第51回:猫と暮らせば、犬と暮らせば。生活困窮者とペットの話(小林美穂子)

 今週、我が家の猫が全身麻酔と入院が必要な手術を受けた。
 うちにはサバ(正確にはサヴァ)という推定10歳になる雄猫と、梅ちゃん(錦松梅)という推定9歳の雌猫がいる。ともに野良出身の保護猫である。
 サバが我が家にやってきて9年、梅ちゃんが途中参入して6年が経つわけだが、もはや彼らなしの人生など考えられないほどに大切な存在になっている。
 とはいえ、生き物と暮らすのは大変だ。泊りの旅行はすべて諦めるようになった。
 経済的負担も小さくはない。夏の間中エアコンをつけっぱなしにしなければいけないし、冬は猫アンカ。障子は見るも無残に破られ、柱もドアもバリバリにささくれ立ち、週末ともなれば家中を猫の毛が舞い、鼻炎持ちの私たちは鼻水くしゃみが止まらない。撫でやブラッシングを要求されればエンドレスに続けるのが下僕の仕事だし、トイレも瞬時に片づけなければ家中が猛烈な臭いに覆われる。
 しかし、そんな共同生活ではあっても少しも苦にはならないのがペットの無敵なところだ。動物と暮らす皆さんは今「わっかるー」と頷いていることだろう。自分のおかずを一品減らしても、猫たちに幸せで、元気でいてほしい。しかし、そう思っていても、彼らが病気やケガをしてしまうことはある。

サバ猫が糸を呑み込んだ!

 神経質で、怖がりで、偏食で、人見知りなサバは、我が家にやってきた当初はストレスなのかアレルギーなのか、しばしば便に血が混じった。何度か診察も受け、アレルギーの線を消すために高価な療法食を食べさせた。
 ある時は肛門嚢が破裂していて「なんじゃこりゃーっ!!」と仰天して動物病院に駆け込み、またある時はカーテンにじゃれついてほつれ出た長い長い絹糸を呑み込んでしまったこともある。サバの口からわずかに垂れ下がっていた糸を「?」と思って、そっと引っぱってみたら、どこかに引っかかっていて引けない。すぐに病院に担ぎ込んだ。細すぎる糸はレントゲンにも映らない。胃や腸にひっかかってしまうと内臓が傷ついたり、壊死したりするという。いい年をした私は病院で大泣きした。大手術は免れない局面で、私たちは一縷の望みにかけた。自然排出である。
 翌日、サバがトイレを済ませるや否や、マッハの勢いでそのブツを回収した私は、メソメソ泣きながら庭の洗い場にしゃがみこみ、割りばしを使って検分していて歓喜の雄たけびを上げた。なんとエラい子であろうか、サバは丸まり絡まった糸をうまく排出してくれたのである。その糸が2mもの長さと知って、改めてゾッとした。無理に引っ張らなかった自分と、人の気も知らずに平然と澄ましているサバを褒めちぎった。

健康はお金には替えられないけど……

 梅ちゃんは梅ちゃんで、保護された際の不妊手術で使われた糸にアレルギー反応を起こし、お腹に異物がポコポコとできていた。そのために譲渡前に開腹手術も経験していたし、譲渡後も診察のために遠くの動物病院までタクシーを走らせたりした。
 毎年は無理だけど、2年に一度は定期健診も心がけ、異変があればすぐに病院に連れていく。ペット保険に加入しているとはいえ、認められないものもある。そして、毎日食べるペットフードやおやつは年々値上がりを続けている。

 私の世帯は決して裕福ではない。どちらかといえば貧乏だ。特に私の稼ぎが、乾いた笑いが出るほどにひどい。単身だったら到底生活できない。そんな私たちがサバと梅と暮らせるのは、周囲の協力があってこそ。私たちが買い渋るおいしいおやつを時々プレゼントしてくださる方々もいるし、有益な情報を供給してもくれるから。サバと梅を譲り受けたのちの数年は、保護猫団体が併走してくれた。
 それ以上に私たちが幸運だったのは、保護猫に特別な配慮をしてくれる動物病院が家の近くにできたことだろう。お世話になりすぎて、足を向けて寝られない。私たち夫婦だけでは乗り越えられないことが、皆さんのおかげでなんとかなり、ありがたいことにサバと梅ちゃんは今のところ元気に私たちをこき使っている。

ペット可シェルターの課題

 つくろい東京ファンドは生活困窮「者」、つまり困窮状態にある「人間」を支援する団体である。コロナ禍で貧困が拡大した際、ペット連れで家を失う人が急増したことから、必要に迫られ、ペット可のシェルター「ボブハウス」も借り上げた。
 生活保護を利用しながらペットと暮らすのは、ちっとも違法ではない。しかし、ペットがいる状態でホームレス化してしまうと、入所できる宿泊施設がないため、福祉事務所は対応に困る。結果、「ペットを処分して」という、信じられないような対応をされるのだが、そんな話を聞くたびに、この国でペットが家族の一員として認知されるのに、あとどれくらいの年月が必要なんだろうかと考えてしまう。
 ボブハウスを借り上げた当初は、猫一匹とか、犬一匹と暮らす人たちが次々に入所し、生活保護を利用して自分名義のペット可物件に移っていった。ところが、次第に課題が浮彫りになる。ボブハウスは1Kなので、人ひとりと動物一匹が限界である。それ以上の場合は受け入れができずに断らざるを得ないケースも増えてきた。
 そんなところに先日、新たな課題が発生した。厳しい酷暑の中、ボブハウスに入所している人間の方が病に倒れて入院してしまったのである。

部屋に残された愛犬

 部屋に小型犬が取り残された。
 飼い主の支援をしていた同僚が、まず部屋を快適な温度に保つようエアコンをつけっぱなしにし、犬が寂しがらないようにラジオをつけ、通いでごはんを与え、トイレの始末をしていた。シェルターは事務所からかなり離れていてアクセスも悪い。この暑い中、毎日通うのも負担が大きすぎるため、週末は私が交代してみたのだが、行ってみてこれはアカンと思った。
 それまで飼い主と密に過ごしていた犬は、部屋に一匹で取り残された寂しさで精神的に不安になっていた。ドアに鼻をつけて飼い主の帰りを待つ。私が帰ろうとすると、足にすがってクンクンと切ない声を出す。これは動物虐待に該当してしまうと思った私は、同僚たちとも話し合い、飼い主が退院するまでの預かり先を探すことにした。幸い、すぐに手を挙げてくれる人がいて、私たちはホッと胸を撫でおろしている。愛犬を心配していた飼い主さんもとても喜んでくれ、一日も早く再会すべく、治療に励んでいる。
 猫と異なり、犬を預かってくれる人が現れたのは奇跡中の奇跡で、今後同じことが起きても対応できるかどうか。課題は残る。

Iさんが捨て猫と生きた19年

 私たちが支援する人たちの中には、大家に隠れてペットを飼っていた人もいる。
 Iさんはその昔、公園で長年暮らしていた。その頃に段ボールに入れて捨てられた子猫を拾い、パー子と名付けた。支援につながり、公園からアパートへ移ったあとも、一人と一匹は寄り添うように暮らした。Iさんは生活保護費を切り詰めてペットフードや猫砂を買い、お正月にはアメ横でマグロを買って与え、新年を祝った。
 パー子も心得たもので、ペット禁止の部屋で家具を傷つけず、ほとんど鳴かず、病気もしなかった。
 Iさんは「パー子は自分の手からしかごはんを食べないから」と、支援団体が企画する一泊旅行に一度も参加しなかった。大地震があった時にはパー子を抱いてトイレに避難した。自分が体調を壊して「入院が必要」と宣告されたときも、医師の指示を拒んでパー子の待つ家に帰った。
 Iさんの愛を一身に受けたパー子は、一度も病院にかかることなく19歳の命を全うした。
 パー子が亡くなった時、Iさんはパー子を火葬するためのお金を持っていなかった。19歳にもなるのにどうしてその時のために貯めておかなかったのかと、私と口論にもなったが、結局Iさんと親しかったボランティアの方がお金を貸し、移動火葬車を頼んだ。パー子が荼毘に付される間、三人で神田川沿いに並んで座ってアイスを食べた。その夜の場面は、今でも一枚の絵のように思い出される。
 パー子が先立って、もうずいぶん経つ。Iさんは今でもパー子が入った小さな骨壺と一緒にアパートで暮らしている。

衣装ケースで飼われていた兄妹猫の話

 経済的に貧しくて、狭い部屋での一生を余儀なくされたとはいえ、私はパー子の一生は幸せだったと思っている。しかし、こんな例もある。
 生活保護を利用し、アパートではなくゲストハウスで暮らしていた男性Mさん。彼は知的障害をはじめとする複数の障害を持っていた。強面でぶっきらぼうだが、中身は子どものように純粋で、彼を見るといつも「泣いた赤鬼」という絵本を思い出した。
 ある時、ゲストハウスの管理人から電話があった。Mさんが部屋で猫を飼っている。建物中に悪臭が満ちて、他の入所者からも苦情が出ているのだという。
 様子を見に行くと、Mさんは人から譲り受けたという兄妹の子猫を、なんと衣装ケースで飼っていた。衣装ケースには新聞紙が敷かれており、おしっこでびっしょり濡れていた。部屋といわず、廊下や共同スペースに至るまで、猫の糞尿の匂いが溢れていた。さらにショックだったのは、衣装ケースが密閉されていたことだ。猫の呼気が水滴となってプラスチックの箱の内側にびっしりとついていた。
 「死んじゃうよ!」驚いた私が蓋を開けた瞬間、恐怖とストレスで凶暴化した兄猫が威嚇しながら飛び出してきて、危うく顔を引っかかれるところだった。悲惨極まる状態だった。
 私はMさんを説得し、引き剥がすように二匹を引き取った。ボランティアの方に預かってもらっている間、つてを頼って譲渡先を探し、二匹はそれぞれ無事に引き取られて行った。数カ月後、別猫のように穏やかな顔でのびのびと過ごす二匹の写真が送られてきた。
 ここまで読んだ方は、Mさんをひどいと思われる方もいるかもしれない。確かに彼がやっていたことは動物虐待だ。だけど、私が猫たちを連れていく時、拗ねた子どものように横を向いていたMさんが、最後にたまらなくなって泣き出して、キャリアーの中の猫たちに「幸せになれよぉ」と言った、そのかすれた声も忘れられないでいる。Mさんは一生懸命に世話をしていたのだ。その方法を絶望的に知らなかっただけで。

裕福でないと動物と暮らせないのか?

 自分の生活や健康を維持するだけで手いっぱいの利用者さんが子猫を拾ってしまうことは、実はよくある。そのたびに私たちは説得して猫の譲渡先を探したり、スタッフが引き取ったりしているが、同時に自問もする。
 生活困窮者はペットと暮らしてはいけないのか?
 前述のIさんも、犬を置いて入院した方も、日々の生活費を切り詰めながらペットとの暮らしを成立させていた。不測の事態は経済状況にかかわらず、誰にだって起こる。
 そもそも、ペットと暮らしてよいかどうかの判断を私たちがすべきなのだろうか。
 私たちがサバを譲り受けた時の譲渡条件もとても厳しく、「これ、全部クリアできる家庭なんてあるのかね」と思ったものだし、中には明確に差別といえる項目も含まれていた。とはいえ、動物福祉を軽視もできない。ペットは人間に依存しないと生きられないから。
 たとえば私が、ペットを心の支えにして何とか生きている人を支援していたとして、そのペットが病気の治療もされず、悲惨な衛生状態の中に置かれていたら、私はどうしたらいいのだろう。自分の中で答えは未だに出ていない。だけど、言えるのは、誰でもペットと暮らす権利はあり、どちらか一方ではなく、人も動物も健康に生きられるよう支える制度や民間の仕組みがあってもいいのではないかということだ。私たち自身も最初はそうだったように、リソース不足は周囲のサポートで解決することもある。
 動物は人間の言葉を話さないから、彼らの望みを正確に知ることは不可能だ。そんな中で、どうしたら人も動物も幸せに共存できるのかを考え続けている。そもそも動物の幸せってなんだろう。私はサバと梅ちゃんが幸せかどうかは分からない。確かなのは、彼らと暮らすことで、私とツレが幸せになっているということだけだ。
 生体販売や野良猫の殺処分のようなグロテスクで野蛮な行為が続くこの国で、そして、人間の支援すら満足に行き届いてもいないこの社会で、あまりにも高望みかもしれないのだけれど。

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小林美穂子
1968年生まれ。一般社団法人「つくろい東京ファンド」メンバー。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(岩波書店)。