なかったことにされた被害
今から80年前、国策として実施された満蒙開拓事業により、27万人もの日本人が中国東北部へ移住した。開拓と銘うっているが、実際は現地の中国人が暮らしていた農地や家を安い値段で立ち退かせたり、あるいは略奪したりする形での入植だった。
「第二の黒川村を満州(旧満州国=現中国東北部)につくる」という当時の村長の呼び声で、600人余りが岐阜県黒川村(現加茂郡白川町)から黒川分村団として移住した。
敗戦間近になると日本人を守るはずの関東軍はこっそり逃走。27万人もの移住者が取り残された。そこにソ連軍が侵攻してきて、悲劇は起こる。
そもそも、開拓団の本来の目的が、ソ連軍の侵攻に備えた兵士と兵站の補給基地として位置づけられていたということが1934年付けの関東軍文書「満州農業移民根本方策案」に記されている。その証拠にソ連の領土に隣接する地域に開拓団は集められていて、ソ連側からも「対ソ戦争の予備兵」と認知されていた。開拓団は人間の盾にされていたのだ。
あちこちの開拓団で集団自決が起こる中、黒川開拓団は生きて帰ることを選択した。そのために取った方法が、ソ連軍に守ってもらうこと。ソ連軍は助ける見返りに、女性を要求した。村の若い女性たちを「性接待」要員として差し出すこと、それが村人全員の命と安全の引き換えとなった。
開拓団の中から18歳前後の未婚の女性たちが選出され、毎晩のようにソ連兵の相手をさせられた。年端も行かない女性たちは恐怖に震え、泣きながら励まし合った。
地獄そのものの「性接待」は二カ月余り続き、淋病や梅毒で帰国前に命を落とした女性たちもいた。運よく帰国を果たした女性たちを、今度は「汚れた者」という残酷な差別が待ち受けていた。村が女性を犠牲にして助かったことには箝口令がしかれ、長い間、世に知られることはなかった。
「いっぺんは死にました」
黒川開拓団のこの話を、私は以前にNHKのドキュメンタリーで見たことがあった。そういう事実があったことは知っていたものの、その後の話は知らなかった。
スクリーンを凝視しながら、私は苦しくなって何度もマスクを外した。
映画『黒川の女たち』では、長年タブーとされて「なかったこと」にされてきた「性接待」の被害女性たちが、帰国後もずっと連帯しつづけ、差別に耐え、共に泣き、支え合いながら生き、そして何十年もの時を経た2013年、満蒙開拓記念館で行われた「語り部の会」で、遂に佐藤ハルエさんと安江善子さんが沈黙を破る、その様子が記録されている。公の場で性暴力の事実を明かしたことにより、長い間、闇の中に葬られ、なかったことにされていた事実が明らかにされる。その後の開拓団遺族会会長夫妻の奔走、謝罪、幾重にも重なる加害と被害の歴史を刻んだ碑文の完成、そして家族や女性たちがより連帯していくプロセスは、一生消えぬ深い傷を負った人間が尊厳を取り戻していくプロセスでもあった。
「笑うことなんて考えなかった」。取材の前半では顔を出さないで語っていた当事者が、後半では顔を見せ、笑顔を見せる。
「今でも夢に出てくる。思い出して動悸がして、朝まで眠れない夜もある」
どれほど時間が経過しても、決して消えない記憶と傷に苦しむ女性たちが被害を公表したのは、ひとえに自分たちが経験したような地獄を、二度と誰にもして欲しくないという思いからだ。
「堂々と喋って、後世に残していかないかんもん。それが私らの役目」と語る当事者の女性、「あの時のことは死ぬまで、死んでも忘れない。でも、こうやって(碑文を建てることで)昔を忘れんようにしてくださるのは尊い」と手を合わせる女性の姿に、誰も絶対に汚すことなどできない高潔さを見る。
歩いて三十八度線を越えた母
私の母親は今年85歳になった。
彼女の父親、つまり私の祖父は、開拓団事業で日本人の入植が進む満州で事業を興していた。祖母は4人の子どもを育てながら銭湯をやっていたという。銭湯の顧客は主に軍人で、母の名付け親は後に消息不明となった軍人だと聞いた。
祖父の事業は繁盛していたらしく、七五三だろうか、きれいに着飾った幼い母親のモノクロ写真を、私も何度か見せてもらった。
豊かな暮らしをしていた祖父母も、敗戦後は命の逃避行をすることになった。母に名前を付け、かわいがってくれた軍人たちは、幼い母たちを見捨ててさっさと逃げていた。
逃げる直前、祖父は現地の中国人に連れて行かれたものの、無傷で戻る。祖父母は5人の幼い子どもを連れ、三十八度線を渡る。その道中、ソ連軍を恐れた若い女性たちはみな頭を丸刈りにしていたのを母は覚えている。
「誰も泣かなかった。子どもながらに大人たちの緊張を感じていたんだろうね」
上の兄二人が小さかった母と弟の手を引き、祖母が末っ子をおぶった。長い逃避行のあと、ようやく帰国船に乗れ、なけなしの食糧を食べようとすると、同乗している子どもたちにわっと囲まれる。「みんなに少しずつ分けていたら、お前の口に入れる前になくなっちゃった」と、のちに祖母が母に語ったそうだ。
集団自決ではなく生きる選択をした人たちも、旅の途中で犠牲になった。動けなくなって置き去りになる老人や、現地の人に託される子ども、命尽きて船から海に投げ捨てられる子どもなど弱い者から淘汰される、そんな選択を迫られる光景は想像を絶する。
私の祖父母は5人の子どもたちと無事に日本の土を踏むことができた。人々はそれを「奇跡」と喜んだ。しかし、築き上げた事業や資産のすべてを失い、家族全員を無事に帰すことに注力した祖父は、命を燃やし尽くしたかのように帰国後すぐに病に倒れ、亡くなった。祖母は女手一つで5人の子どもを育て上げ、大人に成長した母は前橋空襲を生き延びた父と結婚し、あの戦争の記憶を何一つ持たない私が生まれた。
一万人の新生児を取り上げた残留婦人
映画『黒川の女たち』に出会う前に、私はBSスペシャル『戦後80年 僕の日本人助産師を探して』を視聴していた。
敗戦後、旧満州で一家心中を図り、2人の幼子を失った“残留婦人”浦山あき子さんの人生を追う優れたドキュメンタリーだった。
浦山さんは戦後、助産師として中国で1万人の新生児を取り上げてきた。浦山さんに自身も取り上げられたジャーナリストの寇愛哲さんは、14年もの歳月をかけて浦山さんの人生を辿る。この番組によって、敗戦後、孤児だけでなく、現地に取り残された残留婦人がたくさんいたことを私は初めて知った。
胸が痛んだのは、歳をとってから帰国した浦山さんを待ち受ける悲しい運命だった。彼女が長い間、恋焦がれて懐かしんだ故郷に居場所はなく、名古屋で最期を迎える。
救いは戦争の被害者であるはずの中国人の反応だ。番組の最後に、彼女に取り上げられた無数の人たちが声を寄せている。奪った我が子の命と、彼女によってこの世に誕生した一万の命、それは比較できるものでは決してないが、浦山さんが生き続ける糧になっていたであろうことは想像ができる。浦山さんがとりあげた沢山の命、彼らの脈々と続く「生」は彼女の魂を慰めるだろう。
●BSスペシャル『戦後80年 僕の日本人助産師を探して』
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2025148812SA000/?capid=nte001
昔から自己責任だった日本
上記の番組を見てほどなくして、NHK映像の世紀バタフライエフェクト「ふたつの敗戦国 日本 660万人の孤独(再放送)」を視た。衝撃的な映像の数々に呆然とした。
敗戦後の引き揚げ事業で、当時海外にいた実に660万人もの日本人が日本を目指す。すし詰めの船から着の身着のままで汚れたボロを着た軍人や民間人が続々と降りてくる光景が、たった80年前に起きていたこととは思えない。
身一つで帰国を果たした人たちを、まるでお荷物のように扱う国の姿勢は、今にも通じるものを感じて、なんだ日本って元々こういう国だったんだ、と呆れるやらガッカリするやら。
番組の冒頭、いきなりポケモンGOの話題から始まったことに虚をつかれたが、ポケモンGOの開発者である野村達雄氏が中国残留婦人のお孫さんだったと知って二度驚いた。
2020年に82歳で亡くなった作詞家・作家のなかにし礼氏も満州の生まれだ。満州からの過酷な引き揚げを振り返り、「国家に3度捨てられた」と述懐している。百万枚の売り上げを記録したヒット曲「人形の家」の歌詞は、男女の恋愛を歌っているようだが、実際は見捨てられた満州引揚者の心情が込められていると番組で知った。
戦後80年。戦争の記憶が薄れる今、平和は危機に瀕し始めている。戦前、戦中のような言動が毎日のようにSNS上に溢れ、排外主義が跋扈する。デマに依存して特定の民族を排除しようとする人たちも、無邪気にポケモンGOを楽しんだり、なかにし礼が作詞したヒット曲の数々をカラオケで歌ったり口ずさんだりしているのだろう。
●NHK 映像の世紀バタフライエフェクト「ふたつの敗戦国 日本 660万人の孤独」
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024141979SA000/
「伝えていくことが生きているものの使命」
私たちの平和はおびただしい数の犠牲の上に成り立っている。戦争がなければ継続されていたはずの数えきれない平凡な日常や、青春、命や、未来……戦争はそれらすべてを断ち切り破壊する。戦争時、私たちは断ち切る側にもなり得るし、断ち切られる側にもなる。
決して美化してはいけない。戦争はただただ、むごたらしく、悲惨さしか生まない救いのない行為だ。生き永らえても、深い傷はその人の人生から光を奪う。
黒川の女たちは奪われた光を取り戻そうとした。そして、誰の光も奪ったり奪われたりしないよう、生涯をかけて重い厚い扉をこじあけた。彼女たちの不屈の願いは、世代を越えた平和への願いだ。その強い思いを私たちは絶対に引き継がなくてはいけないのだと思った。
映画の中で、93歳のヒサエさんが語った「伝えていくことが生きている者の使命」という言葉を胸に刻む。あったことを「なかったこと」にしたり、捻じ曲げて美化したりしてしまえば、私たちは同じ過ちを繰り返す。
この国で、自分も、他の誰かも、戦争や分断の犠牲にならないように、黒川の女性たち、そしてあまたの当事者たちの経験を、言葉を伝えていく。悲劇を生む火種である差別意識を知り、向き合い、絶対に火がつかないように水をまき続ける。悲劇を繰り返さないために、あったことをなかったことにする力に抗い続けていく、そんな決意を黒川の女性たちから確かに受け取った。
とても想像も及ばない地獄を生き抜いた黒川の女性たちに心からの敬意と感謝を伝えたい。私たちの未来のためにも語ってくださり、心から、ありがとうございました。忘れませんから。
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映画『黒川の女たち』の松原文枝監督のインタビューがマガジン9にも掲載されています。