戦争って、こういうふうに始まるんだろうな――。
この1、2ヶ月での日本社会の急激な「空気の変化」に、ただただ呆然としている。
特にこのひと月、日本社会はとんでもないスピードで、ありえない角度への急旋回をしつつある。
原動力は、「外国人の脅威」だ。
最初は、新興勢力による真偽不明な扇動だった。
そこに、本来であればそれを諌めるだろう立場の政権与党がお墨付きを与えるような形で乗っかり「違法外国人ゼロ」とブチ上げた。
さらには勢いのある政党も「外国人に対する過度な優遇を見直す」と追従した。
すべては、選挙で票を稼ぐため。そのために、「外国人」を標的にした。
この二大勢力の「補完」によって、「外国人の脅威」は一気に正当性を帯びてしまった。
私は今年で物書きデビューして25年、そして反貧困運動を始めて19年。その間、数多くの「バッシング」を目にしてきた。
2000年代初頭の公務員バッシング、12年の生活保護バッシング、相模原事件に象徴されるような障害者ヘイトや昨今の高齢者ヘイト、そしてベビーカーヘイトや子連れヘイト。
いずれも「公的ケア」の対象となりうる人をターゲットとしたもので、「自分より得して楽してズルしてる奴がいる」といった言説だ。
その背景にあるのは、「普通に働くマジョリティ」が「病気も障害もないのであれば自己責任で死ぬまで勝ち続けてください。それができなければ野垂れ死でよろしく」という脅迫をずーっと受け続けていることがあるのではないか――。そんなことを何度も何度も書いてきた。
そんなふうに多くのバッシングを見てきたわけだが、令和7(2025)年7月、日本社会の上空には、これまでにない規模の「外国人敵視」という暗雲がどんよりと漂っている。うっすらとしたものから明確なものまでグラデーションの濃淡はあるものの、その質量は、これまでのすべてのバッシングの総量を軽く凌駕している。
しかし、言うまでもなく、日本社会はすでに多くの外国人に支えられている。今やコンビニや飲食店で働く外国人を見ない日はない。また、多くの工場や建設業や第一次産業の現場も外国人なしでは立ち行かない状態だ。
と言ったところで、「外国人から日本を守る」的な言説に乗る人たちは、「自分たちはルールや法律を守らない悪い外国人のことを言っている」「日本人に税金を使えと言っている」というのだろう。
このような動き、世界中で起きている現象というものの、日本ではもう少しゆっくりと進行すると思っていた。それなのに、空気なんて本当に1ヶ月で変わるのだ。たったひとつの「日本人ファースト」という言葉によって。
SNSでは参政党を支持する人と「危険」と言う人の間で攻防が繰り広げられている。
そんな中、参政党を支持する人たちの「理由」を多く目にして少々驚いた。
スピリチュアルや反ワクチンというイメージが強かったものの、そこには「日本の四季が美しい」「ご飯が美味しい」「景色が綺麗」といった、あまりにも「素朴」なものもあったからだ。
そうして、思った。これって、28年前に私が右翼に入った理由と同じじゃん、と。
「失われた30年」が始まった頃、北海道出身の高卒フリーターでど貧乏だった私は、この国の底辺にいる自覚があった。だからこそ、「日本に生まれた幸せ」を同じフリーターの友人たちと噛み締めていた。
蛇口を捻れば安全な水が出るし治安はいいしご飯は美味しいし、四季があるゆえの情緒や「わびさびの文化」があるし――と、日本の「いいところ」をあげつらっては、「自分たちはラッキーだ」と確認しあっていた。
そうしていたのは、「日本に生まれた」ことくらいしか自分が幸福と思えることがなかったからだと今、しみじみ思う。だからこそ、1997年の日本で、私は左翼ではなく右翼に入ったのだ(その後、2年で脱会)。
あれから、30年近く。当時と比較して日本はシャレにならないほど貧しくなった。
「経済大国」から転落し、韓国に平均賃金を抜かれ、GDPは中国、ドイツに抜かれて2位から4位となり、非正規雇用率は4割に。働いてもマトモな賃金が得られない人が多くいる中で政府はしきりに「投資」を勧め、企業も「副業」を推進。しかし失敗して全財産を失っても「自己責任」とあらかじめ突き放されている。
そんな中、「日本の良さ」を心の支えにする人々を、私は「愚か」と笑えない。あの頃、「手持ちの条件」が悪かった私は、「日本」しかすがる場所がなかった。そして28年前より、状況はより苛酷になっている。そんな「素朴さ」に触れて、あることを思い出した。
それはあるリベラル系の大学教授と話していた時のこと。昨今の右傾化的な話題になった時、その人は「出来の悪い学生ほど急に『日本はすごい』とか『日本の誇り』とか言い出す」と口にした。
「そうなんですね」と話を合わせながらも、私はちょっと傷ついていた。なぜなら、私自身、幼少期からずーっと「出来が悪い」と言われてきたからだ。
おそらく幼い頃から「出来がいい」と言われてきた大学教授は「出来が悪い」と言われ続け、自尊心を保つ術として無意識に「日本」にすがる人の気持ちはわからないだろうな、と思ったことを覚えている。
さて、共同通信の世論調査では比例投票先として参政党は自民党の次の2位にまで浮上した。
先週には、X上で参政党に投票しようと呼びかけるホストの人々の動画も目にした。キラキラした店内でキラキラしたホストたちが参政党支持を表明するのを見て、背景に何があるのかよくわからないものの、「ここまで来たんだ」という気持ちになった。
先ほどの「出来のいい」「出来の悪い」という話になぞらえれば、ホストクラブで働く人々の多くは決してエリートではないだろう。
しかし、ホストは完全に実力の世界。エリートでなくとも稼げる数少ない職種である。が、この数年「悪質ホストクラブ問題」が注目されたことにより、ホスト業界は現在、規制に苦しんでいると聞く。参政党支持を表明するポストにあった「左翼」敵視の言葉を見て、ホスト業界には「左翼のせいで酷い目に遭った」という認識がうっすらと共有されているのかもしれない、と思った。
もちろん、悪質なホストクラブに対する規制や罰則は当然必要だろう。が、参政党の台頭は、前回書いた通り、急激な時代・意識の変化による「副作用」「副産物」という側面も大いにあると思うのだ。そしてこの国で暮らす人の多数派は、エリートなどでは決してない。
さて、泣いても笑っても投開票日は目前だ。
この現実に対して何ができるのか。
現時点での結論は、「孤独に一人で考え、本気の言葉を届けること」しか浮かばない。
もちろん、連帯が必要な時はそうしたいが、この数年、「〇〇の一派のあいつが言ってる」というだけで聞く耳を持ってもらえない現実にぶち当たってきた。
そうして誰かとつるみ、「〇〇派」に属したら、弱い私はそこでの「身内受け」を気にしてしまうだろう。そして誰かの「仲間」になることによって安心し、本気で言葉を届けたい人、届けるべき人に届けることをどこかでサボってしまうだろう。
なぜリベラルの言葉がなかなか届かないのかと言えば、そういう部分を見透かされている気もするのだ。
だからこそ、崖っぷちの孤独の中で言葉を発するしかないと思っている。
ちなみにこれは私にとってそうだというだけで、他の人がそうあるべきとかまったく思っていない。ただ、今の私にとっての結論だ。
さて、今回のことをどこかで予想していたのだろうか。私は6月の都議選から、特定の政党や候補者の応援をすべて断っている。
メディア出演などとの兼ね合いもあったが、一人の書き手として、これから起こることを冷静に俯瞰して見極めなければならない気がする――そんな思いからそうしていたのだ。
とにかく、すでに空気は変わった。
デマが蔓延し、被害者意識が煽られ、それを止めるファクトが「信じたいものしか信じない」欲望の前で無力化し、「敵はこいつらだ!」という高揚の中、そこにぴったりとハマった「日本人ファースト」という言葉。
だけど、「日本人」の定義を誰が決めるのか。その線引きは、どんどんズレていくだろう。
「お前ら日本人じゃないだろ!」
10年ほど前から、デモに参加していると沿道の人からそんな罵声を浴びるようになった。それ以前は、例えば「生きさせろ」系のデモだと「デモなんかしてないで働け!」とか「うるさい!」だったのに、その頃から、安保法制だろうが秘密保護法だろう共謀罪だろうがデモのテーマは関係なく、「日本人じゃないだろ!」が罵声の言葉になった。
恐ろしいのは、その言葉を吐くのがたまたまそこにいただけの通行人であること。デモがあるからわざわざ罵声を浴びせに来たのではなく、偶然居合わせた人がそんな言葉を口にするのだ。
デモのたびにそんな言葉を浴びるようになっていた私は、一昨年、映画『福田村事件』を観た時に心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。
讃岐弁の言葉使いなどから「朝鮮人」と疑われ、暴徒化した群衆に殺害される人々に浴びせられていたのが、「お前ら日本人じゃないだろ!」だったからだ。
このようなことから、どれほど「日本人ファースト」と言われようと、そこに私は含まれないと思っている。
今、含まれていると思っている人も安心はできない。「真の日本人」の線引きはどんどんずれ、狭くなっていくと思うからだ。それだけではない。「真の日本人」と認められるためには義務も発生していくだろう。そう、時に「国のために命を投げ出すことも厭わない」などの。
さぁ、投開票日は今週末だ。
この選挙が、なんらかの「予行演習」にならないことを祈っている。