京都の瞑想センターで、2度目のヴィパッサナー瞑想10日間合宿に参加してきた。2019年に行った1度目の瞑想合宿の体験記は、書籍『なぜ僕は瞑想するのか』(ホーム社/集英社)にまとめた。今回、1度目とは異なる様々な発見があり、瞑想体験も格段に深まったので、その体験をまたどこかに詳しく書くつもりだ。
瞑想合宿の期間中は、スマホもパソコンもセンターに預け、外部との連絡を完全に断つ。だから合宿を終えて牛窓に帰る途中、スマホでニュースを10日ぶりにチェックして、衝撃を受けた。
イスラエルがイランの核施設を攻撃し、イランも報復を開始して、新たな「戦争」が始まっていたのである。そして数日後に米国もイランの核施設を攻撃し、戦争に参戦してしまった。なんと無益で、悲惨な事態であろう。
こうした出来事について、ジャーナリズムの世界や論壇では、「米国には××といった狙いがあり……」「欧州と米国の力関係が……」などと、政治的な分析や解説が盛んに試みられる。
そうした分析や解説に、意味がないとは言わない。しかし瞑想的に見ると、最も重要な部分、本質的な視点が抜け落ちているのではないかと感じる。
それは、心の問題である。
ブッダは、人間の行為には3種類あると説いた。身体の行為、言葉の行為、心の行為である。
身体の行為とは、文字通り身体を使った物理的な行動のことだ。誰かを殴ったり、他国にミサイルをぶち込んだりするのは、身体の行為である。
言葉の行為とは、言葉を発する行動のことである。誰かに温かい言葉をかけたり、批判したり、褒めたりするのは、すべて言葉の行為である。
心の行為とは、心の中に生じる思考や感情である。誰かのことを好きだと感じたり、羨ましく思ったり、嫌ったり、殺したいと思ったりすることは、心の行為である。
世間一般では、こうした行為の中で身体の行為が最も重視され、心の行為は最も軽視されている。誰かを殴ったら傷害罪に問われるが、心の中で誰かを殺したいと思っても罪には問われない。
しかしブッダは、心の行為を最も重くみた。なぜなら心の行為こそが、言葉や身体の行為の大元の原因だからである。心の行為なしに、言葉の行為や身体の行為は起きえない。
イスラエルはなぜイランの核施設を攻撃したのか。政治的には、イランが核兵器を持とうとしているので、それを阻止するためだと説明される。
なるほど。しかし、では、なぜイスラエルは、いつでも核兵器を作れる技術と施設を有する日本を攻撃しないのだろうか?
その答えは、イスラエルの人々が、日本に核攻撃されるのではないかという恐れを抱いていないからであろう。
逆に言うと、イスラエルの人々は、イランが核を保有したらイスラエルを核攻撃するのではないかと恐れているのである。この「恐れる」という心の行為があるからこそ、彼らはイランを攻撃したのである。そして、もしイランが本当に核兵器を保有しようとしているのだとしたら、それもおそらく、他国への恐れがあるからに違いない。
したがってこの事態に対する処方箋があるとすれば、お互いの恐れを軽減することにこそある。お互いを武力で攻撃し合って、恐れだけでなく怒りや憎悪までさらに強めることは、解決策にならないどころか、事態をさらに悪化させるだけである。心の行為に注目すると、そういうことがはっきりと見えてくる。
人間は感情の生き物である。というより、私たちはほとんど常に感情に支配されていて、感情の奴隷になっている。より正確に言うと、あらゆる感情は身体の快・不快の感覚として経験されるので、私たちは究極的には身体の感覚に支配され、身体の感覚の奴隷になっている。
それは日常生活でも、常に経験することではないだろうか?
誰かに酷いことを言われると、身体に不快な感覚が起きる。そして怒りや嫌悪感が生じる(心の行為)。その感覚に我慢できなくて、言わなければいいのに、ついつい、酷い言葉を返してしまう(言葉の行為)。あるいは、思わず手を出してしまう(身体の行為)。その結果、ますますドツボにはまる。私たちは自由意志で行動を選択しているようで、実は選択できていない。
ヴィパッサナー瞑想では、自らの身体の感覚に気づき、それを平静に観察することを徹底的に訓練する。身体の感覚に気づき、平静に観察できれば、どんな感覚でも無常なので、やがて消えていく。そして快・不快の身体の感覚、すなわち感情が消えた上で言葉を発したり、身体を動かしたりするならば、それは本当の意味で自由な行動となる。
もし人類全員がヴィパッサナー瞑想を本気で実践するならば、貧困や戦争など、起こりえないと本気で思う。だから少しでも多くの人、とくに政治を司る人々にはぜひとも実践していただきたいと願うのだが、なかなか実現しそうにはない。
だから国際政治や国内政治を考える際に、せめて私たちは「心の行為」という視点を、もう少し持つべきなのではないだろうか。なぜなら心の行為こそが、人間の行動を駆動する真の動機であり、政治的な理由や説明は、心の行為を合理化・正当化するための後づけにすぎないからである。
そして心の行為に注目して事象を観察すると、この世で起きているほとんどすべての問題は、究極的には私たちの心の問題であることに気づかされるのではないだろうか。つまり手当すべきは私たちの心のありようであり、暴力や武器では何も解決しないのである。