●2日目 11月1日
8時の朝食までは、各自自由に過ごした。5時から入浴可能なので早起きして温泉に入るのも、温泉神社に散歩に行くのも、館内の「原子力災害考証館」は7時から開館しているのでその見学も、1階のブックカフェのようなラウンジで過ごすのも、時間ギリギリまで寝ているのも、いずれも可。
朝食後は9時に出発だが、2日目以降の日程に参加できない2人は、食後にそれぞれ帰って行った。私たちは、名残を惜しみながら彼女たちを見送って出発した。
日蓮宗妙覚寺 みんなの墓
古滝屋から幹線道路を少し行った先でバスを降りて、脇道の上り坂を行くと突き当たりにお寺があった。参道脇の木立の中の1本はバナナの木で、なんと珍しいこと! 花が咲いていた。
坂道を上がった一番奥が寺院の建物で、その手前に五重の塔と石碑があった。
この五重の塔には、朝鮮からの徴用工たちのご遺骨が葬られている。「妙覚寺縁起」と掘られた石碑に、こうあった。
この地は大正初期以来数多くの遺体を荼毘に付してきたゆもと町の火葬場であった。しかるに昭和三十年代半ば近くに内郷火葬場が新設されるに至り、その機能を停止した。火葬場閉場後の跡地には煉瓦造りの窯が取り壊されず放置され、周囲には石炭殻に混じって細かな遺骨が無数に散乱していた。開山上人である寂中院日哲上人は、このような状況を放置することは人命の軽視にも繋がり、ひいては善き社会建設の障害になると憂い、同志と共に萬霊供養のため、前身である笠井の日宗教会にかわる堂宇の建立を発願した。発願の想いは、昭和四十一年秋に実を結び、山号を霊光山、寺名を妙覚寺と命名、旧火葬場に関わる有縁無縁之諸霊、並びに常磐炭鉱殉難者一同之精霊、そして常磐炭鉱朝鮮人強制連行労務者之精霊を幾久しく供養するところとした。妙覚寺の建立に際しては、残されていた煙突を当山のシンボルとして萬霊供養之塔に改装、さらに長い間野晒しであった遺骨を収集し、萬霊供養之塔に添えて築いた無縁塚に埋葬した。
これは正に、法華経帰依の精神の具現というべく、その想いの結実は、未来に向かって凛として輝き、寂としてかたられるであろうことを信じる。時を経て昭和六十二年、開山上人の遺志を継ぐ是中院日祐と有志一同は、身寄りなき人々の終の住処とする墓を萬霊供養之塔の前面に造営、五輪塔を墓石として造立した。開山の時に無縁塚に納められた遺骨は、法華経を書写した経石とともに五輪塔の地下施設の礎に手厚く再埋葬され、無縁塚は新たな装いで次代に継ぐものとなった。
四聖六道法界萬霊有縁無縁転迷開悟離苦得楽出離生死證大菩堤
露のこの身ははかなくも
仏の慈悲に抱かれて 心は同じ蓮の萼に光かがやく
南無妙法蓮華経維持 平成七年六月吉祥日
霊光山妙覚寺 第三世 是中院日祐
「みんなの墓墓誌」「妙覚寺縁起」の石碑の裏に回って見れば、そこには数多の殉難者の名が刻まれていた。多くが朝鮮人名だった。
「常磐炭鉱朝鮮人強制連行労働者之精霊を幾久しく供養するところとした」五輪の塔には菊の花が手向けられていた。私たちはその前でこうべを垂れて合掌し、山を下りた。駐車していたバスに乗ろうとした足元には、イガから弾けた栗の実がいくつも転がっていた。
「えすぺり」
今回のツアーでは、ゆっくりお土産ものを買うような時間はとれない。でも、道中の途中にあるここにだけは、必ず寄りたいと里見さんもお勧めの店が、この「えすぺり」だ。「ひだんれん(原発事故被害者団体連絡会)」の大河原さきさんの弟夫婦がやっている店で、自然食レストランと無農薬野菜や加工品を売っている。私は大切な友人が好きな、「三五八漬け」をお土産に買った。それと自分用ににんじんジュースも。にんじんジュースは、バスの中で美味しく飲んだ。
風力発電所
福島県田村市、大熊町、浪江町、葛尾村にまたがる阿武隈地域の稜線上にはズラリと46基(1基あたりの出力3,200キロワット)もの風力発電機が並んでいる。「大規模風力発電事業を通じて被災地域の復興と持続的な発展に貢献」の謳い文句で、住友商事株式会社、JR東日本エネルギー開発株式会社、一般財団法人ふくしま未来研究会、株式会社ジャパンウィンドエンジニアリング、福島発電株式会社、清水建設株式会社、株式会社大林クリーンエナジー、株式会社レノバ、信夫山福島電力株式会社の9社が共同出資した「福島復興風力合同会社」を通じて2022年から建設を進めてきたものだ。今年4月2日から運転開始された。総称「阿武隈風力発電所」、第一発電所から第四発電所まであるが、ツアーでは田村市大越町の第一発電所を目指した。
マイクロバスは山の中を行くが、途中で「万太郎山鉱山日東粉化工業(株)」の立て札があり、マロさんにどんな鉱物が採れるのか尋ねると石灰岩と答えが返った。石灰岩は炭酸カルシウムだから鉄鋼、化学、建設、農業など多方面にわたって利用されるものだ。福島は鉱物資源も豊かな地域なのだと、改めて思った。
道はさらに上って行き、進みながら風車が見え隠れしていたが、稜線に登り切ると、大きく真白い風車が並んでいた。バスはその1基の近くで停車し、私たちは降りて近々風車を見上げた。足元には野菊が咲いていた。
以前に建設中の吾妻山の風力発電を見に行った時、羽根の長さは50メートルと聞いた記憶があるが、見上げているこの風車も同じ規模に思えた。円筒形の支柱に身を寄せると、プルプルと細かい振動が伝わって心地が悪い。青空の下、風を受けて回っている3枚羽根を見上げながら、クマタカを思った。渡り鳥たち、この空を無事に渡っていけるだろうか。「鳥たちに影響があるだろうな」と呟いたのを里見さんが耳にして、「そのことをみんなに話します」と言った。
「僕の友達で古滝屋にもよく来てくれるご夫婦がいて、いつもトン子っていう名前の猫を連れて旅行している人たちです。すごく行儀が良い猫で、おとなしく可愛い子なんです。ある時友達が風車を見たいと言ってここに来たのですが、トン子が車の中で暴れ出してぐるぐる走り回ったり窓にぶつかったりで、とにかく戻ろうと言ってここを離れたらトン子はおとなしくなりました」
里見さんの話を聞いて、「それって、低周波の影響だと思います。低周波被害で野生動物がそこから移動してしまった話を聞いたことがあります」という声も出て、私は頷いてそれを聞いた。風力発電は人だけが、自分たちにメリットがあると思っているだろうが、動物にも虫にも、地上の生き物、地中の生き物、空を飛ぶ鳥たちにも、良い影響など何もないだろうと、私は思う。
紅葉の山を見ながらバスは下って行く。木々の葉隠れに赤い色がチラと見え、目を凝らすとガマズミの実だった。三叉路に出た。右の道も左の道も道の左右には人家がある生活道路だ。私たちが降りてきた道だけが左右には生活の気配が無い道だった。つまり辿ってきた道は、風車を建設するために造成された道なのだ。1枚が50メートルもある羽根、支柱はそれよりももっと長い。こんな大きなものを運び上げるために道を作った。道を作るのに、山の木々は伐採、抜根された。風を受けて緩やかに羽根を回す風車はメルヘンチックかもしれない。が、環境破壊の申し子だ。
あぶくま洞
車窓に白い山肌を見ながら進む。マロさんが「石灰岩です」と言う。芝生の敷地の中に、パラシュートや救命具を作っている藤倉航装株式会社の工場が建ち、その先の建物の外壁には「田村BE」と大きく表示されていた。バイオマス発電所だ。バイオマス発電所建設にあたっては、地元では煙突のバグフィルターで除去しきれない有害物質を案じて、反対の声もあったというが、こうして建設され稼働している。
道の分岐点に「あぶくま洞」の表示を見たが、バスはそこを曲がらずに先に進んだ。白い山肌はまだ続いた。ここ、滝根町神俣(カンマタ)は石灰の産地で、この辺りは田村市産業団地となっていたが、今はセメント工場は撤退した。地元の商店は寂れていたが、自衛隊基地があるのでそこからの需要がある商店だけがかろうじて生き残っている感じだった。
あぶくま洞には寄らなかったが、マロさんが「すごいところですよ。一度行ってみられるといいですよ」と、しきりに言う。総延長が3000メートル以上もの入水鍾乳洞だそうだ。
私はチベットのダク・ヤンゾンの洞窟巡りを思い出した。ダク・ヤンゾンは、洞窟入り口まで梯子で登って入り、身をくねらせないと進められないようなところもあった。そこは縦型の洞窟だからよじ登ったり、にじり下りたりの箇所も多く、また途中には地下水が溜まった箇所もいくつかあり、そこを渡る。結構ハードな探検気分を味わったが、そこへ行くことは「巡礼」とされていた。
あぶくま洞は入水鍾乳洞だから、そんな過酷さは要求されずに楽しめるのだろう。いつか行けたらいいな。
白河以北一山百文
山間の集落を見ながら郡山への道を辿る。屋根の棟上に高窓(ヤグラ、ウダツ)をつけた家屋を散見した。換気のために高窓をつける家屋は養蚕農家の特徴だから、マロさんにこの辺りは養蚕もしていたのかと確かめると、養蚕と葉タバコ栽培をしていたと答えが返った。そんな山村風景を見て過ぎるうちに、郡山市内へと入った。
商店やコンビニ、ガソリンスタンドの並ぶ通りを行き、バスが停車したのは洒落た玄関口の建物の前だった。マロさんの友人が管理しているワーキングスペースだという。土曜日は休館なのだが予め話をつけてくれてあって、そのスペースをお借りしてお弁当をいただいた。マロさんと里見さんの手配での仕出しのお弁当は、とびっきり素敵なお弁当だった。
昼食後は会津へ向かう。紅葉の山や刈田の里の風景を眺めながら行く。何の話題からだったのか、今野さんが「河北新報」の紙名のことを話し出した。東北は明治維新以降「白河以北一山百文」と軽視されてきたことを跳ね返そうとの気概から、「河北」としたのだと。「福島民報」「福島民友」の地元2紙よりも「河北新報」の方が原発関連記事は、より被災者に寄り添った内容だと私も感じていた。「まつろわぬ民」を自ら宣言する、気概ある命名だと思う。
「白河以北一山百文」を考える。戊辰戦争の折に官軍の高官が言った言葉だとされている。その真偽はわからないが、その言葉から私は貨幣経済のみを是とする思考法の流れは今も連綿として続いていると思う。
私が福島県に通うようになったのは原発事故後のことだ。初めのうち私は、経済的に貧しい地域に札束の力で原発誘致に頷かせたと思っていた。でも通い続けて、人々が原発事故で避難生活に入る以前の話を聴き、また彼らの暮らしていた地を訪ね歩くと、そこは貨幣に換算することの出来ない実に豊かな地域だったことを思い知った。
季節ごとに自然界からの恵みがあり、それを大切にする地域の人々の繋がりがあった。原発事故が、そうした豊かさを全て奪ってしまった。「白河以北一山百文」の言説が、大切なことを見えなくさせていたのではないか。いや、福島に通うようになる前の私自身が、この言葉に毒されていたと思う。「貧しい地域がお金の力を頼りたくて原発を誘致した」と思い込んでいたのだから。
白鳥の飛来
郡山から会津へ向かう道すがらの水を張った刈田に、白鳥が飛来していた。やがて渡ってくる白鳥のために、収穫後の刈田に水を張って待つ人がいる。野の生き物と人の暮らしが、こんなふうに結び合って晩秋の景色を作っている。白鳥はその先の小さな水辺にもいた。白鳥たちはここで一冬を越すのか、それとももう少し先に行って冬を越すのか。私は以前に南相馬や浪江町、福島市内でも何度か白鳥の群れに会ったことがある。
紅葉し始めている会津の山並みに目を取られながら行く。青い空の下に、磐梯山がおおらかな山容で立つ。磐梯山から流れ出る長瀬川などの水をたたえて、南に猪苗代湖が空を映して広がる。
ぽかぽかプロジェクト
今野さんがマイクを手に「ぽかぽかプロジェクト」のことを話した。NGO「FoE Japan」が続けている保養活動のことだ。福島の子どもたちが野外でのびのびと遊べる場、被曝について母親たちが語り合える場、そんな拠点を作りたいとFoE japanは猪苗代の元ペンションを借りて「ぽかぽかハウス」を開いた。近場での週末保養だけではなく、地元のお医者さんが相談にのったり、被ばくの低減や免疫力の増加についてアドバイスをしたり、身近な場所の放射線量の測定結果をもとに議論したりと、お父さんやお母さんが同じ悩みを抱える仲間と語り合い、子どもたちが生きる力を身につける場にもなっている。
春・夏・冬の保養活動では、今野さんも息子の颯人(ハヤト)君共々、ボランティアとして関わっている。颯人君と同じように、最初の頃はぽかぽかで遊んでいた子どもが成長して保養活動のボランティアとして小さな子どもたちの面倒を見るようにもなっている。
猪苗代湖の電力が東京に送られるようになるまで
猪苗代湖から流出する日橋川(ニッパシガワ)が途中の喜多方で阿賀川(地元では大川とも呼ぶ)と合流し、新潟県内に入ると阿賀野川となる。日橋川水系には猪苗代湖と会津盆地の落差を利用した猪苗代第一発電所など6発電所がある。
猪苗代湖は、磐梯山や吾妻連邦の雪解け水を海抜514mもの高所に湛える。唯一の流出口の日橋川は、会津盆地に至る十数キロの間に300mの落差があり発電に有望な地点だったが、電気工学が発達していなかった時代は需要地との距離がありすぎ、経済的に送電する方法もなく、灌漑用貯水地として利用されるだけだった。
しかし1899(明治32)年、安積疏水を利用した郡山絹糸紡績の水力発電の成功に刺激され、1905(明治39)年、現在の猪苗代第四発電所地点で発電して会津一円に電灯・電力を供給する計画を、石田千之助ほか7名が発案して東北電力株式会社を設立。水利使用願を福島県知事に提出し翌年許可された。この年、アメリカで100kV高圧送電に成功したことで、230km離れた東京まで送電できる状況を迎えた。
これに着目した仙石貢、白石直治が財界の渋沢栄一らを説き、猪苗代第一、第二、第三地点の水利権を得て、猪苗代水力電気株式会社を創立した。猪苗代水力電気株式会社は東京電燈と契約を結び、猪苗代第一発電所の出力全てを東京電燈に供給することになった。送電線路はだいたい鉄道に沿い、猪苗代発電所から山間部を通って白河を経て、東京の田端変電所まで224kmを送電した。送電の鉄塔は、関東大震災時にも倒れなかったという。
猪苗代第一発電所・猪苗代第二発電所
出力62.400kwの猪苗代第一発電所は、1914(大正3)年に使用開始された。改造工事によって、使用水量に変更はないものの出力は8,900kw増加した。
猪苗代第二発電所は出力37.500kwで、1913(大正7)年に使用開始した。
第一発電所・第二発電所の建物は、東京駅や日本銀行を設計した辰野金吾の設計による。煉瓦造りで、どちらも美しい建物だ。第二発電所は建設当時のままだという。
当初は猪苗代水力電気株式会社だったが、第二発電所建設後の1923(大正12)年に東京電燈に合併した。これが後の東京電力に繋がる。今回見学したのは第一発電所と第二発電所だけだったが、猪苗代湖の湖水を利用した15水力発電所群(猪苗代第三発電所、猪苗代第四発電所、日橋川発電所、金川発電所、小野川発電所、秋元発電所、沼ノ倉発電所、戸の口堰第一発電所、戸の口堰第二発電所、戸の口堰第三発電所、沼上発電所、竹之内発電所、丸守発電所)が、戦前戦後の日本の経済を支え続けた。
会津電力
トイレ休憩にと、磐越西線の磐梯町駅前で停車し、駅のトイレを借用。駅舎は可愛らしい木造の建物だった。磐梯町を過ぎるとその先は喜多方市になる。塩川町などのように地名に塩がつくところが多いが、かつて(と言っても古い古い大昔のこと)海の底だったのが隆起して現在の地形になったため、会津では塩を産する。「山塩」と呼んでいるという。
バスの中でマロさんや今野さん、里見さんたちから「会津電力」の話を聞いた。喜多方市に本拠を置く会津電力は、「原子力に依存しない安全で持続可能な社会作りと会津地域のエネルギー自立を目指す」として立ち上げられた電力会社だ。創業者は、当地に1790(寛政2)年から続く造り酒屋の9代目を継ぐ佐藤彌右衛門さん。福島で作られた電気の大半が首都圏へ送られるのでは原発と同じ構図だと言って、太陽光、小水力、熱エネルギー、風力、木質バイオマスなどで発電をし、大和川酒造の酒蔵の屋根にも太陽光パネルを備えている。首都圏向けに発電している猪苗代発電所の水も、元を正せば福島に降った雨や雪だから、その水を使えればエネルギーの自給自足はできるという。
今回は、実際に会津電力を訪問する時間がなかったのが残念だった。いつか訪ねてみたいと思った。
切立橋(きったてばし)
この鉄橋は、元は九州鉄道(現JR九州)鹿児島本線の矢部川に架けられていた。当時の日本の製鉄技術はまだここまで至らず、1890(明治23)年にドイツで製造されたものを輸入して用いたという。
鉄道橋としての現役引退に伴い1921(大正10)年に、この地に架橋。猪苗代第四発電所の建設資材運搬用に使用され、水力電源開発の歴史を支えた。第四発電所は、1926(大正15)年に使用開始した。切立橋は、近代化産業遺産として貴重な存在の橋だ。
片門ダム(かたかどダム)
東北電力が只見川に4基建設した内の一つ。所在地は会津坂下(バンゲ)町。1952(昭和27)年に着工し1953(昭和28)年に竣工した。只見川本流の最下流に位置し出力57,000kw。設計者は平井弥之助で、彼は女川原発の設計もした。
東北電力の会長だった白州次郎は、発電所完成に際して「この発電所の完成は地元の人々の理解ある協力と東北電力従業員の不抜の努力なくしては不可能であった。その感激と感謝の記録にこれを書く。白州次郎」と記した石碑を建立している。また他の3基の内の柳津発電所(柳津)の完成時にも同じ文言の石碑を建て、上田発電所(金山町)完成時には「建設に尽力したみなさん、これは諸君の熱と力の永遠の記念碑だ 上田発電所竣功に際して。白州次郎」、本名発電所(金山町)には「本名発電所の竣功に際して 遠隔の地で幾多の不便を忍び建設運営に邁進しつある東北電力社員の家族に対して心からの感謝を捧げる。白州次郎」の石碑を建てている。白州次郎の人柄が窺える。これらの施設は2023(令和5)年、只見川ダム施設群として土木学会選奨土木遺産と認定された。
また、これは白州次郎が建立したものではないが、近くにはダム建設に携わって殉職した受刑者を悼む石碑もあった。只見川は戦後、復興と経済成長のために東北電力などが次々とダムを作ったが、その工事には囚人が駆り出された。急増のバラックの宿舎で起居し、冬季は積雪3mにもなる地での作業は凍傷や怪我も多かっただろう。発破の爆風を受けたり、転落したりして死亡者も出た。また岩石に体を挟まれて骨折などの怪我を負い、障害が残った人もいた。
こもれびバイオマス発電所
会津坂下町に入って「こもれびバイオマス発電所」の前を通った。建物とその表示を見ただけだったがこれは、東京産業株式会社、株式会社東京エネシス、株式会社北越マテリアル、株式会社SHICHIJOという4社の合同会社で、国産木質チップを燃料に出力7100kwを発電する。発電全量を東北電力ネットワーク株式会社に売電している。
盛りだくさんだったこの日の見学を終えて、あかべこ伝説発祥の地である会津柳津温泉に着いた。道の駅に寄ってお土産などを買ってから、その日の宿「花ホテル滝のや」に入った。



