9月下旬の日曜日、遅い朝食をとっている時にスマホが鳴った。
着信画面に「警視庁」の文字。警察から電話が掛かってくる時は、大抵、ほぼ100%が悪い報せだ。過去に支援した若者が泥酔して死ぬと言っているから保護した。迎えに来てほしいとか、高齢の利用者さんが道に迷って交番にいる。どうしたらいいですか? とか。でも、一番多く、最も辛いのは、死亡の報せだ。
「野方署の○○です。Hさんという方をご存じですか?」
Hさんは2020年、コロナ禍の緊急事態宣言下の東京で出会った人だ。
その時期、私は連日、数えきれないほどの老若男女のSOSを受けて対応していたから、いま名前を聞いてもピンと来なかったり、思い出すのに時間がかかったりする人もいる。けれど、Hさんのことはよく覚えている。反射的に下の名前が口に出る。
「お部屋でお亡くなりになっていて、小林さんの連絡先がありましたものですから」
Hさんは生活保護を利用し、つくろい東京ファンドの事務所から歩いて5分ほどのアパートで一人住まいをしていた。死後推定一カ月。猛暑の頃に亡くなったと思われた。享年64歳、死因は不明。
極度に狭いレンタルオフィスで暮らす
2020年も暮れようとしている12月28日、SOSを送ってくれたHさんと会った。翌日から役所の窓口業務は年末年始の休暇に入る。駅前のファストフード店に入り、お話を伺った。
健康状態は良好、これまでの生活保護利用歴はなし、親族とは完全に縁が切れており助けてくれる人はいない。運送会社やタクシー会社で長く働き、不況とコロナ禍の影響で失職、布団が平らに敷ききれないほどに狭いレンタルオフィスで暮らしていた。
レンタルオフィスはその名の通り、住むところではないが、アパート代の初期費用が捻出できないためにネットカフェやレンタルオフィスで暮らす人たちは多い。Hさんはレンタルオフィスの代金をいよいよ払えなくなり、路上生活が目前となったところでようやく私たちに連絡をしてくれたのだった。
「明日になったら役所は休暇に入ってしまうから、今日中に保護の申請をしましょう」。レンタルオフィスがあった自治体の福祉事務所に滑り込んだ。
扶養照会をめぐる攻防
若い女性の相談係は、とても親身だった。
質問に対して言葉少なに答えるHさんの話に耳を傾け、粛々と保護の申請手続きを進めてくれる。コロナ禍の感染拡大を防ぐため、東京都が用意していたビジネスホテルへの1カ月滞在も決まり、ようやくHさんが休むことができると2人でホッと息をついた。しかし、扶養照会でモメることになる。
Hさんは親族と関係が悪かった。30年近く連絡もとっていない親族の話になると、表情が険しくなった。ケースワーカーは「ご両親がかなりのご高齢なので照会はしないです。ただ、何かあった時のための緊急連絡先を確保しなくてはならないし、何らかの援助もあるかもしれないからご兄弟には照会しなくてはならない」と説得するように言った。
「何かあったときというのは、意識がない状態で病院に搬送されたときや、万一死亡した時です」と私が説明を補充すると、Hさんは「助けてくれる家族がいたら、こんなところに来ていない」と声を絞り出すように言い、「死んだら自分の骨なんて、その辺に撒いてくれればいい」と言い放った。こらえていたものが堰を切って流れ出たようだった。
ケースワーカーの上司も出てきて扶養照会の必要性を説いたが、こうなると私も必死だ。扶養照会の不毛性やエビデンスをまくしたてて必死に抵抗した。だって、このままだとHさんは生活保護を諦める。ようやく制度を頼ろうと思ってくれた人を手放していいのか。
上司が一度席を外した時、若いケースワーカーが苦しそうに語った言葉を私は今でも覚えている。
「私だって本当は扶養照会なんてない方がいいと思っている。照会しても実際の援助なんてほとんどないし、何より利用者さんと信頼関係を築けない。だけど、組織だから……」
扶養照会の運用が変わるのは、それから3カ月後の2021年春のことだ。
聴きとりを通じて、親族がHさんを援助する見込みはどう考えても無さそうだと判断されたためか、幸いに扶養照会はされないことになり、翌年1月7日には保護が決定、すぐにアパートを探すこととなった。
難航した下町でのアパート探し
アパートを探すために、まず当団体で携帯電話の貸し出しをし、行方不明になっていた住民票を探す手続きを一緒にした。本籍のある自治体から戸籍の附表が届くと、すぐにアパート探しを始めたが、これが意外に難航。一緒に足を棒にして歩き回ったものの、なかなかこれという部屋が見つからない。ビジネスホテルに滞在できるのは一カ月。その間にどうしても見つからなかったため、一旦つくろい東京ファンドのシェルターに入ってもらい、部屋探しを続行した。
Hさんの希望は、生まれ育った下町に住み続けることだった。しかし下町での部屋探しが実は結構困難であることを私も経験している。どうしたものかと悩む私にHさんは「住めば都だからね」と中野区で暮らすことを選んだ、というか妥協した。だけど、私はあの時無理してでもHさんが住みたい町で部屋探しを続けるべきだったのではないかと後悔している。なぜなら、私はその後、「住めば都」と彼が言ってくれた街中で、彼の姿を見ることが一度もなかったから。
支援する側、される側の関係の難しさ
人付き合いは決して得意ではなかっただろう。口数の少ない人だった。どんな話をしたのかボンヤリとしか覚えていないが、部屋探しや、様々な手続きを手伝う中で、私たちはいろんな話をしていたはずだ。一緒に喜多方ラーメンを食べた。Hさんが一カ月滞在していた遠方のビジネスホテルにも会いに行った。
私は大体バカ話しかしないので、笑い合ったりもしているはずなのだが、その表情を思い出せないでいる。夕暮れ迫る駅前で歩き疲れて一緒にタバコを吸った時の空気、シルエットになった横顔、そして、今も思い出すのは、押し殺した怒りが一瞬溢れた「自分の骨なんて、その辺に撒いてくれればいい」という言葉、その声。
Hさんが生活保護を利用するようになって2度目の大晦日に、私はつくろいのスタッフやボランティアの方々と総出で作ったお節料理と年越しそばをHさんのアパートに配達している。Hさんは不在だった。電話をしても呼び出し音がするばかり。お出かけしているのかなと思い、料理をドアにかけて帰宅した。その後、お礼の電話があったように記憶しているが、その後も、電話しても本人が出ることは滅多になかった。
生活が再建されたあとは支援者を必要としない利用者さんはたくさんいる。
いつまでも「支援する側」と「支援される側」を意識せざるを得ない関係を続けることに疲れる人もいる。そんな深読みをしたのもあるし、相談がどんどん増えて忙しくなったこともあり、私は心のどこかで気にしながらもHさんに連絡をしなくなっていった。私が必要になれば、連絡してくれるだろうと自分に言い訳をしながら。そして先月、警察署からの電話でHさんの名前を聞くこととなる。
自宅での孤独死7万6020人の現代社会
単身世帯が増えた昨今、孤独死は珍しくない。警視庁の統計によれば、昨年警察が取り扱った死者20万4184人のうち、自宅で亡くなった単身者は4割近くの7万6020人だったそうだ。
Hさんの訃報を伝える警察官は、Hさんの交友関係やご家族のことを知りたがった。
交友関係についてはさっぱり分からないが、過去の勤務先の記録は残っていた。ノートに残るHさん直筆の本籍住所は、戸籍を取り寄せた時に書いてもらったものだ。
警察の捜査の結果、事件性はなく病死ということになり、区役所が火葬の段取りを進めた。分かっていたことだが、親族はHさんを引き取るのを拒んだ。
「自分の骨なんて、その辺に撒いてくれればいい」
その言葉が頭から離れず、私はHさんのケースワーカーに連絡をし、火葬に立ち会わせてもらうことにした。
参列者はツレと私の2人だけ。遺影もない。死後日数が経っているため、ご遺体に面会はできない。棺の上に持参した花束を置く。
「余計なお世話だよ」とHさんには言われるかもしれない。だけど、私がイヤだったのだ。後悔もあった。親族や友人の情報が何一つない部屋に、私の名前と連絡先だけがあった、そのことがいたたまれなかった。
人が一人で死んでいくのは寂しい。だけど、私はその死にざまを無残だとか気の毒だとはあまり思いたくはない。選べないし、思うようにならないのが死というものだから。
死に方よりも、その人がどう生きたかを知りたい。私の知らないHさんの64年間を知りたかったと今になって思う。どんな子ども時代を送って、何を夢見て、何が好きで、何が嫌いで、どこか旅行はしたのか、映画を見て泣いたりしたのかとか、そんなことを考えている。
おそらく、辛いことばかりが思い出されるであろう疲れた顔のHさんが、人生を振り返った時に、ささやかでいいから、楽しいとか嬉しいとか、キラッとした瞬間が少しでもあって欲しい。
骨になったHさんはとても小さくて、骨壺の上の方には余裕ができていた。必死に生きてきた人の骨。私はHさんのことをほとんど何も知らない。だけど、Hさんが生きてきたことを私は覚えていよう。お疲れさまでしたと壺を撫でて別れを告げる。



