での戦死であり、そんな中でも仲間は彼を埋めてからさらに南に向かって後退していったのかもしれない。

 この島は戦場だった。わかっているつもりだけど、本当に戦場の上に今の生活があるのだとつくづく思った。そこをまた戦場にしていく国防策が今進んでいることの愚かしさ。
 沖縄戦の戦死者たちはこれを聞いたらどう思うのだろうか。

 「この島にミサイルをまた並べるんですか? 今度は負けないように頑張ってくださいね」なんて思う元兵士がいるだろうか。

 具志堅さんは6月に政府交渉を予定している。この戦死者たちの声、遺族たちの声を代表して、遺骨収集が終わるまで南部の土砂には触らないでほしいと訴える。ぜひ注目していてほしい。

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三上 智恵
三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風(かじ)かたか』、18年『沖縄スパイ戦史』(大矢英代共同監督)、24年に『戦雲-いくさふむー』を発表公開。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)、『戦雲 要塞化する沖縄、島々の記録』(集英社新書)など。2020年に『証言 沖縄スパイ戦史』(集英社)で第63回JCJ賞受賞。 (プロフィール写真/吉崎貴幸)