10月31日~11月2日の2泊3日で、「紅葉を見に行こうよう!」と称して、福島県内の発電の歴史を学ぶツアーを行いました。その報告です。
私は2011年8月から福島に通い、東京電力の原発事故がもたらした影響を見聞してきましたが、私が見たことを他の人たちにも知って欲しいと願って、2021年から年に2回、元放射線作業従事者だった今野寿美雄さんにガイドをお願いして「被災地ツアー」を実行してきました。そのツアーを重ねながら感じていたのは、原発が建設されるよりも以前から、福島は首都圏へのエネルギー供給地だったということです。そのことを実感するツアーとして企画したのが、今回の「福島歴史とエネルギーツアー」です。
このツアーに至る前の2022年には、「常磐炭鉱ツアー」を行いました。また私は「被災地ツアー」とは別に個人で、今野さんにお願いして水力発電所をいくつか訪ねていました。昨年の秋の被災地ツアーの2日目の夜、夕食も済んで二次会と称して古滝屋旅館のラウンジで旅館主人の里見喜生(ヨシオ)さん、今野さんと3人でお喋りをしていた時に私が、ふと「福島は首都圏の『エネルギー植民地』だと思う。常磐炭鉱から猪苗代の水力発電所までのツアーをしたいな」というと、里見さんが「いいですね」と同調してくれたのです。「古滝屋さんのマイクロバスを出してもらえますか」と聞くと「いいですよ」と答えが返りましたが、その時はそれ以上この話題は続かずに他の話題に移っていったのでした。
その後、今年春の被災地ツアー2日目、夕食後の二次会の折のことです。私が里見さんに、秋に話した常磐炭鉱から猪苗代までのツアーの話を振り向けると里見さんは、「あ、ちょうど良かった」と言ってすぐそばのテーブルにいた男性を招いて、「産業遺構の調査を仕事にしているマロさんです」と紹介してくれました。そしてマロさんにツアーの企画を話すと、もうすぐに彼は話題に乗って常磐炭鉱の遺構や安積疏水のことなど話しだしました。職業柄というよりも、好きで夢中になっている趣味のことを話すように楽しげに得意げに話すのでした。するとこうした各地の歴史にも造詣が深い今野さんも乗り出してツアー実行に向けて話は盛り上がり、会津の山々の紅葉が綺麗な時期にということになりました。秋の被災地ツアーを9月26日~28日としていましたから、それより後の金曜日から日曜日までということで、10月31日~11月2日と決めました。
計画を具体化しようと思い、8月に今野さんと里見さん、マロさんに会い、行程を確認し集合場所と時間を決めました。そしてこの時に初めてマロさんの本名を知りました。斎藤麿(オサム)さんですが、名前の文字から通称でマロさんなのでした。こうして、今野さんが言うには「いちえさんの妄想」から始まったツアーはキャッチコピーを「紅葉を見に行こうよう!」として、参加者募集に入ったのでした。チラシには、下記のように書きました。
太平洋に浮かぶ小さな島国が鎖国を解いて近代化への道を歩もうとした時、いくつか選択肢はあった中から、帝国主義国家への道を歩き出しました。欧米の列強に追いつき追い越せと“励む”には、何としてもエネルギーの確保が必要でした。こんな歴史を振り返ってみると、福島県は文明開化の時代から「エネルギー供給地」として位置付けられてきたことに思い至ります。
2011年3月、東京電力福島第一原子力発電所の事故は、甚大な被害をもたらしました。収束の目処は立っていないにもかかわらず「復興」ばかりが喧伝されて、被害が隠されている状況を、福島被災地ツアーでご覧いただいてきました。今回は、少し時代を遡って明治時代以降、エネルギー植民地であった福島を知るスタディツアーです。見学先では各地でしっかりとガイドをしていただきます。
●ツアー1日目 10月31日
12:01湯本駅着のJR常磐線で集合し、迎えのマイクロバスで古滝屋旅館へ向かい、旅館に荷物を預け手持ちのバッグだけ持って再度バスに乗車。ここからは「いわきヘリテージツーリズム協議会」の熊澤幹夫さんが同乗して車内で常磐炭田の歴史を説明した。
「常磐炭田」と「常磐炭鉱」との言い方があるが、「常磐炭田」は福島県の富岡町から茨城県の日立市まで広がる石炭鉱山地帯を指し、「常磐炭鉱」は浅野財閥の「磐城炭鉱」と大倉財閥の「入山採炭」が第二次大戦中に合併してできた会社のこと。「三星炭鉱」「岡田炭鉱」「杉山炭鉱」などと個人名を冠した小さな炭鉱群の総称でもある。この「常磐炭鉱」は後に「常磐興産」となった。
北海道の夕張炭田や九州の筑豊炭田の石炭は質が良く火持ちも良いのだが、首都圏へは運送費が嵩んだ。一方、常磐炭田の石炭は純度が低かったが東京から近いので需要が多かったという。
常磐炭田の中心地である湯本地区は温泉地でもあるが、採炭によって温泉が止まった時期もあり、炭鉱と旅館の間には確執があった。しかし、両者がよく協議して、それまで炭鉱側がただ捨てていた温泉水を旅館にパイプで引くようにして、旅館は営業を継続した。炭鉱閉山後も温泉旅館は旧坑道を利用して温泉を汲み上げ、今日に至っている。
1960年代に入ってから「石炭から石油へ」のエネルギー革命が進む中で各鉱の経営は悪化していった。その中で常磐興産が取り組んだのが、従業員の雇用の継続、地元企業との共存共栄としてのリゾート施設建設だった。炭鉱地下から湧き出る豊富な温泉水を利用して、当時の日本人が「行ってみたい外国」として1位にあげていた「ハワイ」をイメージした施設「常磐ハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)」だ。「一山一家(一つの炭鉱で働く人はみな家族である)」の精神で、労使一丸となって障壁を乗り越え、施設のオープンにこぎつけていった様子は、映画『フラガール』に見ることができる(余談だが、3年前の「常磐炭鉱ツアー」実施の折には、里見さんから参加者に事前の宿題として「『フラガール』を観てくること」、が課せられた)。
熊澤さんからこうした説明を受けながら、まずは安政2年に片寄平蔵が石炭を発見した内郷白水弥勒沢へ向かった。
みろく沢炭砿資料館(近代化産業遺産・市指定有形民俗文化財)
ここは常磐炭鉱の炭鉱マンだった故・渡辺為雄さんが自宅の敷地内に開館した手作りの資料館。為雄さんが亡くなった後、三男の秀峰さんが父親の意思を継いで管理しており、ここでのガイドは秀峰さんに代わった。
地元出身の為雄さんは戦時中には飛行兵を志願し、特攻隊員として終戦を迎えた。戦後は採掘の過酷な作業を行う「先山」に従事。後に採掘作業から離れ、石炭を坑内から搬出するトロッコの軌道管理の仕事に就いた。60年代にエネルギーは石炭から石油に替わっていき、常磐炭鉱でも為雄さんが勤めたヤマを含め閉山が相次いだ。
街は大きく変容していき、戦後間もなくには4万人近くいた炭鉱労働者は68年には8,000人に減った。他の地へ引っ越していく人が続出したが、為雄さんは地元にとどまり養鶏業を起こした。85年には全ての炭鉱が閉山し、その頃に為雄さんは養鶏業をたたみ、養鶏場を改築して資料館を開いた。ヤマで亡くなった仲間もいる。「炭鉱がなかったものとされないように、自分たちのルーツを残そう」との思いからだった。その為雄さんは、2020年に94歳で死去した。
高校卒業後に関東で生計をたてていた秀峰さんは、為雄さんが死去した2年後に自身も定年を迎えた。秀峰さんは、「無名の人々が戦後の発展を担ってきた。親父の残してくれた歴史、労働者たちの思いを守っていきたい」と、自宅のある千葉市から月の半分は「単身赴任」と称して、この資料館で過ごしている。
鶏舎だった資料館の屋根は紙にコールタールを塗って雨水を弾くようにした紙屋根だったが、現在は紙屋根の上にトタンを被せたトタン屋根となっている。熊澤さんは当時を伝える為には紙屋根のままが望ましいというが、内部の資料の保存のためには紙屋根のままでは不安で、トタン屋根としたのだそうだ。
内部にはツルハシやカンテラ、モッコ、スコップ、ヘルメットなど採炭作業時に使う道具類が所狭しと並べられてあり、坑内での写真、作業にあたる際の注意書きや日誌などの展示もある。秀峰さんはカンテラの中に燃料のカーバイドの小片を入れて、灯して見せてくれた。カーバイドは白く、石鹸のように見えた。カンテラの上部には水を入れてあり、底部に入れたカーバイドに水が落ちて発生したアセチレンガスに点火して灯す仕組みだ。子どもの頃のお祭りの屋台でもアセチレンランプが点っていてアセチレンガスが臭かったように記憶していたが、ここでのランプは全く臭わなかった。
資料館の在る敷地内の傾斜地にはトロッコが20mほどの線路の上に載っていて、その線路の途中には上下線切替線もあり、秀峰さんはトロッコを動かし、上下線の合図に使うブザーも鳴らして作業の実際を示してくれた。
山神神社と坑口
熊澤さんが、駐車場奥の木立の茂る小山の前に皆を集めた。山の上に小さな祠があり、山神さまが祀られている。坑道に入る前に坑夫たちは必ずお参りしてから入ったという。為雄さんも毎朝階段を登り神様にお祈りをしてから仕事に出たそうだ。秀峰さんも、ここで過ごす日々は、為雄さんと同じように毎朝祈るという。
山神さまを祀る山の裾に抗口がある。今は内部に入れないように柵があるが、ライトで照らして覗くと奥は下方に傾斜して先はもう、見えなかった。入り口には石炭の小片が落ちており、壁を照らすと黒い筋を描いた石炭層と土色の粘土層の断層が見える。このように石炭層と粘土層はミルフィーユのように層になって斜めに走っており、一層目のここでは黒い筋の幅は40~50cmほどだが、下の層になるほど厚くなり、第3層あたりで採炭をしたという。私たちは入り口に落ちている真っ黒な小片を拾い、資料館前に置かれたドラム缶の中で燃えている炎の上に乗せた。拾ってきた黒片には直ぐに火が燃え移り、赤く揺らぐ炎を見ながら、小学生時代の教室の石炭ストーブに思いを馳せた。
炭住
炭鉱労働者たちの住宅の多くは時代とともに、鉄筋コンクリートで多層階の団地に替わったが、ここ常磐炭田には昔の長屋様式の木造住宅、いわゆる「炭住(炭鉱住宅)」がまだ残っているところがある。そこへ通じる道も草が生い茂り、崩れ落ちそうになっていたが、かろうじて木造の平家4軒長屋3棟が残っていた。今はすっかり無人だが、私が3年前、2022年に「常磐炭鉱ツアー」で来た時には、1軒だけ、まだ住んでいる人が居た。
里見さんに聞くと、その人は今年の夏頃に介護施設に入居したらしい。住む人もないまま長い年月が経った他の玄関とは明らかに違って、つい昨日まで人の暮らしがあった玄関前には宅配牛乳の箱が置かれ、金属製の郵便受けも鮮やかな赤い色を留めたままだった。
道路を隔てた向かい側には木造の共同トイレも残っている。これも以前来た時にもあったが、その時は既にもう何年も使われていない様子だった。今回はトイレの入り口までも草が生い茂り中を覗くこともできなかった。たぶん各住居にトイレが内設されるようになって、それからこの共同トイレは用済みになっていたのだろう。
この炭住の屋根はスレート屋根だったが、常磐炭鉱ツアーの時には、炭住ではなく一般の住宅にも紙屋根の家屋があったことを記憶している。バスの中からチラと見えただけだったから、人の住居か、それとも物置か何かだったかはわからないが、火事になったらひとたまりもないだろうなと思った。
徴用工として朝鮮から日本に連れてこられ炭鉱労働者になった人も、ここには多かっただろうと考え、朝鮮人労働者と日本人と炭住は同じところだったかを熊澤さんに尋ねた。朝鮮人労働者の家族は多く居たが、朝鮮人の社宅と日本人の社宅とは別の場所にあったという。家屋の造りに差はなかったが、互いの生活習慣が違っていたから同じ民族同士で集まっていた方が便利だったということらしい。
ズリ山
夕張や筑豊の炭田では坑道を掘り進める際や選炭の時に出た岩石廃棄物を「ボタ」、それを積み上げた山のことを「ボタ山」という。常磐炭田では、これを「ズリ山」と称している。
筑豊などのボタ山は円錐形の小山だが、この地のズリ山は上部を平らにしてあった。今もそのまま残っているところは少なく、多くは公園や公共の施設などになっているそうだ。1ヶ所だけそのままの形で残っているズリ山があり、「常磐炭鉱ツアー」の折にはバスの車窓から眺めることができたが、今回はそこを通りかかった時には、右車線に大きなコンテナ車が走っていたので残念ながら見ることはできなかった。
常磐炭鉱内郷鉱中央選炭場
常磐炭田で最大最新設備を誇った選炭工場跡で、鉄筋コンクリート造りの建物が、そのまま残っていた。ここで坑外へ搬出した石炭からズリ(廃棄物)を取り除き、塊炭と粉炭をより分ける作業をしたという。それまでは人力でしていた選炭も、機械化へと移行したわけだ。外観を見るだけで、内部に入ることも、建物の下を通ることも禁じられているのは、崩壊の危険を案じてのことかもしれない。
抗口
二つ並んだ抗口の左側は石炭や資材を運ぶ「本卸(ほんおろし)」で、右側の抗口は「連卸(つれおろし)」といい、坑夫など人間を運ぶ出入り口だったという。
扇風機上屋
雨が降り出してきたのでここには寄らずに行くという選択肢もあったが、熊澤さんにお願いして寄っていただいた。
これは、坑内の空気を外へ排出するために巨大な扇風機を設置した施設だ。レンガ造りの赤い上屋は木々に覆われているが、煉瓦積みの職人技の見事さが残っていて美しい。煉瓦の大きさも通常よりも小ぶりで、また傾斜地に建てるために一部は角度を20度前後で形作った三角形の煉瓦を組み合わせている。その接合部は三角形が交互に積み重なって、見事だ。設計者と煉瓦職人の思いがピタリとあって、完成させたのだろう。
水中貯炭場、積み込み場
貯炭場は選炭場から運ばれた石炭を出荷するまで一時的に貯蔵する施設だが、石炭は空気に触れると劣化していく。常磐炭田の石炭は他地域で採掘された石炭に比べてもともと品質が劣るので、水中に貯蔵することでそれ以上の劣化を防ぎ品質を保つ目的で、水中貯炭場がつくられた。出荷時には施設下部の排出口から、炭鉱専用鉄道の線路上に停車した石炭車に積み込まれて輸送された。他地域の鉱山で水中貯炭を行っている所はなく、国内初の最先端の施設と目されたが、ここから運び出された石炭を積んだ貨車が走ると、沿線の建物や民家の洗濯物などが黒く汚れるなどデメリットも大きく、やがて水中貯炭は廃止された。他の炭鉱に普及することもなく終わった。
いわき市石炭・化石館ほるる
閉館までの30分で駆け足での見学だったが、江戸時代末期からの採炭現場の様子が等身大の人物模型で表されていて、時代を追うごとに機械化されていく様子が如実に知れた。
常磐炭鉱は温泉地帯での採炭なので、灼熱の坑内での作業だった。掘り始めた江戸時代末期は地表に石炭が表れていたが、採炭を進めていくに従って、地下へと潜らなくてはならなくなった。地下での作業のため坑内出水、坑内火災、爆発、落盤など事故の発生も多かった。作業場所の温度は異常に高かったため、他の炭田地区より多くの対策が必要だった。等身大ジオラマでは、坑内に用意された水風呂に坑夫が入っている様子も示されていた。
時代による移り変わりがよくわかったが、最初に行った渡辺為雄さんが作った私設資料館で実際の道具類などを見ていたことで、ほるるでの見学がなおよく充実したものになったように思えた。
古滝屋で
見学を終えて古滝屋に戻り、部屋割り後、夕食の時間までは温泉に入ったりおしゃべりしたりでそれぞれに自由時間。
夕食時に自己紹介をしたが、集会や裁判傍聴などでしょっちゅう顔を合わせていても名前を知らずにいた人や、今回のツアーで初めて会う人、互いに良く知り合っている人など参加者16名と里見さん、今野さん、それに後から現れたマロさんと、みんなで和気藹々と、まるで大人の遠足みたいな雰囲気で、充実の1日目を終えた。



