このところ、また就職氷河期世代=ロスジェネが注目されている。
それは4月、石破総理大臣が就職氷河期世代を中心とした就労支援を充実させるため、関係閣僚会議を設置すると発表したからだ。
この連載ではロスジェネ問題についてずーっと書いてきたが、改めておさらいすると氷河期世代とは1993年から2004年頃に社会に出た層。ざっくりいうと現在の40代から50代前半で、数にして1700万人ほどといわれている。1975年生まれで現在50歳の私もその一人だ。
そんな氷河期世代はこの30年、辛酸を舐め続けてきた。非正規雇用率で見ると、35〜44歳で26.4%。45〜54歳で30.0%(24年、労働力調査)。
特に女性の非正規雇用率が高く、35〜44歳で46.2%。45〜55歳で53.2%。ちなみに正社員以外の平均年収は202万円(国税庁、23年)。私の周りを見渡しても、社会に出てからずーっと非正規で年収200万円台という人はザラにいる。
そんな世代へ就労支援と聞いて、「いや遅すぎるだろ!」と思わず叫びそうになった。
「失われた10年」が「20年」となり、「30年」となっても放置され続けてきた氷河期世代。93年、18歳だった私は今や50歳だ。この間、私を含め多くの人がずーっと「ロスジェネをなんとかしろ」と声を上げてきたが、自民党政権はガン無視してきた。それが何を今更……と思いつつも、何もないよりはマシだと自分に言い聞かせている。
さて、そんなロスジェネは、「自己責任論」にも苦しんできた世代である。
というか、それを内面化している人が非常に多い。
「就職氷河期」という言葉が表すように、社会に出る時期があまりにも悪かったのが原因なのに、多くの人が「自分が悪いんです」と口にする。
厳しい立場の人がそう言うのは、先回りしてそう言っておかないと「自己責任論」でめちゃくちゃに傷つけられるから自己防衛かもしれないと思うこともある。一方で、本気で自らを責め続けている人も多い印象だ。
そうなるのには理由がある。
例えば氷河期世代の中には、正社員になれなかったり、低賃金・不安定雇用だったりすることを、30年以上にわたってずーっとなじられ続けている層も少なくない。
例えばロスジェネの親の中には、子に「あんたと同級生の〇〇さんはちゃんといい会社に就職したのにあんたはバイトでフラフラして」みたいなことを言い続けている人もいる。
そして時が経つにつれ、「同級生の〇〇さん」はより「持つ者」となっていく。
正社員の座を掴んだだけでなく結婚し、子どもも産み、その数も一人から二人、三人へと増え、「ローンを組んで家を買った」「親を旅行に連れていった」「子どもをいい学校に入れた」、さらには「出世した」などなど、「手に入れたもの」は増えていく。
「持たざる者」とは開いていくばかりの格差。その「椅子」に座れていたら自分だって手にしていたかもしれないのに、その機会を奪われた人が圧倒的に多い世代。
先に氷河期世代の非正規雇用率を書いたが、45〜54歳で30.0%ということは、そうでない7割がいるのもまた、厳然たる事実なのである。このように、世代内格差が大きいと、自己責任論はより強固に刷り込まれていく。
一方、「勝ち組ロスジェネ」側からそうでない同世代に自己責任論が投げかけられることも少なくない。
というか、氷河期世代は正社員になった層も、上のバブル世代とは比べ物にならない苦労をしている人が多い。
「劣悪な待遇でもこのご時世では辞めないだろ」と、働く側の足元を見るような企業が蔓延しだしたのも氷河期以降だからだ。そうして過酷なノルマや長時間労働などで心身を破壊されたロスジェネが多く生み出された。今の「勝ち組ロスジェネ」は、そんな中でも歯を食いしばって耐え続けてきた層なのである。
だからこそ、不安定な同世代に対して「努力が足りない」と腐したりする。
しかし、この世代の置かれた境遇は、「誰の上でサイコロが止まるかわからない不条理極まるゲーム」みたいなもんだと私は思っている。本当に、ちょっとしたボタンの掛け違いで天国と地獄に分かれるみたいな。
そんなこともあり、私は自己責任論に抵抗する立場をとってきた。また、この界隈の問題を「自己責任」で済ませることは、政治の無策を個人の努力や資質に矮小化することでもある。
よって「自己責任」が強調されるたびにそれに反論してきたのだが、最近、ひょんなことからある分野では自分がものすごい自己責任論者になっていることに気づいたので、そのことについて、書きたい。
さて、それでは何に対して自己責任論者になってしまったのかというと、ダイエット界隈だ。
今年2月、「『見る福祉』としてのTik Tok〜ハマりまくって10キロ痩せ、我に返った顛末記〜」という原稿を書いたことは前も触れた。
ぜひ一読してほしいが、内容をざっくり説明すると、Tik Tokにハマってダイエットと美容とK-POPとキャバ嬢の動画ばかり見ていた結果、美意識も何もかもが歪んでいき、気がつけば10キロ痩せていたという顛末だ。
結果、体調がものすごく悪くなって現在数キロ戻したのだが、それでも私の中にいまだ「痩せていることこそが善」という価値観が確固として居座っており、それが時々顔を出す。
例えば女友達なんかといる時。大抵話題は「痩せたい」とかになるのだが(まあよくある挨拶みたいな感じ)、その流れで「でも料理にバターを使った」とか「スイーツを食べた」なんて聞くと、頭の中でカーン!! とゴングが鳴り響き、「ありえない!!」と叫びそうになる。というか、叫んでしまったこともある(本当にすみません……)。
そんなリアクションをしてしまうこと自体初めての経験で戸惑っているのだが、その時の気持ちを振り返ると、「こっちは一日1.5食で、今日だってキャベツと納豆しか食べてないのに!!」「そんなカロリー高いもの摂取して”痩せたい”とかありえなくない?」みたいな感覚。振り返れば、別に感情的になる必要なんて微塵もないのにむちゃくちゃ殺気立っているのだ。なんで?? どうした私??
ちなみに私がダイエットを始めたのは、「165センチ42キロの私の一日の食事」みたいな動画がきっかけ。
TikTokには山のようにその手の動画があり、みんな鳥の餌みたいなもんしか食べてないのだが、そういうものに影響されてダイエットをする危険性は熟知しつつ、「ちょっくら乗ってみるか」という感じで始めたところすぐに痩せていったのでハマったのが経緯だ。
で、そんな生活を続けていたところ、知らず知らずのうちに自分に厳しくなり、同時に人にも厳しくなってしまったようである。というか常に「我慢」している状態なので、ダイエットに関する話題になると異様に敏感に反応してしまうようになったのだ。
もうひとつ、他人に厳しくなった理由として思い当たるものがある。それは私がダイエットの励みにしていたのが「罵倒系動画」だったこと。ものすごくスタイルのいい若い女性が「痩せたいと言いつつ食べてる人間はクズ」的な辛辣なことばかりを言う動画が多くあるのだが、完全にダイエットにハマっている頃には、それが私の「心の支え」だった。
そういうものばかり見ていた結果、赤の他人の食生活にも異様に厳しくなっていたのだ。
そんな自分にびっくりしつつ、気づいたことがある。
それは、友人の言葉に憤慨しつつ「こっちはこんなに頑張ってるのに」と思っている時、明らかに脳から報酬系の汁が出ていることだ。
私はこんなにやっている、こんなに頑張っている──。そう思うことが、ものすごい快楽を与えてくれるのだ。その快楽が、「体型管理は自己責任」という思いをさらに強化させていく。
そんな経験を生まれて初めてして、ふと思った。世の中の、貧困などに関する自己責任論系の人って、同じ脳汁出てるのでは? と。
前述したように、ロスジェネは勝ち組でも恐ろしいほどの苦労をして今の地位を得ている。そして今この瞬間も、一瞬も気を抜かずに今の立場にしがみついている。
だけどこのご時世、そんな人ばかりなので、どんなに頑張ってもねぎらわれることも褒められることもない。そんな彼ら彼女らが貧困について「自己責任」と言い放つ時、これまでの苦労が報われるような、自分で自分を肯定してあげられるような爽快な気分になるのではないだろうか。それほどの快楽物質が、脳から分泌されるのではないのか。そしてそれには依存性があるのではないだろうか。
初めて「自己責任」を他者に向けて得た快楽を知り、やっと気持ちがわかったのである。
これは大きな収穫だ。人は極限の我慢をしていると、とにかくその手の「ご褒美」が欲しくなる生き物らしい。「報われた」と思うことが少なければ、自分でその機会を作るしかないのだから。
そして私のダイエットだが、体調どころか性格まで悪くなってきたので、本当にやめようと思っている。てか、ほぼやめてるんだけど、この「自己責任モード」だけがなかなか治らなくて困っている。
こんな私の愚かな体験を通して、あなたの中にある「自己責任論」が何を火種にしているか、見つめ直してみるのもいいかもしれない。