この十数年、私は何をしてきたのだろう――。
参院選以降、私は深い自省の中にいる。
その理由は、もちろん参政党の躍進だ。
このような結果を予測しつつ、私は参院選投開票日直前に公開された726回の原稿にて、できることは「『孤独に一人で考え、本気の言葉を届ける』ことしか浮かばない」と書いている。
文章は、以下のように続く。
「もちろん連帯が必要な時はそうしたいが、この数年、『〇〇の一派のあいつが言ってる』というだけで聞く耳を持ってもらえない現実にぶち当たってきた。
そうして誰かとつるみ、『〇〇派』に属したら、弱い私はそこでの『身内受け』を気にしてしまうだろう。そして誰かの『仲間』になることによって安心し、本気で言葉を届けたい人、届けるべき人に届けることをサボってしまうだろう。
なぜリベラルの言葉がなかなか届かないのかと言えば、そういう部分を見透かされている気もするのだ」
自省しつつ、これまでの十数年、もっと言えば、自分が「リベラル」と分類されるようになった2006年頃からのことを振り返っている。
そもそも私がリベラル勢と認識されるようになったのは、貧困問題をメインテーマとし始めたから。そのきっかけは、同世代の「死にたい」人の多さだった。自分自身もその一人で、フリーター時代はリストカットや自殺未遂を繰り返していた。
一方、社会的な事象としては、1990年代後半頃から「死にたい若者」や「リストカット」が注目され、2003年には「ネット心中」が流行。周りからもネット心中の死者が出るだけでなく、90年代後半から2000代にかけて、多くの友人知人を自殺という形で亡くした。自殺か事故からわからないケースも少なくなかった。
そんなふうに「生きられない」同世代(当時はまだロスジェネという言葉などない)の背景には、個人的な心の問題だけでなく、何か大きな「構造」の問題があるのではないか──。そんなことを考えていた2006年、「プレカリアート」(不安定なプロレタリアートという意味の造語)という言葉と出会い、生きづらさの背景には、市場競争に勝ち抜くことのみを価値とするような新自由主義的な空気があるのではと思い至り、急に社会に目が開かれたというのが経緯である。
ちなみにこういった「なぜ我はリベラルとなりしか」というストーリーは、みんなもっともっと語った方がいい気がする。よって私は今後、いろんなところで詳しく語っていきたいと思っている。
と、そんなこんなで急に社会に目が向いた瞬間、私には「リベラル」「左派」的なレッテルが貼られるようになり、最初は非常に戸惑ったのだが、06年からの数年間は、自分の言葉が「まったくの無関心層」に届いている実感があった。
ちょうどこの頃、貧困問題は大きな注目を集めて「ブーム」のようになり、デモをすれば若年層がなんの動員もなくたくさん来た。その中には涙ながらに自分の体験を語ってくれる人も多くいた。
活動を始めた翌年の07年には私たちの世代が「ロスジェネ」と名付けられ、その翌年には秋葉原で25歳の派遣社員が無差別殺傷事件を起こし、9月のリーマンショックを受けて年末年始には日比谷公園に「年越し派遣村」が出現した。
これらのいずれの瞬間も、自分の言葉や活動が、確実に世の中の人々に届いている手応えがあった。
その実感が、いつから薄くなったのだろう。
そう思った時、スッと背筋が寒くなった。もちろん、ブームが去ったことは大きい。が、活動の中で「賛同者」が増え、また同じ方向を向く人たちとの出会いが増える中で、私はまったくの無関心層に言葉を届けることを、どこかサボっていったのではないだろうか。その中で、小手先の「ファンサ」ばかりがうまくなり、気がつけば常にどこかで「お得意様」からの視線を意識していたのではないだろうか。
そんな自分を猛烈に反省しつつ、もっともっとできることがあったのでは、という思いに参院選以降、取り憑かれている。もちろん、自分にそれほど大きな力があるなんて思ってないけれど、それでも、もう少し違うやり方ができたのでは、と。
ちなみに私は最近、参政党について書いたり話したりすることが多いのだが、「参政党について話す」「書く」こと自体が「敵を利する」行為だからやめろという声や、批判が甘いなどの指摘を受けることがたまにある。
しかし、ここまで書いたように、これからは積極的に「身内受け」しないことを自分に課していきたいのでご理解頂きたい。
ということを踏まえて、唐突だが、ここで私の知人のことを書きたい。
その人──仮にAさんとする──は、あるカルトとも言われる団体に所属している。それでも年に何度か会う機会があったのだが、コロナ禍以降、会う機会はなくなっていた。なんでもその団体の方針が変わり、外部の人との接触が厳しくなったらしい。
が、最近、私の友人がたまたまある場所で偶然、Aさんと遭遇。
「ひさしぶりー、元気だった?」と声をかけ、「〇〇さん(共通の知人)もAさんと会えなくて心配してたんだよ」と言うと、Aさんは突然、泣き出したのだという。
Aさんは、端から見ればカルト団体に所属し、バリバリに「洗脳」中の身である。が、そんなAさんの中にも深い迷いや惑いがあり、ちょうどその時が臨界点を超えそうな時期だったのだろう。それが「〇〇さんも心配してるよ」の一言で、決壊したのだろう。
Aさんの立場を考えると、長い期間カルト団体に所属し、そこ以外の居場所も人間関係もほぼない状態。そうなると、どんなに団体に疑問を持っても「離れる」という選択肢はないように思う。唯一の居場所と人間関係を失うのだ。しかも世間は自分を敵視していると思っているし、事実、敵視されてもいる。
さて、今後、コアな参政党支持者の中からも迷う人が多く出てくるだろう。そんな時、奇跡的にでも私の言葉が届いたら……という思いが私の中にはある。なぜなら私は元右翼という身。これまで、「右翼を抜けたい」という相談を受けてきたこともある。私が右翼団体にいた90年代と違い、今はそれで生活している人もいる。こうなると大変だ。右翼に限らず、なんらかのコアな支持者でそれが仕事と直結している人であれば共通する問題だろう。
これは一部のリベラルにも言えることではないか。それが生業というわけでなくとも、リベラルの人の中にはそこから抜けたら人間関係や職場に響くという人も少なくないだろう。何かの支持をやめるとは時にそういうことであり、これまで所属した場所から敵視され、味方も知り合いも一人もいない場所に放たれることと同義である。統一教会の二世が、そこしか知り合いがおらず、世の中の人は「サタン」と教えられているから逃れられないこととも共通する部分があるだろう。
だからこそ、何かの奇跡的な偶然が起きて、そんな状態の人に自分の言葉が届けばいいな……という一縷の望みがある。
よって私は、参政党については批判しつつも、支持者の人を頭ごなしに否定したりはしないと決めている(もちろん、差別やデマについて抗議するのは当然として)。右翼の時、さんざん「バカ」「無知」「愚か」と言われたことが、私を一層頑なにしたからだ。
ということで、今回は、ある本について紹介したい。ここまで書いてきたこととも十分関わるし、8月10日に放送されたNHKスペシャルの「イーロン・マスク “アメリカ改革”の深層」、また参政党の躍進とも大いに関わる一冊だ。
まず紹介したいのは、最終章の一文だ。
「右であれ左であれ、いまや穏健であることは罪になりつつある。対立する価値観や利害のあいだで可能な限りのすり合わせを試みるような態度は利敵行為とされ、敵なのか味方なのかはっきりしない者はどちらからも胡散臭い目で見られる時代である。その只中で、一体どのような思想を紡ぐことができるのだろうか」
「返り咲いたトランプや随伴するマスクの影響は、世界じゅうに広がり、リベラルな価値観を文字どおりひっくり返している。日本においても、リベラルな価値の後退がさっそくいわれている。それを歓迎する人たちももちろんいることだろう。そうした状況のなかで、たとえば、リベラルな価値観を守りたい人びとは、どのように巻き返しをはかれるのだろうか。今度はリベラルの側が抜本的な思考の転回を余儀なくされるターンにきているのかもしれない。自明だと思っていた価値が優位性を失ったときほど、その思想の強さは試されるとも言える」
その本とは、『アメリカの新右翼 トランプを生み出した思想家たち』(新潮選書 井上弘貴)。
本の帯にあるのは以下のような言葉だ。
「テック右派からネオナチまで 彼らは本気でリベラルな世界を破壊する!」
裏表紙には以下の記述。
「トランプ政権による国家改造の成否に関わらず、リベラル・デモクラシーへの不信感は決定的なものとなっている。左右両極の間で起きた思想戦争の内幕を追いながら、テック右派から宗教保守、ネオナチなどの思想家たちが、なぜリベラルな価値観を批判し、社会をどのように作り変えようとしているのか、冷静な筆致で読み解く」
本書が取り上げるのは、タイトル通り現在のアメリカの新しい右派である「第三のニューライト」。
「従来の右派とは異なりアメリカの思想的な基底である古典的自由主義にも懐疑の目を向け、よりナショナリズムを重視し、よりキリスト教的価値を重んじて、よりテクノロジーを受け入れ、より極右との親和性を強めている」人々だ。
本書はまず、2000年代からのアメリカの「文化戦争」(保守とリベラルの対立)を振り返る。
08年に誕生したオバマ政権。差別が過去のものになったかと思いきや、12年に起きた事件をきっかけに「ブラック・ライブズ・マター」の運動が起こり、17年からは「MeToo」運動が広がる。
また、2000年代にはオバマもヒラリー・クリントンも同性婚には否定的な立場だったが、オバマは12年、ヒラリーは13年に同性婚の支持を表明。15年に同性婚の全米規模での合法化となる。
こうして振り返ると、この10年ほどでアメリカの価値観が大きく変わり、それが日本にも影響を与えていることがよくわかる。
さて、そんな中で台頭してきた第三のニューライト。その中には「ポストリベラル右派」がある。
彼らの特徴は従来のニューライトと違い、アメリカの体制それ自体を批判していること。
もうひとつは、市場や企業への敵意。
「社会的正義の推進とマーケティング戦略を結びつけたグローバル企業は、自分たちの敵であるリベラルの味方である。そうであれば、従来のニューライトとは異なり、もはや企業さえ味方につけた左派との文化戦争に立ち向かうため、自分たちは国家権力にもっと全面的に依拠すべきである。(中略)そのようなポストリベラル右派にとって、理想の国家はいまやアメリカではなく、キリスト教の価値観を擁護した政策を推進する東欧の国ハンガリーである」
そう、前々回の原稿「参政党の『大躍進』と、それを『予言』するような各国の『移民排斥』の動き」で取り上げたハンガリー。
オルバン政権がありもしない「外国人問題」をでっち上げ、「移民排斥」を煽り支持率を伸ばしている実態について触れたのだが、ポストリベラル右派はそのオルバン首相と関係を深めているのである。
オルバンについての記述には以下のようなものもある。
「では、仮に企業や市場が自分たちにとって害をなすとしたら、それにかわる自分たちの守り手は誰なのか。それがまさにハンガリーのオルバンのような政治家なのである。ポストリベラルの知識人たちにとって、オルバンが魅力的であるのは、彼が非常に自覚的に、リベラリズムとは一線を画した国家のあり方を模索し、キリスト教に根差した文化や道徳を守る国づくり、とくに家族をめぐる政策や移民受け入れ拒否の方針を打ち出しているからである」
オルバンは、移民の流入に対する懸念を「大いなる置き換え」(great replacement)という言葉で表現しているのだが、この言葉の主はフランスの極右思想家、ルノー・カミュ。
この「大いなる置き換え」という言葉は2010-2020年代にネットを通じて広まり、欧米の白人史上主義者に大きなインスピレーションを与え、各地で大量銃撃事件の引き金となったという。
19年にはニュージーランドのクライストチャーチでモスクが襲撃されて51人が死亡。逮捕された男が事件前に書いた声明文には「大いなる置き換え」というタイトルがつけられていた。
同年、アメリカ・テキサス州のウォルマートで銃撃事件が起き、23人が死亡。犯人はクライストチャースの事件に触発され、ヒスパニック系の大量殺害を企図していたという。
22年にはニューヨーク州のスーパーマーケットで大量銃撃事件が発生。10人が死亡したが、逮捕された男はやはり白人が非白人によって意図的に置き換えられているという陰謀論的世界観によってまとめられた「マニフェスト」を残していた。死傷したうちの11人は黒人で、はっきりとアフリカ系を狙った事件だったという。
そんな「大いなる置き換え」という言葉を生み出したルノー・カミュは、若き日はゲイの左派知識人として知られ、68年の5月革命にも関わったというから腰を抜かした。
転機が訪れたのは、90年代なかば。人生の後半、南フランスの田園に隠棲してからのこと。南フランスのある県を訪れ、「千年の歴史のある村々がイスラームのヴェールをかぶった女性たちの存在によって大きく変容しているのを目の当たりにした」ことだというから、「久々に実家帰ったらお父さんがネトウヨに」的なことがフランスの左派知識人にも起きるという現実にめまいがするではないか。
カミュに極右への転向を促したのは、「移民たちのなかに、フランス文化を知らないばかりか、『われわれの歴史や文明』にたいして憎しみとまでは言わないまでも敵意を抱いている者がいるのを感じたとき」だという。
「長く共有された歴史や文化を、同じように切望してくれる者たちは、ある人びとの輪のなかに同じように入ることができる。しかし、自分たちはあくまでも自分たちのままであるという人びとは、他の人びとの輪のなかに入ることはできない。かれらがしようとしているのは征服であり、元の人びとに置き換わろうとしているのである」
これがカミュの言い分だが(非常に単純化すれば。詳しくは読んでほしい)、今の日本には、こういった言説があっという間に受け入れられそうな危うさがある。なんたって、「日本人ファースト」という一言で、2ヶ月足らずでここまで空気が変わったのだ。そしてカミュのように、外国人を選別する言説はすでにさまざまな形で存在している。その次に来るのは、日本人の選別だろう。
そんなカミュは、アメリカの極右たちに強い共感の念を示しているというのだから非常にやっかいだ。
さて、「大いなる置き換え」と車の両輪をなしているのが「大いなる文化の剥奪」。
唐突だが、私は参政党はこれからは、「文化」という、一見否定しにくいものを全面に押し出してくる気がして仕方ない。
ポストリベラル右派の一人である宗教保守のロッド・ドレアは、以下のように書いている。
「カミュの見解によれば、ヨーロッパ人がしてきたことは、自分たちの文化に背を向け、それを嫌悪し、あざけり、忘れ去ることだった。学校での左翼イデオロギーによって、多文化主義を推し進めるリベラルなメディアによって、さらには消費主義、経済的グローバリズム、テクノロジーの勝利によって、彼らはそうするように教え込まれてきた。カミュはこれを『大いなる文化の剥奪』と呼んでいるが、これはまさに同じ理由によってアメリカ合衆国でも起きていることである」
そのドレアはアメリカを離れ、ハンガリーのブタペストに居を構えている。
さて、本書には他にもテック右派や反中主義、移民の安価な労働力を「共通の敵」とするテクノ・オプティミストとポピュリスト、関税と移民規制強化の関係などなどについてが綴られており、もちろんイーロン・マスクや副大統領のJ・D・ヴァンスについてもページが割かれているのだが、とても書ききれないので興味がある人はぜひ読んでみるといいだろう。
ということで、なんだか考えれば考えるほどに壮大になってくることに驚いているが、「大いなる置き換え」って、下手すれば日本でもあっという間に広まりそうな気がして怖い。
参院選を経て、今、世界中で起きていることをもっともっと知りたいと、飢えるように思っている。