9月10日、アメリカで保守活動家のチャーリー・カーク氏が殺害された。
逮捕された男性についてはまたまだわかっていない部分が多いが、事件を受けて、アメリカではもともとあった分断がさらに深まっている。
SNS上などでカーク氏の生前の言動について言及するなどしたジャーナリストや教職員が仕事を解雇されたり停職となったりと怒涛のキャンセルが続いているのだ。
事件に関する司会者の発言で、アメリカの人気テレビ番組も無期限休止の事態に。それだけでなく、トランプ大統領は反ファシスト運動の「アンティファ」をテロ組織に指定すると発表。また自身に批判的なテレビ局の免許剥奪を示唆するなど、「やりたい放題選手権」があったらぶっちぎりで優勝という無双状態に入っている。
そんなものを見ながら、あっという間に日本もこんなふうになるのだろうな、と思った。
何しろトランプ氏が大統領に就任してからわずか9ヶ月でこれほど変わったのだ。
そして日本はといえば、6月からのわずか3ヶ月で、明らかにこの国の空気は変質した。「日本人ファースト」というたった一言をきっかけに燎原の火のように広まった外国人への敵視。「敵」と見做されるのは外国人だけではない。オールドメディアやリベラル、あるいはエリートへの「唾棄すべきもの」という視線も強まっている。さまざまな場所で、これまで見えていなかった対立が恐ろしいほど可視化した。
現在が「近現代史」になる未来、おそらく「日本人ファースト」以前か以後か、という線引きが用いられるだろうほどに、この国は大きな分岐点にある。
さて、今回はそんな「分断」について、非常に考えさせられる原稿を読んだので紹介したい。
『世界』10月号に掲載された伊藤昌亮氏の「参政党『真ん中』からの反革命」だ。
読んだ人も多いと思うが、原稿ではまず、参政党のマニフェストが紹介される。
「日本人を豊かにする〜経済・産業・移民」という、排外主義的な考え方に結び付いた経済政策、「日本人を守り抜く〜食と健康・一次産業」という、農本主義的な考え方に結び付いた環境政策、「日本人を育む〜教育・人づくり」という、復古主義的な考え方に結び付いた文化政策だ。
伊藤氏はそれぞれの政策で語られる具体策の「並び」に注目し、いずれの政策でも「共感調達パート」から入り、「コア主張パート」に入ることを指摘している。
例えば経済政策だと、導入部には「“集めて配る”よりまず減税」。それが結論部では「行き過ぎた外国人受け入れに反対」、という具合だ。
ライトな支持層は、おそらく共感調達パートに惹かれて支持している。が、批判する方はコア主張パートの右派的な部分に目を向けている。
「その結果、両者の議論が噛み合うことはなかった。支持層は経済の話をしているのに批判層は憲法や人権の話をしている、という具合だったからだ」
そんな参政党が守ろうとしているのは、「真ん中」にいる人々ではないかという指摘には深く頷かされた。
真ん中にいながらも、昨今の賃上げの動きからは取り残された、どちらかと言えば「ロウアーミドル」な人々。大企業の正社員や公務員などではない人。
そんな人々に、消費税廃止や国民負担率10ポイントダウン、子ども一人につき月10万円給付、給付型奨学金の拡充、また、小規模事業者やフリーランスを守る、非正規雇用の正規雇用化、アルバイトやパートタイムで働く人々やお母さん、専業主婦を守るなどの政策が支持されたのではないか、という指摘だ。
特筆すべきは、これらの人々は必ずしも「貧困層」ではないことだ。
ここで思い出すのは、伊藤氏が使ってきた「あいまいな弱者」という言葉。私はこの言葉で生活保護バッシングなどあらゆることが整理されたのだが、「あいまいな弱者」に対するのは、あいまいでない、つまり「わかりやすい」弱者ということになるだろう。
ちなみに多くの人が「社会的弱者」として想像するのは、高齢者や障害者、失業者や女性、LGBTQ、在日外国人などではないだろうか。そのような人たちに配慮が必要だということは、社会的にも合意が取れていると思う。
その一方で、現在は「真ん中」の人たちの多くが弱者性を持っている時代だ。非正規雇用だったり低賃金だったり貯金ゼロだったり望んでも家庭を持てなかったり。
しかし、名付けられていない彼らは「弱者」とは認められない。よって、どこからもなんの支援も受けられず、「自己責任で勝ち抜け」とばかりに放置されている。
伊藤氏は、『世界』25年2月号に掲載された「『オールドなもの』への敵意 左右対立の消失と新たな争点」という原稿で、現役世代がなぜリベラルを支持しないのかについて、以下のように書いている。
「昨今のリベラル派はとりわけ多様性の視点から、マイノリティを苦しめている文化的な弱者性にばかり目を向け、彼らを苦しめている経済的な弱者性のことを気にかけているようには見えないからだ。
そうして『誰が弱者なのか』を一方的に決め、自分たちが守りたいものだけを守ろうとしているように見えるリベラル派の中に、彼らは強い権力性を見出し、さらにそこで守られている存在、すなわちマイノリティの中に『既得権益』を見て取る」
参政党は、参院選でそんな「リベラルの弱者リスト」に載っている属性をことごとく否定した。
外国人はもとより、LGBTQや発達障害の否定、高齢者を見捨てるような方針までを次々と打ち出した。
「それらは差別発言、それもレイシズム(人種差別)、セクシズム(性差別)、エイジズム(年齢差別)、エイブリズム(障害者差別)にまたがるそのオンパレードとして受け取られ、リベラル派から激しく批判されたが、しかしその実態はこうした話法、『端っこ』を切り捨てることで『真ん中』を守ることをアピールするためのものだったと捉えられる」
つまり、外国人のみならず、これまで「公的ケアの対象になる人」ばかりが「優遇」され、自分たちは見捨てられてきたと思う人たち(「真ん中」)に、マイノリティをあえて切り捨てる発言が受けた構図だ。
それほどに、「普通の日本人」を傷ませた30年という長い年月。そしてそんな「真ん中」を表現するために使われたのが「日本人ファースト」という言葉だと伊藤氏は指摘する。
しかし、「失われた30年」より前を振り返れば、そんな「真ん中」がしっかり元気な時代があった。戦後の高度成長時代だ。参政党の政策からはそんな「昭和回帰」が見え隠れすると伊藤氏は書く。
産業政策では自動車などの製造業と中小企業を重視し、農業やアニメ・漫画など広い意味での「モノ作り」を復活させ、中間層の雇用の安定を謳う。一方でグローバル金融資本主義は批判する。
「失われた30年」の間、「グローバル化と金融自由化に伴うネオリベラリズムの進展とともに製造業が衰退し、中間層が分解」することによって、「真ん中」はずっと痛めつけられてきたからだ。
「そこで苦しんでいる人々を元気づけるためには、それに先立つ1960年代以降の、いわば『元気だった30年』のイメージを示す必要がある。そこで援用されたのが、製造業と中間層を中心とする昭和的な価値観だったのだろう。
その結果、同時に昭和的な家族観、つまり家父長制や性別役割分担、『お母さんや専業主婦』などの復権が訴えられることとなる。リベラル派はそれらを『戦前的なもの』として批判したが、しかし支持者にとってそれらはむしろ『昭和的』な、どこかノスタルジックなものであり、しかもネオリベラリズム批判の姿勢に裏打ちされた、どこか親身なものだったのではないだろうか」
ここを読んで、深く深く納得した。
昭和になんて戻りたくないけれど、今の時代に苦しさや生きづらさを感じるほど、「昭和」は美化され、ノスタルジックな思いを喚起させるツールとなっている。
「男は男らしく」「女は女らしく」で、結婚も出産も女の必須科目、セクハラパワハラなんでもアリの時代なんて本当に勘弁――。
そう思う一方で、今のように「競争に勝ち続けられなくなったら餓死か自殺かホームレスか刑務所か」の4択に怯えなくていいことや、「頑張ればそれなりに報われる」時代への憧憬は、私の中にも確実にある。
それだけでなく、例えばお父さんが工場なんかで働けば、家族5人が生きていけた上、その子どもが教育だって受けられた、という過去の事実の前に言葉を失う。私も専業主婦家庭で育ったので、それが今は一部の階層にしか許されないことについて、高度成長の時代とは違うことはわかりつつも、なんだか悶々とすることもある。
なぜなら、「家で子育て」するだけでなく、「社会進出」もしている女性たちがことごとく、過労死しそうなほどに疲弊しきっているからだ。
その過酷さが、「子育てへの当事者意識の低い夫」への苛立ちとなり、愛想を尽かして離婚、なんて話もゴロゴロある。そうするとシングルマザーとして仕事と子育ての両立というさらなる無理ゲーに身を投じることとなり、「どちらも両立している上、それなりに余裕もあってそこそこ幸せそう」なロールモデルが皆無だからだ。
そんな時代に生きていると、シンプルな昭和の「良さ」もあったのでは、と思うこともある(もちろん、さまざまな問題はあるとわかった上で)。というか何よりも羨ましいのは、「今日より明日は豊かになる」とみんなが思えたことだ。それを思うと、本当に涙が出そうになる。だからこそ子どもも産めたし会社も給料を上げたのだろう。
さて、付け加えておきたいのは、殺害されたチャーリー・カーク氏も「昭和回帰」と同じようなことを主張していたことだ。事件の数日前には来日して参政党の面々とのイベントに出演しているのだから当然と言えば当然だが、女性が無理に働かなくてよくて家で子育てできる社会、昔は父親が働いてみんなを養っていたという性別役割分担的な発言の数々を知って、このような「揺り戻し」があらゆるところで起きていることの意味を改めて噛み締めた。
さて、そんな「昭和ノスタルジー」を、私は少しも笑えない。
なぜなら、私の中にもずっとうっすらとした「専業主婦願望」的なものがあるからだ。
というか、これまでフリーランスで25年生きてきて、「一人で稼いで自立して、決して大きな病気や怪我をせず、物価高騰や税金、社会保険料の負担増にも耐え、その上で老後にも備える」ことにほとほと疲れ切っているからである。これがいつまで続くのか、と50歳にもなると息切れしてきているのだ。しかも長い出版不況により、原稿料は低下の一途。以前の2倍3倍働かないと生活も維持できない状態だ。
私のような小物の立場でさえ、フリーランスは常に競争に晒されているのである。
ある意味、毎日、ひとつひとつの仕事すべてが次の仕事につながるか切られるかのテストであり競争で、そんな生活を四半世紀も続けていると少しくらい休みたくもなるけれど、「休んだらアウト」と常にもう一人の自分が耳元で囁く。
これはフリーランスに限らず、この国で生きるほとんどの人(むっちゃ金持ち以外)と共通するのではないか。
みんな必死で頑張っているのに、上がらない賃金。昭和と違って滅多に報われない努力。競争に負けたら自己責任で野垂れ死にというメッセージ。「失われた30年」の中、多くの人がそんな場所でもがいてきて、だけどどれほど抗ってもこの国の地盤沈下を止められないままここまで来た。
もうこれ以上ないというほどの剥奪感を植え付けられた果てに、突如として浮上した「外国人問題」。そして急に増えたそんな話題に触れるたびに、急速に悪化する体感治安。
6月から、私は排外主義的なものの背景にある、この国の人々の「素朴な不安」という問題をずっと書いてきたと思っている。
そんな「真ん中」=「普通の日本人」の素朴な不安はどこへ向かうのか。
これが今後の明暗を分ける大きな鍵になるはずだ。